第35話:枯渇と擬態①
『――ギチチチチチチッ!!』
鼓膜を削るような奇怪な摩擦音と共に、洞窟の壁面に張り付いていた巨大な『岩』が完全に剥離する。
扁平に潰れた頭部から、八つの単眼を鈍く光らせてこちらを見ている。
岩石のような灰白色の甲殻。
関節ごとにぎざぎざの突起が並んだ鋭い脚。
そしてその口元から垂れる、透明な粘液。
僕たちが疲弊し切っていることなど、本能で見抜いているのだろう。
焦りも迷いもなく、ただ『確実に仕留める』という静けさで、あの八つの眼が僕たちの一人ひとりをゆっくりと舐め回していた。
「……ッ、来るぞ!」
ガレットの一喝と同時に、蜘蛛が動いた。
その凶悪な質量が、獲物を押し潰そうと跳躍する。
巨漢の戦士が僕を庇うように前へ飛び出し、交差した両腕でその落下を真正面から受け止めた。
ドゴォォォォンッ!!
洞窟全体が揺れるほどの凄まじい衝突音。
全質量を乗せた突進が、正面から炸裂する。
ガレットが重力手甲を前に突き出し、真正面から受け止めた。
だが、頼みの綱である前衛の動きは、明らかに違っている。
「……ぐ、おぉぉぉ……ッ!」
ガレットの口から、苦悶のうめき声が漏れる。
いつもなら微動だにしない岩のような下半身が、ズルズルと泥を削って後ずさっていく。
踏ん張る足が地面を削り、彼の巨体は押し戻される。
出力の低下を検知した手甲の『安全装置』が強制起動し、ガントレットの性能(重力アンカー)が半分以下にまで制限されてしまっているのだ。
腕がミンチになるのを防ぐための処置とはいえ、内部循環の燃料となる強大なエネルギーを失った今の彼では、あの規格外の質量を真正面から受け止めきれない。
「カイル、援護!」
「分かってる!」
カイルが後方から排熱フィン付きの杖を突き出した。
放たれたのは極限まで圧縮された熱線の束。
しかし、今のカイルには分厚い鋼鉄すら一撃で溶解させる出力はなかった。蜘蛛の甲殻に命中した熱量は、まるで砂漠に水を撒くように拡散し、表面をわずかに焦がしただけ。
「チッ……! 出力が、上がらねえッ……!?」
カイルの声に明確な焦りが滲んでいる。
やはり、魔力欠乏状態の威力では通常時の半分にも満たない。本来のスペックなら、この程度の装甲など溶断できるはずの熱線が、致命傷を与えるどころか有効打にすらなっていないという事実に、カイルが忌々しげに舌を打つ。
「あ、あたしが……あたしが撃つ……!」
リアが震える手で『魔導銃』を構えようとするも、銃口の先は定まらず、小刻みに揺れているだけだった。
彼女の不可視の振動弾は、敵の内部で炸裂する防御不能の攻撃だが、あの甲殻の硬度が分からない状態で振動弾を撃ち込んでも、貴重な魔力を無駄にするだけでなく、弾かれた振動が予測不能な方向に跳ね返ってくる可能性だってあった。
それこそ、ガレットを巻き込みかねない。
極限の疲労と恐怖が、彼女から引き金を引く決断力を奪っていた。
(……駄目だ。このままじゃジリ貧になる。持久戦に持ち込まれでもしたら、体力と魔力が尽きるのはこっちだ……!)
僕は奥歯を噛み締め、冷や汗を流しながら片眼鏡越しに戦況を睨みつけた。
視界が青白く反転する。
前衛のガレットの体力が尽きるのは時間の問題。彼が押し潰されれば、僕たちは一瞬で全滅する。
だが、魔力も体力も枯渇した今の状態で、あの岩塊を『物理的』に突破する手段など存在しない。
ならば、どうする?
倒すための『仕様の穴』を探すしかない。
(……っ!)
直後、右目の奥がズキリと鋭く疼いた。
まずい。
すでに処理負荷がかなり蓄積している。長時間の広域索敵の後に、この解析を重ねるのは脳への負担が——。
(……知ったことか)
ズキズキと痛む右目の【解析眼】に、魔力を強引に流し込み、極限まで見開いた。
再び、焦点を蜘蛛の全身へ向ける。
視界が青白く反転し、強烈なノイズが視界の端で火花を散らす。
僕は眼球が焼け焦げるような熱に耐えながら、ガレットと組み合う巨大蜘蛛の全身をスキャンした。
そして僕は、見た。
蜘蛛の甲殻の全面に、びっしりと張り付いた——光の糸。
野生の獣自身には、魔法の術式は存在しないはずなのに。
この蜘蛛の分厚い岩石甲殻の表面には、まるで薄いフィルムのように『不自然な魔力の網目』がびっしりと張り付いていたのだ。
(……魔術式がある。こいつは純粋な野生じゃない?)
コードの構造を読み解き、僕は戦慄した。
環境術式の光の糸が、蜘蛛の体表に直接接続されている。
それはまるで、外部のサーバーからデータをリアルタイムでダウンロードし続けているような、絶え間ない通信の流れだった。
第十三封鎖演習林を管理する『巨大な環境維持術式』の記述と、完全にリンクしている。
(……やっぱりそうだ。こいつは最初から硬いわけじゃない)
この蜘蛛は、森のシステムを部分的に乗っ取り、自分を『ただの岩』として周囲に誤認させるための『擬態プログラム』を走らせているのだ。
擬態した蜘蛛の『呼吸』を見破ったとき、僕が感じた違和感の正体。
つまり――。
(術式がある。コードがある。干渉できる……!!)
攻略の糸口を掴んだその瞬間。
蜘蛛の動きがピタリと止まり、八つの単眼が不気味に蠢いた。
ガレットの拘束を強引に振り解き、蜘蛛の巨体が後方へと跳躍する。
着地したのは、洞窟の入り口の岩壁。
ぐにゃり、と。
蜘蛛の全身を覆う岩石甲殻の色が波打ち、周囲の岩壁とまったく同じ色へと溶け込み始めた。
姿を隠し、不可視からの奇襲を狙うつもりだ。
あの岩壁と完全に同化されたら、もう一度こちら側から居場所を特定するのに時間がかかる。
「――逃がすなッ!!」
僕は叫んだ。
「壁に戻ったら、もうどこにいるか分からなくなる! 倒さなくていい! とにかく、壁から引き剥がし続けろッ!!」
僕の張り裂けるような絶叫が、暗い洞窟にこだました。
だが、無情にも同期は止まらない。
凶悪な捕食者が、偽りの風景画の中へと再び溶け込んでいく。
それは単なる『隠密』という生易しいものではない。
この逃げ場のない洞窟そのものが、僕たちをすり潰す巨大な『死の顎』へと変貌する――絶望的な同化の完了を意味していた。




