第34話:環境バグと安全地帯の構築③
それから数時間。
神経をすり減らすような道程だったが、僕たちは一度も魔獣と交戦することなく、森の奥深くへと進み続けていた。
岩鎧熊とは三回すれ違った。
中型の蛇型魔獣の縄張りを、二回迂回した。
一度だけ、ユラが完全透明化した状態で物音を立てて囮になり、小型の魔獣の群れの注意を引きつけてくれた。
完璧なステルス行軍。
だが、代償は着実に積み重なっていた。
(……くそ、処理が重い……)
右目の奥に、じわりとした熱が滲み始めていた。
片眼鏡を通じて虚無の杖に演算を外部委託しているとはいえ、広大な森全体の魔力網をリアルタイムで読み続けるのは、想定以上の負荷だった。
右目の周囲がズキズキと脈打ち、視界の端にちらちらとノイズが走り始めている。
(あと少しだけ……拠点さえ見つければ……)
ズキズキと痛むこめかみを誤魔化しながら歩き続けていると、ふと、ユラが静かに立ち止まった。
彼女は透明化を解除し、ふわりと半透明の輪郭を現しながら、耳を澄ますような仕草をした。
「……あの、ラビさん。水の音が、チョロチョロって聞こえます……!」
索敵の緊張から少しだけ解放されたのか、ユラがパァッと顔を輝かせた。
音のする方へ茂みを抜けると、そこには、切り立った岩壁に囲まれた少し開けた空間があった。
岩の裂け目からは澄んだ湧き水が流れ出し、小さな水溜まりを作っている。そして何より、岩壁の根元には、大人五人が十分に横になれそうな『洞窟の入り口』がぽっかりと口を開けていた。
「やった……! 水と、雨風がしのげる洞窟だ!」
「……背後は完全に岩壁。入り口も狭い。これなら、見張りを立てれば魔獣の群れにも囲まれないな」
リアとガレットが、疲労も忘れたように安堵の声を上げる。
「へっ、やったじゃねえかラビ! これなら最高の『拠点』になるぜ!」
カイルが嬉しそうに僕の肩を叩き、我先にと湧き水の方へ向かって駆け出そうとした。
――その瞬間。
「……待てッ!! 下がるんだカイル!!」
僕は血相を変えて叫び、カイルのローブを思い切り後ろへ引き倒した。
「なっ、なんだよ急に!」
尻餅をついたカイルが抗議の声を上げるが、僕はそれに答える余裕すらなかった。
青白く反転した【解析眼】越しの視界。
右目の奥の熱が、急激に増す。
ノイズが走る視界の中で、僕は焦点を、洞窟の入り口へと強引に合わせた。
肉眼で見れば、そこはただの岩壁と、暗い洞窟の入り口だ。
しかし、魔力網の光の糸が、その壁面を通り抜けていない。
規則正しく空間を満たしているはずのグリッド線が、洞窟の奥の岩壁の一部に差し掛かると、まるで見えない壁にぶつかったように屈折し、迂回している。
そして――脈打っていた。
岩壁の一部が、ゆっくりと、規則正しく……まるで眠っている生き物の呼吸のように。
(……擬態してる)
背筋に、冷たいものが走った。
あれは岩じゃない。
岩に擬態した何かが、洞窟の奥の壁面に貼り付いて、獲物が入り込んでくるのをじっと待っている。
肉眼では完璧な偽装だ。
音もしない。匂いも、おそらく意図的に消してある。
普通の魔法使いなら、何の疑いもなく洞窟へ踏み込んでいただろう。
だがここは、システムで管理された箱庭だ。
空間の隅々まで『環境術式』のコードで満たされたこの森において、魔力の網目を不自然に迂回させるその不透明な塊は――まるで、精密に描かれた風景画の中に、ぽっかりと空いた『塗り残し』だ。
完璧な世界の中に生じた、真っ黒な『欠落』に他ならない。
岩に偽装した、呼吸をする魔獣。
「……洞窟の奥の岩壁。右から三枚目の岩板。あれ、生きてる」
静かに告げた瞬間、洞窟の入り口で変化が起きた。
ぐにゃりと、岩肌が歪んだ。
まるで水面に石を投げ込んだときのように岩の表面が波打ち、その中から無数の細い脚が生えてくる。
扁平に潰れた頭部には、不気味に蠢く八つの単眼。
鋭い牙を滴らせた、岩石のような甲殻を持つ巨大な『蜘蛛』が、岩壁を這い降りながらこちらを見た。
――全ての眼が、一斉に。
「全員、後退! 戦闘準備!」
僕の切迫した怒号が、偽りの静寂を叩き割る。
澄んだ水音を奏でるこの安息の地は、決して幻ではない。
だがそこは同時に、水場を求めてやってくる獲物を待ち構える、無慈悲な『狩り場』でもあったのだ。
剥がれ落ちた岩皮の下から、八つの凶星が貪欲な光を放つ。
――この化け物を打ち砕かない限り、僕たちに待ち焦がれた休息は訪れない。
底冷えのする密林の奥深くで、安息の道を塞ぐ絶望の顎が開かれた。




