第36話:枯渇と擬態②
「とにかく壁から引き剥がし続けろ、って言われてもよ……!」
カイルが忌々しげに叫びながら、杖を構え直した。
蜘蛛は壁面に向かって脚を伸ばし、少しずつその体表が灰白色から洞窟の岩肌と同じ模様へと変化し始めている。
—―擬態の再起動が始まっていた。
「ガレット、脚を掴め! 壁に到達させるな!」
「……ッ」
ガレットが低く唸り、蜘蛛の後脚の一本に両腕で飛びついた。
重力手甲が甲殻に食い込み、引っ張る。だが蜘蛛の体重は想定を超えていた。ガレットの踏ん張る足が地面を削り、それでも彼は離さない。
その間にも、僕は【解析眼】を最大まで開いて、奴の『擬態のプロセス』を克明に捉え続ける。
(……焦るな。現象には必ず理屈がある)
奴の分厚い甲殻は、最初から岩のように硬かったわけじゃない。
もしそうなら、あんな風に波打ち、周囲に合わせて色を変えることなど不可能なはずだ。
ならば、その膨大な環境データの処理はどこで行っている?
どこから流れてきて、どこへ集約されているのか——視界の端でノイズが明滅する中、僕は蜘蛛の頭部に不気味に蠢く『八つの巨大な単眼』を睨みつけた。
(……これかッ!)
思考が、一点に収束する。
あれが周囲のデータを読み込むための『高感度センサー』だ——間違いない。あの八つの眼が高速でスキャンと演算を繰り返すことで、外部のデータを取り込み、甲殻へリアルタイムで出力している。
だとしたら、読み込んだデータを森の環境術式と同期させるための『接続端子』があるはずだが――。
「……ラ、ラビさん……っ」
不意に、何もない頭上の空間から、震えるような微かな声が降ってきた。
蜘蛛の真上にある岩棚。
人ひとりが身を潜められる程度の窪みに、ユラはいつの間にか身を隠していた。
完全透明化したまま息を殺していたせいで、彼女の存在は気付かれていない。
戦闘が始まった瞬間に咄嗟に高所へ移動し、その隠れ場所をそのまま『偵察哨所』として機能させていたのだ。
「左肩のあたり……甲殻の色が、少しだけ違いますぅ……! なんだか、そこだけ……脈打ってる、みたいな……気がして。……ま、まま間違ってたらすみませんんん……!」
恐怖で歯の根を合わさずに震えながらも、彼女は『観測手』としての役目を完璧に果たしていた。
ユラの報告を受け、僕は視界のピントを蜘蛛の左肩付近へと強引に合わせる。
(……あった)
そこだけ、魔力網の光の糸が不自然に絡み合い、蠢いている一箇所がある。
環境術式との物理的な同期ポイント。
あそこが、奴の擬態コードを支える『接続端子』。
まさに、ユラが「色合いが違う」と言っていた場所だった。
「……ユラ、そのまま待機しろ!」
僕は短く答え、頭の中で攻略の図を整理する。
この蜘蛛は環境術式を外部から借りて甲殻に反映させている。
その処理を一手に担っているのが、八つの単眼。
外部のデータを取り込んで処理し、甲殻へ出力する。その入出力の中枢として、八つの眼が高速でスキャンと演算を繰り返している。
そして、左肩の色違いの部分は環境術式との物理的な同期ポイント。
つまりこいつの強さは元々硬い甲殻ではなく、『リアルタイムで外部データを取り込んで硬さを維持し続けているシステム』によって成立しているのだ。
ならば、攻略の道は一本しかない。
パズルのピースが組み上がる。
敵の仕様が割れたなら、あとは『技術者』の独壇場だ。
僕は虚無の杖を握り直し、死闘で満身創痍の仲間たちに向かって、鋭く声を叩きつけた。
「全員、よく聞け! 狙うのはあいつの装甲じゃない、あの『眼』だ!」
僕の絶対的な響きを持った声に、全員がハッと息を呑む。
「あれで周囲のデータを処理して硬さを維持してる! 過負荷をかけるぞ。システムが一瞬落ちて、装甲が紙になる!」
暗闇に溶け込みかけた蜘蛛の八つの眼が、ギラリと獲物を定めるように光った。
「……で、オレは何をすればいい。言っておくが、今のオレが撃てるのは……」
カイルが忌々しげに言葉を詰まらせる。
今のこいつが安定して出せるのは、魔力を一点に絞った低威力の熱線だけだ。先ほどの一撃で、あの分厚い甲殻には傷一つつけられないことを、彼自身が一番痛感している。
「それでいい。その熱線を撃つ直前に、わざと魔力の収束を解け」
「は……? 収束を解く?」
「ああ。殺傷力はいらない。魔力を一気に拡散させて、意図的に『暴発』させるんだ。そうすれば、強力な閃光と熱源になる。あいつのセンサーを光で焼き切れ」
そこで僕は、あえて口角を上げて付け加えた。
「魔法を暴発させるのは、元々お前の得意分野だったはずだろ?」
その軽口に、カイルは一瞬ポカンと目を丸くした。
それから、「……ッ、この野郎」と悪態をつきながらも、どこか吹っ切れたような笑みをこぼす。
「せっかくまともに撃てるようになったってのに、今度は『わざと失敗しろ』ってか? ……相変わらず、てめえの言ってることは無茶苦茶なんだよ」
カイルは杖を構え直し、ニヤリと好戦的な牙を剥いた。
「……だがまあ、ド派手にぶっ放して眩ませるだけなら、確かにオレの十八番だ!」
言い終わるが早いか、カイルの杖の先端で不吉な魔力がバチバチと火花を散らし始める。
あえて制御を放棄し、暴発すれすれまで魔力を練り上げる危険な兆候だ。
その肌を刺すような熱気でカイルの準備が整ったことを確認し、僕はすぐさま次なる『手駒』へと意識を切り替える。
「――ガレットォッ!!」
轟音とカイルの魔力の駆動音をかき消すように、僕は腹の底から声を張り上げた。
「そのまま脚を地面に縫い留めろ! 腕が千切れても、死んでも離すなッ!」
僕の無慈悲な怒号に対し、ガレットは言葉すら返さなかった。いや、返せなかったのだ。
全身の血管が爆ぜんばかりに隆起し、装甲の下から限界を超えた筋肉の悲鳴がミシミシと響いている。両足はすでに岩盤を深く抉り、膝まで地面に沈み込んでいた。口の端からは血が滴り落ちている。
「うおおおおおおおおッ……!!」
血を吐くような、魂の咆哮。
それが、限界をとうに超えた誇り高き戦士からの『了解』の合図だった。
「ユラ! 聞こえるか!」
僕はさらに顔を上げ、頭上の岩棚へ向かって叫んだ。
「その岩棚から蜘蛛の真後ろへ回り込め! 透明化したまま、自分の存在を全力で意識しろ! あいつのセンサーに、お前という『存在』を強制的に食わせろッ!」
「ひゃっ……は、はいぃッ! やります! やれます……たぶん……!」
声は恐怖で震え、今にも泣き出しそうだったが、気配の揺らぎが岩棚から素早く蜘蛛の背後へと移動していくのが分かった。
「リア!」
僕はすぐ横で銃を構えるリアの肩を強く掴み、轟音の中でも確実に伝わるよう、早口で短く叩きつけた。
「奴の眼が潰れた瞬間、僕があいつの魔力を逆流させる! そのタイミングで、お前の一撃を腹に撃ち込め!」
「……ッ!」
「あの分厚い甲殻ごと、中身を全部弾け飛ばせ! やれるか!」
リアは一瞬だけ、息を呑んだ。
僕のえげつない算段を瞬時に理解し、目を丸くした彼女だったが——すぐに、怯えを完全に振り払った、ひどく強気な笑みを浮かべた。
その瞳には、かつて自分の力を恐れて泣いていた少女の面影はない。獲物の急所を的確に射抜く、『狙撃手』の冷徹な光だけが宿っている。
彼女は自慢の『共振魔導銃』を胸の前できつく握り直し、
「……うん。まかせてッ!」
短い言葉の中に、もう二度と退かないという確かな覚悟が詰まっていた。
限界を超えた肉体。枯渇しかけた魔力。
誰一人として万全な者などいない。
だが、理不尽なシステムに押し潰され、ただ泣き寝入りするような大人しいバグは、ここにはもう一人もいなかった。
「――全員、準備はいいかッ!」
僕の問いかけに、四つの意志が重なった。
「おうッ!」
「ああッ!」
「おー!」
「はいっ!」
カイルの獰猛な叫びが。
ガレットの血を吐くような咆哮が。
リアの迷いのない声が。
ユラの涙声の決意が。
言葉もトーンもまるでバラバラな声が。
少しだけ不格好に――けれど確かな一つの『返答』となって、冷たい洞窟の空気を震わせる。
それは、絶対的な死という名のプログラムに対する、僕たちからの上書き命令。
「……行くぞ、お前らッ!」
分厚い絶望の闇を食い破るため――暗度ゼロの戦場に、規格外の閃光が産声を上げた。




