第32話:環境バグと安全地帯の構築①
――第十三封鎖演習林、二日目の朝。
鬱蒼とした木々の隙間から、白々とした陽の光が差し込んでくる。
けれど、爽やかな朝の訪れなどという生易しいものではない。
森の空気は昨日よりもさらにねっとりと重く、冷たい朝霧が僕たちの体温を容赦なく奪っていた。
昨晩はガレットが切り倒した巨木の根元に、かき集めた落ち葉やシダを敷き詰めて、なんとか即席の寝床を作ったが。それでも、湿った地面から這い上がってくる容赦ない底冷えと、常に魔獣の気配に晒され続ける極限の緊張感のせいで、まともな休息など取れるはずもない。
「……重ぇ……」
消えかけた焚き火の傍らで、見張りを交代したばかりのカイルが忌々しげに呻いた。
昨日まであんなに嬉しそうに振り回していた杖を、まるで鉄の塊でも引きずるように力なく地面に落としている。
「持ってるだけで、腕が鉛みたいだ……」
「……昨日、あれだけの魔法を連発したんだ。反動が来て当然だな」
魔力枯渇の影響をもろに受けているカイルを、僕は泥だらけのローブを身に引き寄せながら、静かに告げた。
たがそれは、カイルに限った話ではない。
手に入れたばかりの『武器』に振り回され、魔力も体力も限界まで使い果たした彼らの頭上には、目に見えない[状態異常:極度の疲労・魔力欠乏]のステータスが重くのしかかっているはずだ。
「……腹、減った……喉も乾いた……」
頼みの綱のガレットも、岩のように分厚い背中を丸め、地面にうずくまっている。
巨体を支えるためのカロリーを完全に消費し尽くしたのか、泥に塗れた鋼鉄のガントレットの重さすら、今の彼には耐え難い負担になっているらしい。
「ううぅ……お家帰りたいですぅ……お布団で寝たいですぅ……」
ユラはすっかり意気消沈し、膝を抱えて震えを隠せないでいた。
夜通し魔獣の気配におびえ続けて一睡もできなかったらしく、青白い顔にはくっきりと濃い隈が浮かび、綺麗だったローブも今は泥水と枯れ葉だらけで見る影もない。
「ふわぁ……あ、あたし、もう銃構えられないかもぉ……」
リアに至っては、近くの太い木の幹に全体重を預け、生まれたての小鹿のようにフラフラと立ち上がるのがやっとの有様だ。
だらりと下げた右手に音叉の銃を握っているものの、指先には力がなく、虚ろな目は半分しか開いていない。
……控えめに言って、最悪のコンディション。
個人のスペックがどれほど高くても、僕たちは血の通った人間にすぎない。魔石で動く無尽蔵のゴーレムでもなければ、一晩寝ただけで都合よく体力が全快する魔法生物でもないのだ。
(……駄目だ。このまま彼らに無理をさせ続ければ、僕たちは今日中に全滅する)
僕はギリッと奥歯を噛み締める。
フェリスの狙いはこれだったのか……。
昨日みたいなフルスロットルの戦闘を、十三日間も続けられるわけがない。
ならば、僕がやるべきことは一つ。
魔法の『術式』がデバッグできないなら、この理不尽な『環境』そのものをデバッグしてやるまでだ。
「……全員、聞いてくれ。僕から提案がある」
パンッ、と一度だけ手を叩き、疲労困憊の仲間たちの視線を集めた。
「昨日みたいに、目につく魔獣を手当たり次第に倒していく『狩り』はもう終わりだ。これからは一切の無駄な戦闘を避けようと思う」
「……はぁ? 逃げ隠れしろってのか? オレはベルシュタインの――」
「……カイル。無理なのは、お前自身が一番よく分かってるだろ。今のお前たちの出力は、昨日の半分以下だぞ」
反射的に噛み付こうとしたカイルだったが、僕が静かに諭すと、気まずそうに言葉を飲み込んだ。
彼だって本気で言っているわけではない。
いつもの貴族としての意地が、反射的に口をついて出ただけなのだ。
「この森では、魔獣を倒した数なんて意味を持たない。だから……お願いだ。今は何よりも、安全に眠れて、清潔な水が手に入る『拠点』の確保を最優先にさせてくれないか」
背後が壁になっていて、入り口を絞れる場所。
例えば、洞窟のような地形。
まずはそこを見つけ出し、罠を張って安全圏を構築しない限り、僕たちは遠からず疲労と魔力切れで獣の餌食になる。
「でもラビ、どうやってそんな場所を探すの? あたしたち、この森の地図なんて持ってないよ……?」
リアが不安そうに見上げてくる。
僕は泥で汚れた右目の『片眼鏡』に触れながら、短く息を吐いた。
「地図がないなら、作ればいい。……案内は、僕にやらせてくれ」
昨日よりも少しだけ真摯に、彼らの顔を見渡した。
「索敵は全部、僕の目で引き受ける。だからお前たちは武器を下ろして、いざという時のためだけに力を温存しておいてほしい」
僕は短く息を吸い込み、右目の『片眼鏡』に魔力を流し込んだ。
視界が青白く反転し、虚無の杖とリンクした【解析眼】が起動する。
昨日、僕は致命的な勘違いをしていた。
『魔法を持たない野生の獣』を直接スキャンしようとして、無機質な[解析不能]のエラーに弾かれ、勝手に絶望していたのだ。
だから、見方を変えればいい。
ここはただの野生の森ではない。
フェリス教官が用意した、学院管理下の『第十三封鎖演習林』だ。
つまりこの広大な森そのものが、気温や湿度を維持し、外部からの侵入を拒むための『巨大な環境維持術式』という一つの箱庭なのである。
僕の青白い視界には今、森の木々や大地を這うようにして、極細の光の糸のような『魔力網』が無数に張り巡らされているのが見えていた。
それはまるで、空間そのものに描かれた精密な三次元のグリッド線のように。
――対象を『獣』から、森の『環境術式』へと切り替える。
僕は視点のピントをずらし、空間の魔力網全体を俯瞰した。
すると、鬱蒼とした茂みの奥で、規則正しく流れているはずの光の糸が、何かに『物理的に遮られて』不自然に途切れている箇所があることに気づく。
(……見つけた)
獣自体に魔力はない。だからシステムには映らない。
しかし、巨大な質量を持った獣がそこを『歩く』ことで、空間を満たす微弱な魔力が押し退けられ、環境術式にぽっかりと穴が空くのだ。
コードの海の中に生じた、不自然な『空白の座標』。
僕はその空白のシルエットと、押し退けられた魔力の波紋の広がり方から、相手の『大きさ・数・移動速度』を脳内でリアルタイムに逆算していく。
右前方、距離五十メートルの地点に、中型の空白が三つ。
風下へ向かって、ゆっくりと徘徊している。
……完璧だ。
僕はこの森の魔獣を、ただの一匹も『視て』いない。
ただ、森のシステムに生じた空白を読み取ることで、結果的に生態系すべての現在地を掌握する『広域索敵』を成立させていた。
「……よし。右前方に三匹、僕たちの匂いを探っている。風下を避けて、左の獣道から大きく迂回するぞ」
僕が確信を持ってルートを告げると、不安げだったカイルたちが、ハッと息を呑んで顔を上げた。
「足元に気をつけて、絶対に音は立てないでくれ。……僕の目を信じてほしい。一回も戦わずに、必ず全員が休める場所を見つけ出してみせるから」
林間合宿の二日目は、ただのお荷物から一歩踏み出した現場監督の『索敵』から、静かに幕を開けた。




