第33話:環境バグと安全地帯の構築②
薄暗い森の中を、僕たちは音を殺して進んでいた。
恐ろしいほどに、森は静かだった。
鳥の声すらない。
風も、ない。ただ湿った空気が肺の奥まで纏わりつくように流れ込んでくるだけで、生き物の気配を示す音という音が、この鬱蒼とした緑の回廊からは綺麗に欠落していた。
先頭を歩く僕の右目には、世界が二重に見えている。
青白く反転した視界の中、空間に張り巡らされた『魔力網』の糸が、風や気温の変化に合わせて緩やかに明滅している。
この森のどこかで何かが動けば、その何かが押し退けた魔力が、波紋のように空間に伝播してくる。音波の反射で海底の起伏を描くように、僕は空間の魔力の『凹み』だけを読んで、見えない相手の輪郭を絶えず逆算し続けていた。
(……右後方。距離八十。小型が二匹。匂いはこっちに届いていない……まだ大丈夫だ)
脳内の地図を更新しながら、僕はゆっくりと左の獣道へ舵を切る。
後ろを振り返らず、手のひらで『左』のジェスチャーだけを出した。
気配を察したガレットが、音もなく方向を変える。
その後ろをリアとユラが続き、しんがりのカイルが渋面を作りながらも黙ってついてくる。
直後、僕の足がぴたりと止まった。
脳内の魔力マップに、巨大な『空白』が出現する。
(……っ!)
いや、待て。
空白というには、あまりにもデカすぎる。
光の糸が押し退けられているのではない。喰いちぎられるようにして、グリッドが根こそぎ消えていた。
それが動いているのだ。
ゆっくりと。しかし確実に、こちらへ向かって。
「……全員、右の倒木の陰に。今すぐ」
囁き声ですら出すのが怖くて、僕は口を動かすのを最小限に絞った。
「音を立てるな。息を殺せ。絶対に動くな」
カイルが「は?」という顔でこちらを見た。
当然だ。肉眼では何も見えない。音もしない。
ただ鬱蒼とした木々が立ち並ぶだけの、静かな朝の森。
「おい、ラビ……本当かよ。オレにはただの茂みにしか見えねえぞ……」
カイルが息を潜めながら、疑わしげに僕のローブの裾を引っ張る。
無理もない。肉眼で見る限り、前方にあるのは鬱蒼と生い茂る巨大なシダ植物の壁だけだ。獣の気配も、足音すら聞こえない。
「……いいから、あと十秒待て。風向きが変わる」
すでにガレットは動いていた。
リアとユラも苔むした巨木の幹に体を預ける。
一拍の沈黙の後、カイルも黙って倒木の陰にしゃがみ込む。
その様子を見守りながら、僕は脳の中でカウントダウンを刻み始める。
(九……八……七……)
カイルの肩が、微かに揺れた。
リアが唇をきつく結んで、胸の前でレゾナンス・ブラスターを抱きしめるように握っている。
ユラはすっかり透明になって、ガレットの背中にぴたりと張り付いていた。
(三……二……一……)
風が、変わった。
湿った森の空気が一瞬止まり、そして流れの向きが反転する。
それと、ほぼ同時だった。
――地面が、揺れた。
ズン、ズン、ズン……ッ!
規則的だが、重い。
まるで小山が歩いているような足音が、三十メートルもない至近距離から響いてくる。
茂みが割れ、枝が折れ、直径三十センチはあろうかという若木が根元からへし折られて宙を舞った。
カイルが息を呑み、ユラが両手で自分の口をきつく塞ぐ。
シダ植物が乱暴にかき分けられ、姿を現したのは――四足歩行の巨大な『熊』のような魔獣だった。
肩口までの高さが、優に二メートルを超えている。
全身を覆う分厚い外皮は、岩盤のように灰色で硬質な甲殻と化しており、巨木の幹に無造作に体を擦りつけると、皮の剥けた木が白くなった。
目は小さく、鈍い。
鼻孔だけがひくひくと絶え間なく動き、大気の匂いを貪欲に嗅ぎ取っている。
(……でかい。昨日の群れより、ずっと質量が大きい)
今の状態でまともにやり合っていい相手ではない。
圧倒的な暴力の権化が、僕たちが身を潜める倒木からわずか数メートルの距離を、のっしのっしと通り過ぎていく。
鼻をヒクつかせているが、僕が事前に風下のルートを選んでいたおかげで、こちらの匂いにはまったく気づいていない。
やがて、あの魔獣は僕たちに目もくれず、深い森の奥へと消えていった。
誰も、しばらく動けなかった。
最初に口を開いたのは、カイルだった。
「……嘘だろ。あんな化け物、ほんの数十メートル先まで来るまで、足音すら聞こえなかったぞ……」
カイルが顔面を蒼白にしながら、震える声で呟いた。
「……ガレット。あれの名前、分かるか?」
僕が息を潜めたまま横へ視線を向けると、巨漢の戦士は額に冷や汗を滲ませ、化け物が消えた鬱蒼とした茂みを険しい顔で睨みつけていた。
「……『岩鎧熊』」
ガレットは額に滲んだ汗を拭いもしないまま、短く、重い声で答えた。
彼は己の右腕を――自身の不甲斐なさを噛み締めるように、ゆっくりと強く握り込む。
「……まともにぶつかれば、今の俺では一撃だ……」
そう言ってガレットは「止めてくれて、助かった」という表情で、僕に向かって深く、一度だけ頷いた。
言葉より行動で示す、寡黙な武人からの最大級の感謝と信頼の証。
もし僕が立ち止まる指示を出さず、そのまま真っ直ぐ進んでいたら、間違いなくあの巨体と鉢合わせし、最悪の近接戦闘が始まっていただろう。
その事実がもたらす背筋の凍るような恐怖に、その場に重苦しい沈黙が落ちる。
やがて、強張った肺から息を吐き出すように、カイルがゆっくりと口を開いた。
「お前……本当に『見えて』るんだな」
昨日までの「ひ弱な現場監督」を見下す響きは欠片もない。
「……言っただろ。僕の目を信じろって」
ガレットも、リアも、ユラも。
泥だらけの顔を上げ、僕の右目の『片眼鏡』を――いや、僕という人間の指示を、本物の命綱を見るような目で真っ直ぐに見つめ返していた。
静かに立ち上がり、泥を払う。
「今の僕たちは、あのレベルの魔獣とやり合う体力も魔力もない。徹底的に避けるぞ。次は右の獣道だ、ついてきてくれ」
僕が再び歩き出すと、四人は疑うことなく、僕の背中にピタリとついて足音を殺した。
大技は一切使わない。魔力も消費しない。
ただ、システムに空いたエラーを読み取り、安全なルートを縫うように進むだけ。
僕の【解析眼】による広域索敵が噛み合った時、この林間合宿は、ただのサバイバルから完全な『隠密作戦』へと変貌を遂げようとしていた。




