薄れる輪郭
十二日目。
朝。
目が覚めた瞬間、蓮はすぐには呼ばなかった。
呼べば痛む。
呼ばなければ薄まる。
その選択が、毎朝重い。
天井を見つめたまま数秒。
やがて、小さく。
「鈴」
沈黙。
五秒。
十秒。
胸が冷える。
「鈴」
少しだけ強める。
やっと、かすれた声。
「いる」
弱い。
昨日より明らかに。
蓮は布団の上で拳を握る。
「大丈夫か」
「まあ」
即答できない。
それが怖い。
---
学校。
授業中。
黒板の文字がぼやける。
鈴が静かすぎる。
いつもなら何か一言ある。
今日は何もない。
「鈴」
心の中で呼ぶ。
返事がない。
嫌な汗が背中を伝う。
「鈴」
もう一度。
長い沈黙。
やっと、遠くから。
「ごめん」
声が震えている。
「ちょっと離れてた」
離れてた。
その言葉が重い。
「どこに」
「分かんない」
息が荒い。
「アンタの声、聞こえにくいときある」
胸が締めつけられる。
教室のざわめきが遠くなる。
「今、聞こえてるか」
「うん」
でも弱い。
糸一本みたいだ。
---
放課後。
屋上。
風が強い。
雲が速く流れる。
蓮はフェンスを握る。
「鈴」
呼ぶ。
返事がない。
心臓が跳ねる。
「鈴」
少し強く。
やっと、ノイズみたいな声。
「いる」
途切れ途切れ。
「鈴」
「ちょっと待って」
呼吸が荒い。
「今、足場ほとんどない」
世界が止まる。
「どういう意味だ」
「ほとんど透けてる」
声が遠い。
「アンタの中も、薄い」
胸が凍る。
「俺が薄い」
「思い出すと、濃くなる」
その言葉で蓮ははっとする。
「思い出す」
「うん」
鈴が必死に言葉を探す。
「アンタが私のこと、ちゃんと思い出すと」
「ここ戻る」
胸が強く打つ。
記憶。
忘却と戦う。
それは正しかった。
「何思い出せばいい」
即座に問う。
鈴が少し笑う。
「いっぱいあるでしょ」
声がかすれる。
「小三のとき、川落ちたの覚えてる」
胸が跳ねる。
夏。
二人で川に入って。
鈴が足を滑らせた。
「俺、飛び込んだ」
「うん」
声がほんの少し濃くなる。
「めちゃくちゃ怒られた」
記憶が鮮明に蘇る。
濡れた髪。
泣きそうな鈴。
夕焼けの匂い。
その瞬間。
鈴の気配がふっと戻る。
「今、少しある」
息が荒い。
でも確かに。
蓮は理解する。
思い出すと濃くなる。
忘れると薄まる。
存在は記憶の密度で保たれている。
---
夜。
日記を開く。
12日目。
思い出すと濃くなる。
少しして文字が浮かぶ。
アンタ、天才。
線が昨日より少し強い。
蓮は続けて書く。
全部思い出す。
一日一個。
沈黙。
やがて。
欲張り。
でも。
いいよ。
その返事が救いだった。
---
ベッドに横になる。
「鈴」
「なに」
少しだけ安定している。
「明日、小学校行くか」
鈴が一瞬静まる。
「懐かし」
小さな笑い。
「覚えてること全部拾う」
蓮はまっすぐ言う。
「お前が薄くなるたび、濃くする」
長い沈黙。
やがて。
鈴の声が震えながら届く。
「ずるい」
涙を堪えるみたいな声。
「そんなの、消えにくくなるじゃん」
蓮は目を閉じる。
「消えさせねえ」
即答。
風が吹く。
風鈴が鳴る。
ちりん。
今日は少し長く響く。
十二日目。
残り三十七日。
足場は薄い。
でも記憶という杭を打ち込める。
蓮は初めて確信する。
完全に消える前に。
すべて思い出す。
すべて抱え込む。
それが今できる唯一の抗い方だ。
夏はまだ続く。
でも終わりは確実に近づいている。




