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夏が終わる前に、君は消える  作者: きなこもち
夏が終わる前に、君は消える

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入れ替わり


夜は思ったより早く更けた。


ベッドに横になると、身体の疲れが一気に押し寄せてくる。

今日一日で、いくつ分の感情を使ったのか分からない。


鈴がいるという現実。

雫と並んで帰った時間。

日記に残る文字。

全部が混ざって、頭の中が重たい。


「蓮」


鈴の声が、柔らかく響く。


「なに」


「ちゃんと歯磨いた?」


「磨いた」


「嘘。左奥、ちゃんと磨けてないよ」


俺は無意識に舌で奥歯を触る。

確かに少しざらつく。


「うるせえ」


「ほら。言ったでしょ」


鈴の笑い声が近い。


安心する。

怖いのに、安心してしまう。


鈴が少し間を置いて言った。


「明日さ、雫ちゃんともっと話しなよ」


「急すぎだろ」


「急じゃないよ」


鈴の声が、少しだけ甘くなる。


「だって、もったいないもん。今日だって頑張れたのに、すぐ引っ込もうとするから」


「俺はそういうの無理なんだよ」


「無理って言う顔が、いちばんもったいない」


言い切られて胸が痛い。


「時間ないんだよ」


鈴の声が少しだけ沈む。


時間ない。

その言葉が引っかかる。


「なんでだよ」


鈴は少し黙る。


それから、軽く言う。


「分かんない。でも、そんな気がする」


胸がざわつく。

俺はそれ以上追及しない。追及したら、鈴の声の温度が変わってしまいそうで怖い。


「寝なさい」


鈴が言う。


「明日も学校。朝は私が起こすから」


「頼んでねえ」


「頼んでなくてもやる」


可愛く言い切るのがずるい。


「おやすみ、蓮」


「おやすみ」


目を閉じる。

蝉の声が遠くなる。

意識が沈む。


---


目を開けたとき、最初に感じたのは光だった。


やけに明るい。眩しい。

カーテンが開いている。


俺は昨日、閉めたはずだ。


身体を起こす。

頭が少し重い。


時計を見る。七時二十分。

寝坊はしていない。


だが、何かがおかしい。


部屋が微妙に整っている。

昨日脱ぎ捨てたはずのシャツがハンガーに掛かっている。

机の上に置いたままだったラムネアイスの袋が、きちんと捨てられている。


そして日記帳が開いている。


嫌な予感がして、ゆっくりと近づく。ページをめくる。


そこには見慣れた丸い字。


《アンタ寝すぎ。目覚まし三回止めたよ》


背筋に冷たいものが走る。


俺は覚えていない。

三回も止めた記憶がない。


「鈴」


呼ぶ。


沈黙。


胸がざわつく。


「鈴」


もう一度。


数秒後。


「なに」


いつもの声。少し遠い。


「昨日、出たのか」


「うん」


あっさり。


「アンタ寝てたから。私が片づけたし、カーテンも開けた」


俺はベッドの端に腰を下ろす。


「俺、覚えてない」


「そりゃそうだよ。入れ替わってるんだから」


入れ替わる。

その言葉がはっきり形になる。


冗談じゃない。

俺の身体が俺じゃない時間がある。


怖い。

でも、鈴なら大丈夫だと思ってしまう自分がいる。

その甘さも怖い。


「変なことしてないよな」


「してない。むしろ助けてあげてる」


誇らしげな声。


「朝ごはん食べなさい。昨日、ほとんど食べてないでしょ」


「お前、俺の母親か」


「違うけど」


鈴は少しだけ声を落とす。


「それくらいは、やらせて。私、役に立ちたい」


妙に柔らかい言い方で、俺は言葉が出ない。


胸の奥がじわりと熱くなる。


「鈴」


「ん?」


「ありがと」


言ってしまった。


鈴がほんの少し黙る。


それから照れたみたいに言う。


「気持ち悪い」


でも声は、確かに嬉しそうだった。


---


学校へ向かう道。


昨日より足取りが軽い。

鈴がいる。それが当たり前みたいになっている。


怖い。

けれど救われている。


校門をくぐると、雫がこちらを見つけて、控えめに手を振った。


「蓮くん、おはようございます」


呼び方も挨拶も丁寧で、背筋が伸びる。


雫の家はこの辺りでも有名だ。

門構えが立派で、送り迎えの車を見たこともある。

本人も騒がず、目立とうとせず、いつも静かに微笑む。

それなのに誰もが一目置くのは、育ちの良さが隠しようもなく滲むからだ。


俺は自然に手を上げる。


頭の奥で鈴が小さく言う。


「その調子。雫ちゃんに失礼にならないようにね。変な顔しない」


「変な顔って何だよ」


「自信なさそうな顔。見てるこっちが抱きしめたくなるやつ」


余計なことを言うな。


教室。


雫が席まで来る。

歩き方も音がしないくらい静かで、制服の着方も乱れがない。


「今日、放課後に少しだけお時間をいただけますか。お話ししたいことがあって」


心臓が跳ねる。


「ある」


即答してしまう。


鈴が満足げに笑う気配がした。


雫が嬉しそうに微笑む。

目元がやわらかくほどけるだけで、胸が温かくなる。


そのとき、ふと。


鈴の気配が少し遠く感じた。

耳の奥が薄い膜で隔てられたみたいに。


「鈴」


心の中で呼ぶ。


「なに」


返事はある。

でも少し掠れている。


気のせいだと思い込む。

そうしないと落ち着かない。


教室の窓の外で風が吹いた。

どこかで風鈴が鳴った気がした。


ちりん。


音はすぐに消えた。


---


家に帰ると、空気が少し冷えていた。


夕立の匂いがする。

遠くで雷が鳴ったような気もする。


部屋に入る。

制服を脱ぎ、椅子に腰を下ろす。


身体が妙に重い。

さっきまで自分じゃなかった時間の余韻が、肌に薄く残っているみたいだ。


「鈴」


呼ぶ。


少しの沈黙。


「ん」


返事はある。

だがやっぱり少し遠い。


「さっき、大丈夫か」


「大丈夫って言ってるでしょ」


軽く返す。


けれど、呼吸の間が長い。


「疲れるのか」


俺が訊くと、鈴は少しだけ黙った。


それから素直に言う。


「うん」


その一言が胸に刺さる。


「出るの、結構力使うみたい」


力。

つまり限界があるということだ。


俺は日記帳を開く。


白いページ。

ペンを握る。


《今日、入れ替わった》


文字を書く手が少し震える。


少し間を空けて、また書く。


《雫とカフェに行った》


しばらく待つ。

返事はすぐには来ない。


「鈴」


呼ぶ。


沈黙。


数秒。


ゆっくりとペンが動く。


《楽しかった?》


文字が少し歪んでいる。

昨日より線が細い。


喉が鳴る。


《ああ》


短く書く。


少し迷って、付け足す。


《お前がいなきゃ無理だった》


しばらく何も起きない。


沈黙がやけに長い。


やがて。


《アンタ、ひとりでもできる》


字が少しだけ震えている。


胸の奥がざわつく。


「できねえよ」


声に出す。


「できる」


鈴は少しだけ強く言う。


「アンタ、自分のこと低く見すぎ。雫ちゃんに失礼なくらい」


俺は日記を閉じる。

椅子に背中を預け、天井を見上げる。


「なんでそこまでしてくれるんだよ」


ぽつりと零れる。


沈黙。


長い。


「だって」


鈴の声が少しだけ柔らかくなる。


「放っとけないし。蓮は放っとくと、すぐ自分のこと嫌いになるでしょ」


胸が苦しくなる。


それはいつも通りの言い方なのに、言葉の奥に何かが隠れている気がした。


俺は気づかないふりをする。

気づいたら、鈴の明るさを壊してしまいそうだから。


---


その夜、俺は夢を見た。


横断歩道。

ブレーキ音。

鈴の手。


今度は掴めた。


俺は鈴の手を確かに握った。


だが、その手は砂みたいに崩れていく。

指の隙間から、さらさらと零れ落ちる。


「蓮」


鈴の声が遠い。


「ちゃんと前見て」


目が覚める。


汗でシャツが張りついている。


時計を見る。午前二時。


静まり返った夜。

蝉はもう鳴いていない。

代わりに遠くで風が鳴る。


「鈴」


呼ぶ。


返事がない。


胸がざわつく。


「鈴」


もう一度。


沈黙。


何もない。


頭の中が空っぽになる。


喉が乾く。

心臓が嫌な速さで打つ。


もしかして。


消えたのか。


まだ二日目だ。そんなはずない。


「うるさい」


突然、声が響く。


俺は息を呑む。


「寝てたの」


鈴の声。少し不機嫌。

だが、確かにいる。


全身から力が抜ける。


「驚かすなよ」


「アンタが騒ぐからでしょ」


軽口。いつも通り。


でも。


「さっき呼んでも返事なかった」


「寝てたって言ってる」


言い切る声の間に、ほんの少しだけ空白があった。


俺はそれを見逃さない。


「鈴」


「なに」


「消えたりしないよな」


沈黙。


長い。


やがて鈴は笑う。


「何それ。怖がりすぎ」


冗談みたいに言う。


「消えるわけないじゃん」


即答。


けれど、その声はほんの少しだけ揺れていた。


俺は何も言えない。


信じたい。

信じるしかない。


窓の外で風が吹く。


風鈴が鳴る。


ちりん。


その音がやけに長く尾を引いた。


俺は目を閉じる。


夏は長い。

祭りもある。花火もある。

雫との時間も増えるはずだ。


鈴はまだいる。

そう思い込みながら、胸の奥の小さな不安を握りしめたまま、夜はゆっくり更けていった。


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