胸騒ぎ
その日から、蓮は無意識に数えるようになった。
事故の日。
七月十五日。
今日が何日目なのか。
三日目。
四日目。
五日目。
カレンダーを見るたび、胸がざわつく。
理由は分からない。
けれど、何かが期限付きだと、本能が告げている。
息を吸うたびに、見えない砂時計の音がする気さえした。
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放課後。
教室の窓から入る風が、少しだけ涼しくなっていた。
蝉の声は相変わらず強いのに、どこか単調に聞こえる。
夏が騒がしく続いているのに、心だけが置いていかれる。
雫が机に肘をついて、こちらを見た。
姿勢が崩れない。肘をついているのに品がある。
指先がきれいに揃っていて、仕草が静かだ。
雫の家の躾がそのまま形になったように見える。
「今週末、夏祭りがございますよね」
言い方がやっぱり丁寧だ。
それだけで俺は背筋が伸びる。
心臓が跳ねる。
「あるな」
雫は少しだけ視線を落としてから、また上げた。
決意するみたいな間。
「よろしければ、ご一緒していただけませんか」
一緒に行かない?ではなく、ご一緒していただけませんか。
言葉が柔らかいのに、胸に重く落ちる。
教室のざわめきが遠くなる。
頭の奥で鈴が即座に言った。
「行って。今すぐ行ってって言って。断ったら私、拗ねる」
声は甘い。けれど弱い。
前みたいな弾みがない。
俺は一瞬だけ迷う。
怖い。
楽しい約束をして、その日に鈴がいなかったら。
俺はまた何もできなくなる。
雫の前で固まって、取り繕って、逃げるだけになる。
「蓮くん」
雫が覗き込む。
目がまっすぐで、優しい。
俺はゆっくり頷いた。
「行く」
雫がぱっと笑う。
控えめなのに、嬉しさが溢れてしまったみたいな笑顔。
その笑顔を見て胸が温かくなる。
同時に、罪悪感みたいなものが芽を出す。
喜んでいるのに、どこかで誰かを裏切っている気がする。
鈴が少しだけ黙る。
やがて、いつもの調子を作るみたいに言った。
「浴衣、絶対似合うよ。雫ちゃん、お人形さんみたいになる」
「まだ着てないだろ」
「雰囲気で分かる。似合うやつは似合う」
軽口。
でも呼吸が浅い。
俺は机の下で拳を握る。
強く握っていないと、どこかに崩れそうだった。
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帰り道。
夕方の空が少しだけ赤い。
雲の端が燃えている。
夏が自分の熱に飽きて、ゆっくり色を変え始めたみたいだ。
「鈴」
「なに」
「夏祭り、行っていいよな」
質問の形をしていない。
俺は誰かの許可がないと動けない。
情けない。
ほんの少しだけ長い間。
鈴が笑う。
「私に許可取る必要あるの。かわいいね、蓮」
俺は言葉に詰まる。
鈴は続ける。
「行きなよ。楽しんできなよ。雫ちゃん、勇気出して誘ったんだよ」
その言い方が妙に静かで、胸がざわつく。
「お前は」
俺は言いかけてやめる。
一緒に行けるのか、と聞きたかった。
でも怖くて聞けない。
鈴は察したように、少しだけ柔らかく言った。
「出られたら出るよ」
確約じゃない。条件付きだ。
胸が締めつけられる。
なぜか、喉の奥が苦い。
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夜。
日記を開く。
《夏祭り行くことになった》
ペンを置く。
少し待つ。
沈黙。
心臓の音だけが響く。
やがて、ゆっくり文字が浮かぶ。
《よかったじゃん》
線が細い。
《雫ちゃん、浴衣似合うよ絶対》
その下に、小さく。
《ちゃんと手引いてあげなよ。迷子にしないでね》
鈴らしい。
甘くて、世話焼きで、少しだけ照れ隠しの言葉が混ざっている。
俺は喉を鳴らす。
《お前も来いよ》
強く書く。
インクが滲む。
返事が来ない。
十秒。
二十秒。
三十秒。
不安が胸を覆う。
「鈴」
声に出す。
やっと、文字が浮かぶ。
《行けたらね》
行けたら。
俺は日記を閉じる。
ベッドに倒れ込む。
天井がぼやける。
「鈴」
「なに」
声はある。
だが今までで一番遠い。
「消えるなよ」
初めて、はっきり言った。
沈黙。
長い。
やがて鈴が小さく笑う。
「蓮、怖がりすぎ」
いつもの言い方。
でも声の底が揺れている。
そのあと、ぽつりと。
「できるだけ、いる」
できるだけ。
その言葉が重く落ちる。
保証がないという意味に聞こえて、胸の奥がじわじわ冷える。
外で風が吹く。
風鈴が鳴る。
ちりん。
妙に頼りない音に聞こえた。
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翌日。
朝、目が覚める。
一瞬、何も感じない。
静かすぎる。
「鈴」
呼ぶ。
返事がない。
心臓が跳ねる。
「鈴」
もう一度。
長い沈黙。
部屋が空っぽに感じる。
胸の奥が冷える。
喉が乾く。
「おい」
かすれた声。
返事はない。
耳鳴りがする。
頭が真っ白になる。
消えたのか。
まだ一週間も経っていない。
そんなはず。
そのとき、かすれた声が遠くから届いた。
「なに」
弱い。今までで一番弱い。
「寝てただけ」
呼吸が荒い。
「ちょっと、深く」
俺はベッドの端を強く握る。
「大丈夫か」
「平気」
即答。
でも声は震えている。
俺ははっきり悟る。
この夏は削られている。
一日ごとに。確実に。
もし鈴が消えたら。
俺はどうなる。
雫と夏祭りに行く。
手を引く。
笑う。
キスだってするかもしれない。
けれど、そのとき鈴がいなかったら。
胸が締めつけられる。
俺は初めて、はっきり恐れた。
鈴を失うことを。
そして、まだ言葉にならない感情が胸の奥でゆっくり形を取り始める。
それが何なのか、まだ名前を付けられない。
窓の外で蝉が鳴く。
その声が、昨日より少しだけ短く感じた。
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七月二十日。
カレンダーに丸をつける。
事故から五日目。
数えたくないのに、指が勝手に日付を追う。
鈴はいる。
いるけれど、声の輪郭が日に日に薄くなっている。
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教室。
雫がスマホを見せてくる。
「浴衣、どれにいたしましょう」
画面には色とりどりの柄が並ぶ。
淡い水色。白地に朝顔。紺に金魚。
雫は指先で画面をなぞりながら、真剣に悩む。
その悩み方まで丁寧で、俺は変に見惚れてしまう。
「どれがよろしいと思われますか」
蓮は一瞬、答えに詰まる。
鈴の声がすぐには出てこない。
数秒。
「水色」
やっと鈴が言う。
かすれ気味。
「雫ちゃん、明るい色のほうが似合う。透明感あるから」
俺はそのまま口にする。
「水色、いいんじゃないか」
雫がぱっと笑う。
「やはり、そう思われますか。嬉しいです」
笑顔が、いつもより少し近い。
その瞬間、胸がじわりと温かくなる。
同時に、鈴の気配が一瞬ふっと遠ざかる。
空白。
ほんの一瞬。
けれど、はっきりとした空。
「鈴」
「いる」
小さい。細い。
今にも切れそうな糸みたいな声。
俺は机の下で拳を握る。
何も言わない。言えば壊れそうだから。
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放課後。
隼人が廊下で待っていた。
サッカー部帰りの汗の匂い。
相変わらず、周囲の女子がちらちら見る。
隼人はそういう視線に慣れた顔をしている。
「蓮」
真面目な顔。
「最近、顔色悪い」
図星だ。
「別に」
「鈴のこと、まだ引きずってるだろ」
胸が跳ねる。
鈴は静かだ。
珍しく何も言わない。
「まあ」
曖昧に返す。
隼人はしばらく黙ってから、ぽつりと言う。
「俺さ」
珍しく視線を逸らす。
「ばあちゃん亡くなったとき、聞いたんだ」
俺は顔を上げる。
「四十九日までは近くにいるって」
その言葉が重く落ちる。
四十九日。
数字が脳裏に焼き付く。
事故は七月十五日。
今日は七月二十日。
五日目。
計算が勝手に始まる。
九月初旬。
夏が終わる頃。
喉が乾く。息が浅くなる。
鈴の気配が、びくりと震えた。
「何でそんな話」
無理やり軽く言う。
隼人は肩をすくめる。
「なんとなく。思い出しただけ」
それ以上は言わない。
だが十分だった。
隼人が去ったあと。
廊下の窓から風が入る。
どこかで風鈴が鳴る。
ちりん。
蓮は、ゆっくり心の中で呼ぶ。
「鈴」
沈黙。
長い。
やがて、かすれた声。
「なに」
震えている。明らかに。
「四十九日って」
言いかけて、言葉が喉に絡む。
鈴はしばらく何も言わない。
沈黙が痛い。
やがて鈴は小さく笑う。
「迷信でしょ」
軽く言う。
でも、その声は今までで一番薄い。
「気にしすぎ」
即答。
けれど間があった。
俺ははっきり理解する。
鈴は知っている。
自分が消えるかもしれないことを。
最初から。
だから焦っていた。
だから時間ない気がすると言った。
胸の奥が強く締めつけられる。
「鈴」
「なに」
「お前、知ってたのか」
沈黙。
長い。
やがて鈴は小さく言う。
「ちょっとだけ」
声がもう、無理に明るくしていない。
「なんとなく、分かってた」
視界が滲む。
怒りでもない。悲しみでもない。
ただ、どうしようもない焦り。
「なんで言わなかった」
声が震える。
鈴は静かに答える。
「言ったら、蓮が動けなくなるでしょ」
その通りだ。
今ですら、足が震えている。
「だから、楽しくさせたかった」
その一言が胸に刺さる。
「ふざけんな」
思わず言ってしまう。
「なんでお前が」
声が詰まる。
鈴は少しだけ優しく言う。
「蓮」
その呼び方が柔らかい。
「蓮が幸せなら、私それでいい」
息が止まる。
廊下の光がやけに眩しい。
四十九日。
まだ確定じゃない。迷信かもしれない。
でも。
胸の奥で確実にカウントが始まる。
七月十五日。
八月。
九月。
夏が終わる前に。
鈴は消えるかもしれない。
胸の奥で何かが軋む。
まだそれが何か、俺は分からない。
でも確実に、失いたくないという感情が形を取り始めていた。
遠くで風鈴が鳴る。
ちりん。
その音が澄んで、そしてどこか儚く響いた。




