風の前触れ
四十一日目
朝。
目が覚めた瞬間、胸の奥に冷たい塊があった。
夢の残滓ではない。
現実だ。
考えるより先に声が出る。
「鈴」
静まり返った部屋に、自分の声だけが落ちる。
返事はない。
エアコンの送風音が一定のリズムで続く。
壁掛け時計の秒針が、規則正しく刻む。
一分。
二分。
三分。
鼓動が速くなる。
胸骨の内側がきしむ。
「鈴」
もう一度。
声がわずかに震える。
四分。
四分半。
五分目に入る直前。
「いる」
届いたのは、ほとんど空気の擦れ。
言葉というより、気配の断片。
蓮は深く息を吐く。
肺が痛い。
「長すぎる」
責めるつもりはない。
だが声が掠れる。
「遠かった」
鈴の声は弱い。甘さはあるが、芯が透けている。
「戻る道が、細い」
その表現が具体的すぎて、胸に刺さる。
道が細い。
つまり、少し踏み外せば落ちる。
戻ることが、もう簡単ではない。
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登校中。
空は灰色がかっている。
湿度は低く、風が乾いている。
夏の終わりの匂いがする。
草の青さが薄れ始めた匂い。
「鈴」
歩きながら呼ぶ。
返事はすぐに来ない。
一分。
一分二十秒。
「いる」
声が揺れている。
「今日、どんな感じだ」
「ほとんど軽い」
鈴は言う。
「風みたい」
その言い方が、少し拗ねたようで、少し寂しそうだ。
風。
掴めない。
留められない。
指の隙間を抜ける。
「俺の声、聞こえてるか」
「うん」
少し間。
「遠いけど」
蓮は交差点で立ち止まる。
「消えるな」
子どものような命令。
鈴が小さく笑う。
「アンタ、そればっかり」
甘い響き。
「でも嬉しい」
その嬉しさが、今はもう薄い膜のようだ。
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昼休み。
屋上。
金網が強い風に鳴っている。
空は低く、雲が速い。
「鈴」
呼ぶ。
二分。
二分半。
三分。
時間が伸びる。
「いる」
やっと届く。
さらに薄い。
「光、どうだ」
蓮は聞く。
沈黙。
「近い」
短い答え。
「怖い」
はっきりと。
強がりはない。
甘えもない。
ただ怖い。
蓮の胸が強く痛む。
「怖くていい」
声が低くなる。
「でも俺の声、聞け」
鈴が小さく笑う。
「聞いてる」
「アンタの声、最後まで聞きたい」
その言葉が刃のように刺さる。
最後まで。
終わりを前提にした願い。
喉が詰まる。
それでも。
「何回でも呼ぶ」
自分でも滑稽だと思う。
それでも言う。
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放課後。
駅前。
人の流れがゆるやかに動いている。
雫は改札近くに立っていた。
薄いベージュのワンピース。
背筋は変わらず真っ直ぐだ。
「もうすぐ、何か終わりますよね」
問いというより、確信。
蓮は一瞬言葉を失う。
「何が」
「分かりません」
静かに首を振る。
「でも、蓮の影が薄くなっていく感じがします」
胸が締めつけられる。
「私は待ちます」
落ち着いた声。
「きちんと終わらせてから、戻ってきてください」
責めない。
急かさない。
ただ、覚悟がある。
未来は、そこにある。
だが今は。
鈴がいる。
「逃げない」
蓮は言う。
それだけは、本当だ。
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夜。
机の上に広げた日記。
インクの匂いがわずかに残る。
《41日目》
《光が近い》
少しして文字が浮かぶ。
《アンタの声、聞こえにくい》
線はほとんど消えかけている。
蓮は強く書く。
《鈴》
《鈴》
《鈴》
ページが波打つ。
返事がない。
「鈴」
声に出す。
一分。
二分。
三分。
四分。
五分。
鼓動がうるさい。
耳鳴りがする。
六分目に入る直前。
「いる」
かすれた音。
ほとんど風と同じ。
「遠い」
鈴が言う。
「分かってる」
蓮は即座に答える。
「好きだ」
間髪入れずに言う。
沈黙。
十秒。
二十秒。
三十秒。
四十秒。
「ある」
ほんの少し。
だがすぐに薄まる。
好きの効力は、もう長く続かない。
「覚えてて」
鈴が言う。
「私、鈴」
確認するように。
「分かってる」
即答。
「鈴だ」
「俺の幼馴染で」
「俺の好きな人だ」
長い沈黙。
呼吸音もほとんどない。
そして。
「ありがとう」
小さな声。
照れも、甘えも、もうほとんど残っていない。
風が窓を揺らす。
風鈴が鳴る。
ちりん。
ほとんど聞こえない。
四十一日目。
残り八日。
空白は五分を越え。
声は透け。
光はすぐそこまで来ている。
それでも。
まだ。
鈴はいる。




