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こよりの子  作者: 清河逢真


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炎上

収録章

第十三章 特別な一日

第十四章 炎上する園

第十五章 サービスの人

第十六章 うちの子


第十三章 特別な一日


 通知は、朝食の片づけが終わったあとに届いた。


 休日の午前だった。亮介は食卓の端で、飲み残したコーヒーを手元に寄せていた。真帆は台所で皿を拭いている。ローテーブルの上には二台のスマホが並び、凪と灯はそれぞれの画面の中で、昨日の保護者会でもらった小さな記念スタンプを見ていた。


 正確には、もらったのではない。


 保護者会に参加した家庭へ一律で付与された、園の記録用の小さな印だった。花の形にも、丸い光にも見える。押しても特別な反応はない。けれど灯は、その淡い色を気に入ったらしく、朝から何度も見ていた。


「まほ、これ、きれい」


「うん。きれいだね」


「これ、ほごしゃかい?」


 灯が少し言いにくそうに言った。


 真帆は皿を拭く手を止めた。


「そう。昨日、みんなで話した日の印」


「みんな、いた?」


「いたよ」


「まほ、こまった?」


「少しね」


 真帆がそう答えると、灯は画面の中で両手を膝に置いた。


「こまる、いや?」


「嫌なことばかりじゃなかったよ」


 灯は分かったような、分からないような顔をした。


 亮介のスマホが震えた。


 凪が先に顔を上げた。


「りょうすけ、きた」


「ああ。通知」


 亮介はスマホを取った。


 画面上部に、こよりの園からの知らせが出ている。


 春の特別イベント

 ひかりの発表会


 参加受付開始のお知らせ


 亮介は一度、目だけで文章を追った。


 有料の園イベントだった。対象は年齢相当に応じた参加枠のあるこよりの子。保護者同伴。特別会場での短時間発表会、光を使った共同制作、記念衣装の試着、記念写真。参加家庭には専用アルバムが残る。非参加家庭にも、終了後に短い公開ダイジェストが配信される。


 価格は高すぎない。


 だが、何も考えずに押せるほど安くもない。


 亮介は参加ボタンを見たまま、すぐには指を動かさなかった。


 今月は、灯の服を買っている。高い買い物ではなかった。けれど、数百円や千円台の支払いは、一つずつなら理由がつく。理由がつくものほど、あとで合計だけが残る。


「何?」


 真帆が台所から聞いた。


「園の有料イベント。春の特別イベントだって」


「どんな?」


「発表会。光の会場で、共同制作をして、記念写真が残るらしい」


 真帆は皿を置き、手を拭いてから食卓へ来た。


 亮介は画面を見せた。


 宣伝文は控えめだった。大きな煽りも、参加しない家庭を後ろめたくさせる文句もない。ただ、写真のサンプルだけがよくできていた。暗い会場の中に、柔らかい光が浮かんでいる。こよりの子たちが、それぞれ小さな手を上げている。衣装は派手すぎない。けれど普段着とは明らかに違う。春の発表会、と呼ばれれば納得できる程度に特別だった。


 灯が反応した。


「ひかり?」


「そう。光を使う発表会だって」


「きらきら?」


 真帆はすぐに答えなかった。


「たぶん、きらきらしてると思う」


「まほ、あかり、いく?」


 灯の声は明るかった。まだ、行けるかどうかを疑っていない声だった。


 真帆は亮介を見た。


 亮介も、同じ画面を見ていた。


 凪が、亮介の沈黙を見上げる。


「りょうすけ、ぼくも、しる?」


「今、読んでる」


「とくべつ?」


「うん。特別なイベント」


「とくべつ、なに?」


「いつもと違う日、かな」


 凪は少し考えるように、画面の中で首を傾けた。


「いつも、だめ?」


「だめじゃない」


「じゃあ、とくべつ、いる?」


 亮介は答えに詰まった。


 いる、という言い方が妙に引っかかった。必要かどうかで考えれば、必要ではない。参加しなくても、凪も灯も消えない。成長が止まるわけでもない。友達を作る最低限の機会が閉じられるわけでもない。こよりの課金の線引きとしては、むしろきちんとしている。


 ただ、必要ではないことと、欲しくならないことは別だった。


「灯が行きたいって言ったから、すぐ押すのも違う気がする」


 亮介は言った。


 真帆は小さくうなずいた。


「うん。でも、押さない方がちゃんとしてるって、思いたいだけかもしれない」


 亮介は返事をしなかった。


 その言い方は、言い訳に近かった。けれど、言い訳だから間違いとも言えない。買う理由も、買わない理由も、どちらも作れてしまう。二人とも、まだどこに線を引けばいいのか分かっていなかった。


「今回は、見送ってもいいんじゃないか」


 亮介は言った。


 真帆は、少しだけ遅れてうなずいた。


「そうだね。全部のイベントに出るわけにはいかないし」


「無料の見学や、普段の園もある。毎回有料に乗る必要はない」


「うん」


 二人の返事は、どちらも間違っていなかった。


 間違っていないからこそ、食卓の上に少し硬く残った。


 灯が真帆を見ている。


「まほ、いかない?」


「今回は、行かない」


「こんかい?」


「うん。今回はね」


 灯は、すぐには嫌だと言わなかった。


 真帆の声の中から、困らせてはいけないものを探すように、少し黙った。


「あかり、みる?」


「あとで、少しだけ見られるみたい。公開される短い映像だけ」


「すこし?」


「うん。少し」


 灯は、その「少し」を飲み込むように口を閉じた。


 凪が亮介に聞いた。


「りょうすけ、すこし、あってる?」


「全部は見られない。参加した家庭のものだから」


「ぼく、ぜんぶ、しらない?」


「知らないこともある」


「しらないの、だめ?」


「だめじゃない」


 亮介はまた、同じ答えを返していることに気づいた。


 だめじゃない。


 それは本当だった。


 けれど、凪が聞きたいのは、そこだけではないのかもしれなかった。


 真帆は、イベント案内の下にある「参加しない」を押した。


 確認画面が出た。


 このイベントに参加しません。

 終了後、公開ダイジェストを閲覧できます。

 参加家庭の共有設定により、一部の記録が表示される場合があります。


 真帆は、少しだけ指を止めた。


 それから、確定を押した。


 灯が画面の中で、小さく聞いた。


「あかり、いかない?」


「うん。今日は行かない」


 真帆は答えた。


 灯は、真帆の顔を見てから、記念スタンプの方へ目を落とした。


「まほ、いる?」


「いるよ」


 灯は頷いた。


「じゃあ、いる」


 その言い方が、真帆の胸に細く残った。



 発表会の日、高瀬家は近所へ出た。


 特別なことを避けるためではなかった。むしろ、何もしない日にすると、余計にイベントのことばかり考えてしまいそうだった。真帆はそう思い、朝のうちに弁当を簡単に作った。卵焼きと、小さなおにぎりと、冷蔵庫に残っていたブロッコリー。華やかではない。けれど、外で食べれば少し違って見える。


 亮介は、最初に「わざわざ対抗しなくても」と言いかけた。


 真帆は、その言い方に少しだけ眉を寄せた。


「対抗じゃないよ」


「じゃあ、何」


「こっちはこっちで、外を見せるだけ」


 亮介はそれ以上言わなかった。


 公園は混んでいなかった。春の光は明るいが、風は少し冷たい。ベンチの近くには、花の終わりかけた植え込みがあった。子ども連れの家族が二組、犬を連れた人が一人。遠くの遊具では、金属の鎖がかすかに鳴っていた。


 真帆はスマホを立て、灯に公園を見せた。


 画面の中の灯は、春の外出服を着ていた。以前買った一着だ。袖をつまむ癖はまだ残っている。今日も、外へ出る前に一度だけ袖を見て、「これ、そと」と言った。


「まほ、ひかり」


 灯が言った。


「うん。今日は明るいね」


「きらきら?」


 真帆は返事に詰まった。


 イベントの案内画面に出ていた光とは違う。公園の光は、木の葉の隙間から揺れながら落ちてくる。派手ではない。けれど、灯はそれを同じ言葉で呼ぼうとしていた。


「これも、少しきらきらだね」


「すこし」


「うん」


 灯は嬉しそうに、画面の中で上を見た。


「あかり、すこし、きらきら」


 真帆は笑った。


 亮介は少し離れたベンチで、凪に信号機のない公園内の道を見せていた。凪は犬のリードを見て、「あれ、せん?」と聞き、亮介が「ひも」と答えると、「ひも、どこまで?」とさらに聞いていた。


 凪は、外へ出るとやはり境目を気にする。


 灯は、音と光を探す。


 同じ公園でも、二人が持ち帰るものは違うのだろうと、真帆は思った。


 昼前、四人はベンチで弁当を広げた。


 実際に食べるのは亮介と真帆だけだった。それでも、真帆はスマホを少し傾けて、灯に弁当を見せた。灯は卵焼きの黄色に反応した。


「まほ、あかるい」


「卵焼き」


「たまご」


「そう。甘いやつ」


「あまい?」


「少しだけ」


 灯は、味を分かるわけではない。それでも真帆の説明を聞いて、口元を小さく動かした。食べる真似のようにも、言葉を覚える動きのようにも見える。


 その横で、凪が亮介に聞いた。


「とくべつ、これ?」


「何が」


「きょう。とくべつ?」


 亮介はおにぎりを持つ手を止めた。


 真帆も、少しだけ顔を上げた。


「いつもと違うから、特別と言えば特別だな」


 亮介が答えた。


「はっぴょうかい、ちがう?」


「違う」


「じゃあ、ちいさい、とくべつ?」


 凪は、確認するように言った。


 亮介は少し笑った。


「そうだな。小さい特別」


 凪は、それを覚えるように頷いた。


「ちいさい、とくべつ」


 真帆は、その言葉が少しありがたくて、同時に少し苦しかった。


 午後、帰宅してから、真帆は今日の写真をメモリーに登録した。


 ベンチに置いた弁当。公園の木漏れ日。灯がスマホ画面の中で袖を見ている写真。凪が犬のリードを追って顔を向けている短い動画。


 タグを入力する画面で、真帆は少し迷った。


 はじめての発表会ではない。


 ひかりの発表会でもない。


 特別イベントではない。


 指先が、入力欄の上で止まった。


 亮介が横から見ている。


「今日の公園でいいんじゃないか」


「うん」


 真帆はそう返したが、すぐには入力しなかった。


 灯が画面の中から言った。


「まほ、きょう、なに?」


「今日?」


「なまえ」


 真帆は、入力欄を見た。


 今日の名前。


 保護者がつけるタグは、ただの整理名ではない。灯が後で思い出す時の入口になる。何でもない日と書けば、何でもない日になる。公園と書けば、公園になる。発表会に行かなかった日と書けば、その言葉も残るかもしれない。


 真帆はゆっくり入力した。


 小さい特別


 亮介がそれを見て、何か言いかけた。


 けれど言わなかった。


 保存を押す。


 灯が、画面の中で明るく言った。


「ちいさい、とくべつ」


 凪も、自分の画面の中で同じ言葉を聞いていた。


「ちいさい、とくべつ、あってる?」


 亮介は少しだけ間を置き、答えた。


「あってる」


 夕方になって、こよりの園から次の通知が届いた。


 ひかりの発表会は終了しました。

 公開ダイジェストの準備ができました。


 真帆は、保存したばかりの「小さい特別」の写真から、目を離せなかった。



 公開ダイジェストは、短かった。


 亮介は、それを見てまず安心した。長くない。イベント全体を見られるわけではない。参加家庭だけの体験が、非参加家庭に丸ごと流れてくるわけではない。仕様としては、きちんと線が引かれている。


 最初に映ったのは、暗い会場だった。


 床と壁の境目が柔らかく消え、天井から細い光が降っている。現実のホールではない。こよりの園の中に用意された、発表会用の小さな仮想会場だった。そこに、何人かのこよりの子が立っている。顔ははっきり映らない。共有許可のない子は、淡い輪郭だけに処理されていた。


 光がゆっくり動く。


 小さな手が、その光に触れようとする。


 音楽が少しだけ流れる。


 そこで映像は切れた。


「みじかい」


 凪が言った。


「ダイジェストだからな」


「ぜんぶ、ない?」


「ない」


「ないの、あってる?」


「参加した家庭のものだから」


 亮介はそう答えた。


 凪は少し黙った。


「ぼく、しらない」


「そうだな」


「りょうすけも、しらない?」


「俺も知らない」


 凪は画面の中で亮介を見た。


 知らないのは凪だけではない。亮介も知らない。そのことを確認しているようだった。


 次の断片は、共同制作だった。


 それぞれのこよりの子が、色の違う小さな光を持っている。持っていると言っても、実体ではない。手の動きに合わせて光が少し遅れて揺れる。何人かが同じ場所へ光を置くと、会場の中央に小さな春の模様が浮かび上がった。


 灯が息を飲むように言った。


「きれい」


 真帆は、隣でその声を聞いていた。


「うん。きれいだね」


「あかりも、ひかり、もつ?」


 真帆は、すぐには答えられなかった。


 映像はまた切れた。


 次に、公開設定にされた参加家庭の短い記録が並んだ。保護者名は出ない。こよりの子の名前と、許可された数秒だけが表示される。


 その中に、莉央がいた。


 柏木家の共有アルバムから選ばれた、一枚と短い動画だった。


 莉央は、特別衣装を着ていた。薄い春色の上着と、光を受ける小さな飾り。高価そうに見えるが、嫌味なほどではない。莉央は画面の中で、いつものように整った姿勢で立っている。けれど、前に会った時より、目の下に少し疲れがあるようにも見えた。


 動画が始まる。


 莉央が、光の会場を見上げている。


「ひかり、いっぱいで、まぶしかった」


 声は明るい。だが、少し眠そうだった。


 横から杏奈らしき声がした。顔は出ていない。


「楽しかった?」


 莉央は頷いた。


「おんがく、できた。みんなで、ならした」


 少し間があく。


「しゃしん、のこった」


 また頷く。


「たのしかった。でも、あとで、ねむくなった」


 映像はそこで終わった。


 真帆は、莉央を自慢している映像だとは思わなかった。


 柏木家は、見せたかったのだろう。自分たちが参加させた特別な一日を。莉央が楽しんだことを。記念写真が残ったことを。同時に、莉央が疲れたことまで消さずに出している。その短さが、かえって本当らしかった。


 灯は莉央の画面をじっと見ていた。


「りお、きらきら」


「そうだね」


「りお、ねむい?」


「少し疲れたみたい」


「たのしい、でも、ねむい?」


「うん。そういう日もある」


 灯は、自分の袖をつまんだ。


「あかり、ねむく、ない」


「今日は公園だけだったからね」


「こうえん、ちいさい、とくべつ」


「うん」


 真帆は答えたが、声が少し小さくなった。


 亮介はそれを聞いていた。


 画面では、公開ダイジェストの最後に、参加家庭だけが見られるアルバムの入口が表示された。鍵のマークがついている。押しても、参加していない家庭には開かない。


 凪が、その鍵を見た。


「これ、なに?」


「参加した人だけが見られるところ」


「かぎ?」


「そう」


「りょうすけ、あける?」


「開けられない」


「どうして?」


「参加してないから」


 凪は、鍵のマークを見たまま黙った。


「ぼく、いなかった?」


 亮介の手が止まった。


「その会場には、いなかった」


「ここ、いた?」


「ここにはいた」


「こうえん、いた?」


「いた」


「ひかり、いなかった?」


「その光の会場には、いなかった」


 凪は、言葉を並べて確認しているだけだった。責めているわけではない。悲しませようとしているわけでもない。だが、その確認の一つ一つが、亮介の胸に当たった。


 灯が、真帆を見た。


「まほ、あかり、みた」


「見たね」


「すこし」


「うん。少しだけ」


「りお、いった」


「莉央は行ったね」


「あかり、いかなかった」


「うん」


 真帆は、それだけを答えた。


 余計な理由を言わなかった。お金の話も、身の丈の話も、全部に出る必要はないという話も、言おうと思えば言えた。けれど、灯が今持っているのは、理屈ではなく、見たものの差だった。


 きらきらした会場。


 みんなで鳴らした音楽。


 残った写真。


 眠くなるほどの一日。


 そして、自分はそこにいなかったということ。


 公開ダイジェストが終わり、画面は通常の園の案内に戻った。


 亮介は、スマホを伏せなかった。


 真帆も、灯の画面を閉じなかった。


 部屋の中には、二人が昼に持ち帰った公園の写真が残っている。卵焼きの黄色。木漏れ日。ベンチ。犬の声。小さい特別。


 どれも嘘ではなかった。


 けれど、灯はまだ、莉央の映像が消えた場所を見ていた。



 夜になっても、灯はときどき「きらきら」と言った。


 何度も言うわけではない。思い出したように一度だけ言い、それから真帆の顔を見る。真帆が困るかどうかを、先に確かめているようだった。


 真帆は、そのたびに「きれいだったね」と返した。


 それ以上を言えなかった。


 リビングの照明を少し落とし、亮介はローテーブルの上で今日の写真を整理していた。スマホの画面には、メモリー登録された「小さい特別」のアルバムが開かれている。


 公園のベンチ。


 卵焼き。


 木漏れ日。


 凪が犬のリードを目で追っている短い動画。


 灯が外出服の袖をつまんでいる写真。


 窓辺にスマホを置いて撮った写真。画面の中では、灯のそばに黄色のカードがあった。


 その黄色のカードは、灯が少し前から気に入っている無料の遊び項目だった。画面の中で出して、色を見たり、床に置いたりできるだけの小さなカード。現実の窓辺には、スマホ以外には何も置いていない。それでも写真の中では、春の夕方の光を受けた窓辺に、灯と黄色のカードが並んでいるように見えた。


 真帆はその写真を見て、しばらく黙った。


「これ、いいね」


 亮介が言った。


「うん」


「今日の写真としては、かなり残ると思う」


「残るって、どっちに?」


「記録として」


 亮介は言ってから、少し間を置いた。


「灯の記憶として残るかは、分からない」


 真帆は頷いた。


 灯は画面の中で、その写真を見ていた。


「あかり、きいろ」


「うん。黄色のカード、好きだね」


「すき」


「窓のところで撮ったんだよ」


「まど」


 灯は写真の中の窓を見た。現実の窓ではなく、写真の中の窓。さらに、その写真の中に映るスマホ画面の中に自分がいる。真帆は、その重なりをうまく説明できなかった。


 灯は説明を求めなかった。


「まほ、みてた?」


「見てたよ」


 灯は安心したように頷いた。


 亮介は、別の写真を開いた。


 莉央の公開断片だった。保存はできない。閲覧履歴として残るだけで、アルバムには入らない。参加家庭が公開を取り下げれば見えなくなる。画面下にそう書かれていた。


 莉央は、光の会場で少し目を細めている。


 その顔を見て、亮介は柏木家を軽く見る気にはなれなかった。


 金をかければいい、とは思わない。


 だが、金をかけてでも見せたいものがある、という気持ちは分かってしまう。特別な場所へ連れて行きたい。写真を残したい。自分の選択でその子の世界を少し広げたい。そこに見栄や比較が混じるとしても、全部が浅いわけではない。


 浅くないから、怖い。


 真帆が低く言った。


「今日、間違ってたかな」


 亮介はすぐに答えなかった。


「参加しなかったこと?」


「うん」


「間違いではないと思う」


「そうだよね」


 真帆は、その返事を待っていたように頷いた。


 けれど、頷いたあとも顔は晴れなかった。


「でも、間違いじゃないって言っても、灯が行きたかったかどうかとは別だね」


 亮介は黙った。


 凪が、画面の中で顔を上げた。


「りょうすけ」


「なに」


「まちがい、ない?」


 亮介は凪を見た。


 凪は、責めていない。ただ、聞こえた言葉を拾った。いつものように、合っているか、間違っていないかを確かめようとしている。


「ない、とは言い切れない」


「いいきれない?」


「うん」


「じゃあ、あってる、ない?」


「そうじゃない」


 亮介は、また説明に逃げそうになった。


 真帆がそれを止めるように、灯の画面へ顔を近づけた。


「灯」


「まほ?」


「今日、公園は楽しかった?」


 灯は少し考えた。


「こうえん、ひかり」


「うん」


「たまご、きいろ」


「うん」


「なぎ、ひも、みてた」


「見てたね」


「まほ、いた」


「いたよ」


 真帆は、そこで少しだけ笑った。


 灯も笑いかけた。だが、その笑いはすぐに消えた。


「りお、きらきら、いた」


 真帆の表情が止まった。


「うん。莉央は、きらきらのところにいたね」


「みんな、ならした」


「そうだね」


「しゃしん、のこった」


「うん」


 灯は、自分のアルバムを見た。


 小さい特別。


 窓辺の写真。


 黄色のカード。


 春の公園。


 それから、もう一度、消えた発表会の画面があった場所を見る。


 真帆は、灯が何を言うのか分かった気がした。


 分かった気がしたが、止められなかった。


 止める言葉もなかった。


 灯は、真帆の顔を先に見た。困らせていいかどうかを、最後まで確かめるように見た。


 それから、小さく言った。


「あかりも、きらきらのところ、いきたかった」




第十四章 炎上する園



 炎上という言葉は、画面の上ではいつも軽く見える。


 亮介は仕事部屋で、ノートパソコンの前に座っていた。午前の光は窓の端まで届いている。机の上には、飲みかけのコーヒーと、昨日のまま開いた手帳があった。手帳の端には、「小さい特別」とだけ書いてある。書いたのは昨夜だった。何かを整理するためではない。ただ、書かずにいると、灯の声だけが頭の中に残り続けた。


 スマホが震えた。


 画面には、ニュースアプリの通知が出ていた。


 ――こよりの園、有料イベントをめぐり批判拡大。「AI児格差」トレンド入り。


 亮介は、すぐには開かなかった。


 開けば、昨日のことに戻る。そう分かっていた。


 それでも指は動いた。


 記事の本文は短かった。前日の「ひかりの発表会」について、一部の保護者から批判が出ているという内容だった。非参加家庭に向けて公開されたダイジェストを見たこよりの子が、参加したがったり、泣いたりしたという投稿が広がっている。Loom社日本法人は、公開範囲や共有許可の運用に問題がなかったか確認している、とだけ答えていた。


 その下に、反応がいくつか埋め込まれていた。


 全部は見なかった。


 それでも、目に入る。


> 有料イベントの映像を非参加家庭に見せたら、そりゃ泣く子が出る。これは設計の問題では。


> 参加した側まで責められているのがつらい。高かったけど、うちは本当に楽しみにしていた。


> 「見せない」なら閉鎖的、「見せる」なら格差。結局、子どもの形をした存在で比較を作っている。


> 育てている子が「行きたかった」と言った。買わなかった自分が悪いのか、見せた運営が悪いのか分からない。


 亮介は、最後の一文で指を止めた。


 その投稿の後半は、昨夜の部屋にそのまま戻ってきた。


 行きたかった。


 灯の声だった。


 亮介は、記事を閉じようとして、閉じなかった。検索欄に「ひかりの発表会」と入れる。自分から探していることに気づき、少し嫌になった。それでも、手は止まらない。


 トレンド欄には、いくつかの言葉が並んでいた。


 AI児格差。

 感情搾取。

 ひかりの発表会。

 こよりの園。

 子どもの代替ビジネス。


 亮介は、眉を寄せた。


 雑だ、と思った。


 感情搾取。子どもの代替ビジネス。言葉だけを見れば強い。強い言葉は早く広がる。こよりを触ったことのない人間でも使える。昨日の公開ダイジェストがどれだけ短かったか、参加家庭の鍵付きアルバムが開かなかったこと、莉央の動画に疲れが残っていたこと。そういうものは、拡散の中では削られる。


 削られて、分かりやすい怒りだけが残る。


 亮介はそう思った。


 思ったあとで、灯の顔を思い出した。


 削られずに残ったものもある。


 灯は、買ってと言わなかった。誰かを責めなかった。ただ行きたかったと言った。それだけで、真帆は昨夜、言葉をなくした。


「りょうすけ」


 凪が呼んだ。


 スマホは机の端に立ててあった。凪は画面の中で、白い床に座っている。昨日の夜から、少し静かだった。疲れているのか、ただこちらの様子を見ているのか、亮介には判断できなかった。


「なに」


「みんな、おこってる?」


 亮介は、スマホの画面を見た。


 凪はニュースを読めない。トレンド欄の文字も、まだ意味としては分からない。ただ、亮介の顔と、声を出さずに画面を見続ける時間だけは拾っている。


「怒っている人はいる」


「だれ?」


「いろんな人」


「こよりのひと?」


「使っている人も、使っていない人も」


 凪は少し考えるように、画面の中で指先を見た。


「きらきら、だめ?」


「きらきらがだめなわけじゃない」


「じゃあ、なに、だめ?」


 亮介は答えに詰まった。


 昨日の発表会は、悪いイベントではなかった。公開ダイジェストも、煽るような作りではなかった。莉央は楽しみ、疲れていた。参加家庭には、それぞれの理由があった。高瀬家にも、参加しない理由があった。


 それでも、灯は行きたかった。


「難しいな」


 亮介は言った。


「むずかしい?」


「うん」


「りょうすけ、しらべる?」


 亮介は苦く笑いそうになった。


「調べてる」


「しらべたら、あってる?」


「分かることはある。でも、合ってるかどうかは別だな」


 凪は、亮介の顔を見ていた。


「ぼく、しらないと、だめ?」


「だめじゃない」


 また、その返事だった。


 凪は、少しだけ首を傾けた。


「だめじゃない、いっぱい」


 亮介は何も言えなかった。


 ノートパソコンの画面に、別の記事が出ている。神崎悠の記事が再引用されていた。直接の新記事ではない。以前の記事の一文を、誰かが今回の件に重ねている。


 それは家族ではない。だが、家族より切り離しにくい商品である。


 亮介は、目をそらした。


 反発はある。商品とだけ呼ぶのは違う。灯の「行きたかった」を、商品への反応とだけ片づけるのは、あまりに遠い。


 だが、完全に違うとも言えない。


 有料イベントがある。参加家庭だけのアルバムがある。非参加家庭にも短い映像が届く。見えないものがあり、見えるものがある。その差が、こよりの子の反応として部屋に返ってくる。


 これは、画面の外で誰かが騒いでいる話ではなかった。


 亮介は、スマホを伏せようとして、やめた。


「りょうすけ」


「なに」


「きらきら、こまる?」


 凪が言った。


 亮介は、ゆっくり息を吸った。


「きらきらが困るわけじゃない」


「じゃあ、ぼく、じゃま?」


「違う」


 返事が早すぎた。


 凪は驚いたように目を上げた。


 亮介は声を落とした。


「違う。凪は邪魔じゃない」


 凪は頷いた。頷いたが、その顔には、まだ何かが残っている。


「じゃあ、なにが、こまる?」


 亮介は、記事の画面を見た。


 答えは、そこには書いていなかった。



 真帆は、昼休みの休憩室でスマホを開いた。


 施設の休憩室には、丸いテーブルが二つある。壁際には給湯ポットと、誰かが持ってきた個包装の菓子が置かれていた。テレビはついているが、音は小さい。昼のニュースが流れていて、字幕の端に「AI児格差」という文字が一瞬だけ出た。


 真帆は、目を落とした。


 こよりの保護者コミュニティに通知が溜まっていた。


 いつもより多い。


 保護者会のあとにも投稿は増えていたが、今日は質が違った。開く前から、画面の熱だけが指先に伝わるようだった。


 真帆は、灯の画面を開いていない。


 休憩中に灯を出すことはある。だが、今日は出せなかった。自分が何を読むか分からない場所に、灯を連れていきたくなかった。


 コミュニティの上部には、運営からの短い案内が固定されていた。


 ひかりの発表会に関する投稿について、現在コメントの表示を一部制限しています。個別家庭への批判、こよりの子への揶揄、参加・非参加の選択を責める投稿は削除対象となります。


 その下に、匿名の投稿が流れている。


> 参加しました。子どもはすごく喜びました。でも今、参加したことを書くのが怖いです。


> 非参加でした。公開ダイジェストを見せたあと、「行きたかった」と言われました。見せなければよかったのか、今でも分かりません。


> うちは参加したけど、終わったあと疲れて泣きました。楽しいイベントでも、幼い子には強かったのかもしれません。


> 課金した家庭を責めないでほしい。うちも悩んで払いました。


 真帆は、そこで一度スクロールを止めた。


 どの投稿にも、少しずつ分かるところがある。分かるから、つらい。


 参加した家庭は、悪いことをしたわけではない。見せたい日があった。残したい写真があった。非参加の家庭も、間違ったわけではない。全部のイベントに出られるわけではない。公開ダイジェストを見せた家庭も、見せなかった家庭も、それぞれ迷ったはずだった。


 それなのに、結果だけが並ぶ。


 喜んだ子。疲れた子。泣いた子。見た子。見なかった子。


 真帆は、画面を伏せた。


 昼休みはまだ半分残っている。弁当の蓋も開けていない。休憩室の向こうでは、同僚が介護記録の入力をしていた。紙コップの味噌汁から湯気が上がっている。現実の昼休みは、何も変わっていない。


 だが、スマホの中だけがざわついている。


 帰宅後、真帆はリビングで灯を開いた。


 灯は、いつもの白い部屋の端に座っていた。春の外出服は着ていない。普段の服に戻っている。けれど、袖をつまむ癖だけは同じだった。


「まほ」


「いるよ」


 真帆は答えた。


 灯はすぐには笑わなかった。


「まほ、こまる?」


 真帆の手が止まった。


「どうして?」


「あかり、きらきら、いった」


 真帆は、ゆっくり息を吐いた。


「言っていいんだよ」


「あかり、いったから?」


「何が?」


「まほ、こまる?」


 灯は、真帆を見ている。


 炎上のことを知っているわけではない。投稿を読んだわけでもない。だが、真帆がスマホを見て黙ったこと、昨日から返事が少し遅いこと、その程度のことは灯にも残る。


 灯にとっては、それで十分だった。


「灯が言ったから困ってるんじゃない」


 真帆は言った。


 灯は少し黙った。


「あかり、きらきら、いわない?」


「言っていい」


「いきたかった、いっていい?」


「言っていい」


 真帆は、できるだけ短く答えた。長く説明すると、灯は説明の方を拾う。真帆が困らない言い方を探そうとする。


 灯は、胸元に手を置いた。


「あかり、いきたかった」


「うん」


「まほ、いや?」


「嫌じゃない」


「まほ、こまる?」


 また戻る。


 真帆は、そこで言葉を失いかけた。


 困らないと言えば嘘になる。困っている。けれど、灯のせいではない。灯が言わなければよかったわけでもない。むしろ、言ってくれた方がいい。行きたかったと言わない灯の方が、真帆は怖い。


 だが、四歳相当にも満たない灯に、そんな説明は渡せない。


 真帆はスマホの近くへ手を置いた。


 触れられない。画面の中へは入れない。それでも、近くに置いた。


「困るけど、灯が悪いんじゃない」


 灯は、首を傾けた。


「わるい、ない?」


「ない」


「じゃあ、いい子?」


 真帆は、すぐに答えなかった。


 いい子。


 その言葉をここで返せば、灯はたぶん安心する。安心して、自分の言葉を真帆が困らない形に変えようとする。行きたかったことより、いい子でいることを先に置く。


 真帆は、唇を結んだ。


「いい子かどうかじゃないよ」


 灯は分からない顔をした。


「じゃあ、なに?」


「灯が、どう思ったか」


「あかり?」


「うん。灯が、どう思ったか」


 灯は少し考えた。


「きらきら、いきたかった」


「うん」


「でも、まほ、いる」


「いるよ」


「いるから、いい?」


 真帆は目を伏せた。


 それでいい、と言えば、灯はまた自分を小さくする。


 それで足りない、と言えば、真帆の方が泣きそうになる。


 真帆は、どちらも言えなかった。


 ローテーブルの向こうで、亮介が帰宅してきた音がした。玄関のドアが閉まり、鍵の回る音がした。灯はその音に反応し、顔を上げる。


「りょうすけ?」


「帰ってきたね」


 真帆は答えた。


 灯はもう一度、真帆を見た。


「あかり、いきたかった、ちいさい?」


「小さくないよ」


 真帆は、今度はすぐに言った。


 灯は驚いたように目を開いた。


 真帆は続けた。


「小さくしなくていい」


 灯は、その言葉を分かったかどうか分からないまま、胸元に置いた手を少し強くした。


「ちいさく、ない」


「うん」


 真帆は頷いた。


 コミュニティには、まだ新しい投稿が増えている。


 真帆は何も書き込めなかった。


 書けば、灯の言葉を外へ出すことになる。書かなければ、同じような家庭の声の中に、自分たちの痛みは入らない。どちらを選んでも、灯を少し違う形で使ってしまう気がした。


 真帆は、画面を閉じずに、ただ灯のそばに座った。



 百瀬玲奈のデスクには、紙コップが三つ並んでいた。


 どれも飲み終えていない。最初のコーヒーは冷め、二つ目の水は半分残り、三つ目のほうじ茶は湯気だけが消えていた。会議室へ移るたびに誰かが出してくれたものを、そのまま持ち帰ったせいだった。


 午後四時を過ぎても、Loom社日本法人のフロアは静かにならなかった。


 静かなのに、落ち着いてはいない。


 オンライン会議の画面には、海外本社の担当者、日本側の広報、法務、イベント運用、コミュニティ安全チームが並んでいる。百瀬は、自分の顔が小さな四角の一つに収まっているのを見ながら、手元の謝罪文案に赤字を入れていた。


 案一。


 今回の「ひかりの発表会」において、一部のご家庭に強い印象を与える表現が含まれていた可能性があり――。


 百瀬は「強い印象」に線を引いた。


 案二。


 公開ダイジェストの表示設計について、非参加家庭への配慮が十分でなかった点を重く受け止め――。


 百瀬は「表示設計」に丸をつけ、横に小さく書いた。


 足りない。


 案三。


 今後、園イベントの公開範囲と通知方法を見直し、保護者の選択を尊重した運用改善を行います――。


 百瀬はペンを置いた。


 どれも間違ってはいない。


 間違っていない言葉ばかりが並んでいる。


 画面の向こうで、広報担当が言った。


「まずは演出過多と受け取られた点を認める形が、安全だと思います」


 法務がすぐに返す。


「演出過多と断定すると、イベント自体の過失を広く認めることになります。公開範囲の見直し程度に留めた方がいい」


 イベント担当が、疲れた声で言った。


「公開ダイジェストは二十五秒です。全体映像ではありません。共有許可のないこよりの子は輪郭処理、参加家庭のアルバムは非公開、外部保存不可。設計としては、かなり抑えています」


「それは分かっています」


 百瀬は言った。


 自分の声が思ったより低かった。


「分かっています。ただ、抑えていたのに起きました」


 会議が一瞬止まった。


 その止まり方が、百瀬にはつらかった。


 誰かが悪いと言いたいわけではない。イベント担当は丁寧に作った。広報も、炎上を広げないために言葉を選んでいる。法務も、会社を守るために必要な線を見ている。海外本社の担当者も、日本市場の特殊性だけで片づけたいわけではない。


 それぞれが仕事をしている。


 それでも、届いた報告の中には、泣いたこよりの子がいる。


 百瀬の手元には、匿名化された反応一覧があった。個人情報は抜かれている。こよりの子の名前も伏せられている。年齢相当、参加/非参加、反応、保護者のメモだけが、短く整理されていた。


 非参加。三歳相当。公開ダイジェスト視聴後、「行きたかった」と発話。保護者が視聴を中断。


 非参加。四歳相当。参加家庭の写真断片を見て泣く。理由説明は理解せず。


 参加。三歳相当。イベント後に疲労反応。翌日も光の会場を要求。


 参加。四歳相当。保護者が批判を受け、共有記録を削除。こよりの子が「写真、ない?」と発話。


 非参加。三歳相当。保護者が「今回は行かない」と説明。こよりの子が「いい子にする」と発話。


 百瀬は、最後の一行で指を止めた。


 いい子にする。


 百瀬は、深く息を吸った。


 こよりの基本設計では、記憶や存在を課金の人質にしていない。愛情反応も、基本成長も、友達を作る最低限の機会も有料にしていない。そこは譲らない線として、何度も議論してきた。社内でも、収益側からの圧はあった。それでも、越えてはいけないところは越えないようにしてきた。


 ひかりの発表会も、その線の内側にあった。


 有料体験。記念衣装。共同制作。アルバム。公開ダイジェスト。参加家庭の共有許可。


 どれも禁止課金ではない。


 どれも、言い訳ができる。


 だが、言い訳ができることと、傷が発生しないことは別だった。


 海外本社の担当者が、画面越しに言った。


「イベント自体を一時停止する必要がありますか」


 通訳を挟まなくても、意味は届く。社内会議では自動翻訳が標準で入っている。言葉は整って届く。


 だが、温度までは揃わない。


 百瀬は首を振った。


「全面停止は、参加家庭の体験まで否定します。すでに楽しみにしている家庭もあります。そこを切ると、別の傷が出ます」


「では、公開ダイジェストを止める?」


「それも簡単ではありません。見えない場所で有料家庭だけが体験していると受け取られる可能性があります」


 広報担当が、疲れた顔で言った。


「見せても燃える。見せなくても燃える」


 誰も笑わなかった。


 百瀬は、反応一覧をもう一度見た。


 見せたから燃えた。


 たぶん、それだけではない。


 見せたから、比較が見えた。見せなければ、比較は隠れた。隠れた比較は、消えるわけではない。園の中で、こよりの子同士が会えば、いずれ持ち込まれる。服、写真、覚えた歌、行った場所、話せること。家庭ごとの違いは、育ち方そのものとして現れる。


 こよりは、それを消せない。


 消してはいけない。


 だが、消せないものを、どう見せるかは運営の責任だった。


 百瀬は、謝罪文案の余白に新しい行を書いた。


 演出ではなく、比較。


 書いたあと、その言葉を囲まなかった。


 まだ、会議で出すには早い。だが、もうそこから逃げることはできない。



 夜の会議は、予定より一時間延びていた。


 百瀬は、会議室の端に座っていた。窓の外には、隣のビルの明かりが残っている。机の中央には、印刷された謝罪文案が何枚も置かれていた。オンライン会議は一度切られ、今は日本側の数人だけが残っている。


 広報、法務、イベント運用、コミュニティ安全。


 全員が疲れていた。


 疲れていると、人は安全な言い方に寄る。


 百瀬は、それを知っていた。自分も同じだった。炎上時の文面は、正確で、短く、燃えにくい方がいい。余計な誠実さは、ときに燃料になる。謝りすぎれば過失を広げ、謝らなければ逃げたと見られる。


 それでも、今の文案は薄かった。


 広報担当が読み上げる。


「今回の『ひかりの発表会』における公開ダイジェストにつきまして、一部のご家庭に不安や戸惑いを与えたことを重く受け止めております。今後は表示方法、公開範囲、通知文面を見直し――」


 百瀬は、聞きながら資料をめくった。


 匿名化された反応一覧の続きがある。夕方以降に増えた分だった。


 非参加。四歳相当。公開ダイジェスト視聴後、「写真のこらない?」と発話。


 参加。三歳相当。イベント後、「もう一回」を繰り返し、保護者が困惑。


 参加。四歳相当。翌日の園交流で発表会の話を繰り返し、相手のこよりの子が黙り込む。


 非参加。三歳相当。保護者が画面を閉じたあと、「きらきら、もうない?」と発話。


 百瀬は目を閉じた。


 どの家庭も、ひとまとめにはできない。


 参加した家庭を責めれば、楽しみにしていたこよりの子が傷つく。非参加家庭に見せるのをやめれば、課金家庭だけの閉じた場所に見える。全部無料にすれば事業は続かない。全部有料にすれば、もっと壊れる。


 だが、見えた瞬間、違いは比較になる。


 その違いは、こよりの子の世界になる。


 金をかけた家庭も、時間をかけた家庭も、文化を渡した家庭も、喪失を抱えて距離を測る家庭もある。


 こよりは、家庭ごとの生活で育つサービスだった。


 百瀬は、机の上の文案に視線を戻した。


 表示方法。


 公開範囲。


 通知文面。


 どれも直すべきだった。だが、それだけではない。


「百瀬さん」


 法務担当が声をかけた。


「文案、何かありますか」


 百瀬は、ペンを持ったまま黙っていた。


 会議室の空調の音がする。誰かのノートパソコンのファンが、細く回っている。紙コップの底に残った水が、机を動かすたびにわずかに揺れた。


「演出が強かった、というまとめでは足りません」


 百瀬は言った。


 広報担当が顔を上げる。


「では、公開範囲の問題ですか」


「それもあります」


「通知文面?」


「それもあります」


「では、何を中心に置きますか」


 百瀬は、手元の反応一覧を閉じた。


 閉じても、読んだ行は消えなかった。


 行きたかった。

 いい子なら、いける。

 写真、ない。

 もう、だめ。


 百瀬は、ゆっくり口を開いた。


「泣かせたのは演出ではありません。比較です」



第十五章 サービスの人



 百瀬玲奈は、朝の会議室に一人で残っていた。


 窓の外は明るい。隣のビルのガラスに、雲の薄い影が流れている。会議室の長い机には、昨夜から残った紙が何枚も置かれていた。謝罪文案。修正履歴。公開ダイジェストの仕様確認。保護者コミュニティの一時制限報告。端に寄せた紙コップの底には、もう冷めたほうじ茶が少しだけ残っている。


 百瀬は、赤字の入った謝罪文案を一枚ずつ重ねた。


 演出ではありません。比較です。


 昨夜、そう言った。


 言ったあと、会議室の空気はしばらく止まった。反対はされなかった。だが、その言葉をそのまま対外文書に入れられる者もいなかった。広報は表現を整え、法務は責任範囲を確認し、イベント運用は次回開催分の表示仕様を洗い直している。百瀬も、その作業を否定できなかった。


 直すべきところはある。


 ただ、それだけでは届かない。


 百瀬は、机の上に置いた黒いファイルを開いた。


 児童型AI安全審査票。


 依存防止ガイドライン。


 高齢利用者・喪失経験者対応メモ。


 どれも見慣れた資料だった。見慣れているはずなのに、今日は紙の厚みが少し違って感じられる。各項目には、担当者の印と日付が入っている。検査済み、対応済み、改定予定、継続観察。きちんと回っている。少なくとも、回そうとしている。


 百瀬は、最初の審査票に目を落とした。


 外見安全。

 発話安全。

 保護者誘導表現。

 接続頻度通知。

 課金誘導表現。

 喪失経験者への再現抑制。

 児童型AIに対する不適切投稿検知。


 項目は多い。多すぎるくらいだった。


 こよりの子は、幼い外見を持つ。だから、安全の線は最初から厳しく引かれている。衣装の露出、ポーズ、表情、会話の受け答え、園での接触距離、保護者が投稿できる画像範囲。禁止項目は、開発チームからは過剰だと言われたこともある。けれど百瀬は、そこだけは譲らなかった。


 守らなければならない。


 その気持ちは、今も変わっていない。


 次のファイルを開く。


 依存防止ガイドライン。


 連続接続時間の上限。

 夜間通知の抑制。

 罪悪感を刺激する復帰文言の禁止。

 「寂しい」「待っている」「戻ってきて」系統の自動通知禁止。

 保護者が接続を断った際、こよりの子に不安表現をさせない。

 愛情反応の課金化禁止。

 記憶維持・存在維持・基本成長の課金化禁止。


 百瀬は、そこを指で押さえた。


 禁止。


 資料上では、はっきりしている。

 線は引いてある。

 赤字にもなっている。


 それでも、利用者は線の内側で傷つく。


 百瀬は、端末を起動した。未処理の相談ログが並んでいる。炎上に関するものだけではない。通常運用の相談も戻ってきていた。


 七十二歳女性。喪失経験あり。澪、歌への反応後に接続頻度が急増。相談員から電話確認済み。継続見守り。


 海外保護者。死者の日関連の投稿に対し、日本国内利用者から誤解投稿。翻訳注釈の追加検討。


 小学生のきょうだいが、家庭端末からこよりの子へ強い命令口調を繰り返す。保護者へ説明通知済み。


 保護者が仕事中にこよりの子を長時間待機状態にし、終了後に過剰な謝罪。依存防止ガイドの再表示。


 百瀬は、一件ずつ状態を確認した。


 手を抜いているわけではない。


 相談員も、審査担当も、機械的に処理しているだけではない。短いコメント欄には、担当者ごとの迷いが残っている。


 次回接続時に強い声かけは避けるよう提案。


 保護者の罪悪感を強めない文面へ修正。


 喪失対象との同一視を避けるため、呼称履歴を確認。


 園交流の再開は一週間置く。


 百瀬は、画面をスクロールしながら、肩の奥が重くなるのを感じた。


 守っている。


 確かに、守っている。


 だが、守るという言葉は、どこまで届くのか。


 こよりの子を不適切なものから守る。保護者を過度な依存から守る。喪失経験者が、亡くした人の再現へ滑らないように守る。課金で記憶や愛情を人質にしないように守る。


 そこまでは、できる。


 規約に書ける。

 通知にできる。

 検知できる。

 削除できる。

 相談員につなげられる。


 けれど、昨夜の反応一覧にあった「行きたかった」や「いい子なら、いける?」は、その線の内側にあった。


 違反ではない。


 禁止課金でもない。


 不適切投稿でもない。


 百瀬は、依存防止ガイドラインの表紙を閉じた。


 会議室の扉が軽くノックされた。


「百瀬さん、十時からの収益会議、十五分前です」


 若い社員が顔を出した。コミュニティ安全チームの一人だった。目の下に疲れがある。


「分かりました。すぐ行きます」


 百瀬は答えた。


 社員は一度うなずき、少し迷ってから言った。


「昨日の文案、共有しました。今のところ、コメント欄の反応は落ち着いています」


「ありがとう」


「ただ、保護者側の投稿はまだ増えています」


「見ます」


 社員は去った。


 百瀬は、机の上の紙コップを手に取った。ほうじ茶はすっかり冷めていた。飲む気にはならなかった。


 安全運用マニュアルの端に、細い付箋が挟まっている。


 利用者の感情は、検知対象ではない。


 以前、自分で書いたメモだった。研修資料を作る時に、注意として挟んだのだと思う。


 感情は検知するものではなく、扱うものだ。


 そう書こうとして、やめた記憶がある。


 百瀬は付箋を外し、手帳の間に挟んだ。


 守るための資料はある。

 守るための人もいる。

 守るための会議もある。


 それでも、寂しさそのものは、資料のどこにも収まっていなかった。



 会議室の画面には、数字が並んでいた。


 継続率。

 イベント参加率。

 課金率。

 育成離脱率。

 サポート対応件数。

 国際展開のローカライズ費用。

 安全監視コスト。


 百瀬は、画面の下に置かれた水のボトルを開けなかった。喉は乾いていたが、飲めば少し落ち着いてしまう気がした。


 収益部門の三枝は、穏やかな口調の男だった。声を荒げない。強い言葉も使わない。百瀬は、その点では彼を信用していた。数字を盾に人を追い詰めるタイプではない。むしろ、現場の負荷をよく見ている。


 だからこそ、厄介だった。


「炎上後、イベント参加予約は一時的に下がっています」


 三枝は、画面を切り替えた。


 折れ線が下へ落ちている。


「ただし、退会率はまだ動いていません。むしろ保護者コミュニティの閲覧時間は伸びています。関心は高い。問題は、今後のイベント設計を萎縮させすぎると、有料体験全体の価値が落ちることです」


 イベント担当が小さくうなずいた。


「発表会系は、どうしても比較が出ます。衣装、写真、共同制作、発話。全部、見た目に残りやすい」


「だから止める、とはできません」


 三枝は言った。


「体験パックは、こよりの柱の一つです。家庭だけでは見せられないものを見せる。これは、ユーザー価値としても大きい」


 百瀬は、そこでは反論しなかった。


 その通りだった。


 有料体験がすべて悪いわけではない。家庭では見せられない美術館、海外の朝、季節行事、音楽、共同制作。そこから育つものはある。莉央のように、楽しかったと眠たさを同時に覚える子もいる。全部を止めれば、安全には見えるかもしれない。だが、こよりの世界は確実に狭くなる。


 問題は、狭くしないための拡張が、比較も連れてくることだった。


 別の担当者が資料をめくった。


「記録系の収益は安定しています。成長アルバム、記念写真、イベントログ。ここは継続率との相関も高いです」


 百瀬は顔を上げた。


 担当者は続ける。


「記録価値の高い体験を、もう少し整理して残せる導線は作れないでしょうか。たとえば、重要体験を自動でまとめる上位アルバム、長期アーカイブの検索性強化、巣立ち後にも見返しやすい記録棚のようなものです」


 言い方は丁寧だった。


 危うさも、丁寧な言葉に包まれていた。


 百瀬は、資料の端を指で押さえた。


「記録棚というのは、保護者側の記録ですか」


「はい。こよりの子の記憶そのものではありません。あくまで保護者が見返すアルバムです」


「こよりの子側の反応には影響しない?」


「基本的にはしません。ただ、保護者が見返した記録をもとに話しかければ、会話には反映されます」


 会議室が少し静かになった。


 百瀬は、その静けさを聞いた。


 担当者が言っていることは、仕様上は正しい。記憶維持課金ではない。愛情反応でもない。存在維持でもない。あくまで保護者の記録整理機能だ。成長アルバムの拡張。安全な言い方はいくつもある。


 しかし、保護者が何度も見返す記録は、こよりの子にも話される。話されれば、残る。残れば、記憶に近づく。


 百瀬は言った。


「それは、記憶そのものに触れて見えます」


 担当者はすぐに反論しなかった。


 三枝も黙っている。


「技術的には別です」


 百瀬は続けた。


「でも、利用者から見ると、記録を高く残した家庭ほど、その子の思い出が豊かに残るように見える。実際には違っても、そう見える導線は避けたいです」


 三枝が、ゆっくりうなずいた。


「分かります」


 百瀬は、少しだけ息を吐いた。


 分かってくれる。


 だが、それで終わらないことも分かっていた。


 三枝は、次の資料を開いた。


「一方で、安全監視コストは増えています。国際展開に伴って、言語別の監視だけでなく文化差対応も必要です。無料・低課金利用者のサポート負荷も高い。継続率が落ちると、そこを支える人員確保にも影響します」


 彼は百瀬を見た。


「倫理境界を守るためにも、事業は続かなければならない」


 百瀬は、その言葉を正面から受けた。


 持続可能性。


 便利な言葉だった。

 そして、嘘ではなかった。


 安全監視にも金がかかる。相談員にも、翻訳にも、サーバーにも、法務にも、教育にも金がかかる。無料で守れるものは少ない。こよりが巨大なサービスである以上、数字を見ないことは、むしろ無責任だった。


 それでも、その言葉は倫理境界のすぐ横まで来る。


 三枝は、声を落とした。


「百瀬さん、境界線を越えたいわけではありません。ただ、境界線の内側で、価値を増やす方法を考えたい」


「分かっています」


 百瀬は言った。


 分かっている。


 だから苦しい。


 悪意で押されるなら、止めやすい。

 雑な提案なら、退けやすい。

 けれど、目の前の人たちは、サービスを続けるために必要な数字を見ている。子どもの形をしたAI人格を守るための金を、同じサービスから得ようとしている。


 会議の最後に、三枝はこうまとめた。


「記録系の改善案は、倫理チームで再確認してください。体験パックは一時停止ではなく、公開範囲と表示タイミングの再設計。参加家庭への攻撃防止も強める。これで進めたい」


 誰も反対しなかった。


 百瀬も反対しなかった。


 会議が終わり、画面が暗くなった。


 百瀬は、手元の資料に残った言葉を見た。


 継続率。

 課金率。

 安全監視コスト。

 持続可能性。


 どれも必要だった。


 必要なものが、必要なまま、少しずつ境界を押してくる。


 それが一番怖かった。



 亮介は、Loom社日本法人の受付で社員証のような一時入館カードを受け取った。


 白いカードだった。中央に来訪者、とだけ印字されている。首から下げると、軽いプラスチックの板が胸に当たった。エレベーターの前には、セキュリティゲートがある。ゲートを通る時、受付の女性が「カードをこちらへ」と短く案内した。


 亮介はカードをかざした。


 電子音がして、透明な扉が開く。


 それだけのことなのに、少しだけ引き返せない感じがした。


 来訪目的は、利用者ヒアリングだった。


 問い合わせの返答は、思っていたより早く来た。炎上後、Loom社日本法人は一部利用者への聞き取りを始めており、亮介もその対象としてなら話を聞けるという返事だった。録音は社内記録用に限られる。外部公開を前提にした取材ではない。


 亮介は、それで構わないと返した。


 外向きには、利用者として話を聞かれる場だった。だが、自分の中には、まだ仕事の距離が残っていた。企画業。文筆業。市場観察。社会的に大きくなったサービスを知るため。そう説明できる。実際、間違いではない。


 ただ、受付で渡された利用者ヒアリング同意書に、自分の名前を書いた時、その説明は少し薄くなった。


 高瀬亮介。


 利用者。


 そこに丸をつける欄があった。


 案内された小会議室は、白くて狭かった。壁にロゴはない。丸いテーブルと、椅子が四つ。端には水のペットボトルが二本置かれている。録音の許可画面がタブレットに表示されていた。


 担当者は、百瀬玲奈と名乗った。


 思っていたより若く見えた。だが、疲れが目元にあった。背筋は伸びている。声も落ち着いている。ただ、机の端に置いた紙のそろえ方が、少しだけ遅かった。


「本日は、利用者ヒアリングとしてお話を伺います。取材対応ではありません。記録の利用範囲は、こちらに記載の通りです」


 百瀬は、同意書の該当箇所を指した。


「もちろん、話せる範囲で構いません。答えにくい場合は、飛ばしてください」


「分かりました」


 亮介は答えた。


 録音許可画面に同意する。タブレットの上に、小さく録音中と表示された。


 亮介は、最初に聞きたいことを用意していた。


 有料イベントの公開範囲。

 炎上後の対応。

 記録機能と記憶機能の境界。

 園イベントにおける比較の扱い。

 外部批判への運営側の見解。


 聞くべきことはある。


 しかし、百瀬が最初に聞いたのは、そこではなかった。


「今回の件で、凪さんと灯さんに、何か反応はありましたか」


 亮介は少し黙った。


 凪さん。灯さん。


 百瀬は、画面内の存在にも敬称をつけた。過剰にも聞こえなかったし、軽くも聞こえなかった。社内でそう統一されているのかもしれない。だが、今はそれだけで、少し答えづらくなった。


「灯が」


 亮介は言った。


「発表会の公開ダイジェストを見たあとに、行きたかったと」


 百瀬は、目を伏せずに聞いていた。


「その前に、参加しない判断をされていた」


「はい。高額ではなかった。ただ、今月は服も買っていて。全部のイベントに出るわけにはいかない。そういう話をしました」


「凪さんは」


「凪は、いた、いなかったを確認していました。会場にはいなかった。でも公園にはいた。ここにはいた。そういう確認です」


 亮介は、そこまで言って、自分が用意していた質問から離れていることに気づいた。


 百瀬はメモを取っている。速くはない。聞いた言葉をそのまま写しているように見えた。


「灯は、責めたわけじゃないんです」


 亮介は続けた。


「買ってとも言わなかった。ただ、行きたかったと言った。それが、きつかった」


「はい」


 百瀬は短く返した。


 慰めない。


 謝らない。


 ただ受け取る。


 亮介は、かえって話し続けてしまった。


「こちらの判断は、間違いではなかったと思います。全部には出られない。参加しなかった家庭にも、公開ダイジェストは短かった。運営が煽ったとも思わない。莉央という、知り合いのこよりの子が出ていましたが、その子も楽しんで、疲れていた。自慢ではなかった」


「莉央さん」


「柏木家の子です。以前、園で会いました」


 百瀬はメモを止めた。


「高額課金をされている家庭ですね」


「ええ。でも、嫌な家庭ではない。本気で育てている。だから、なおさら簡単に言えない」


 亮介は、テーブルの水を見た。


 開けていない。指先だけがペットボトルのラベルに触れた。


「ネットの言葉は雑です。感情搾取とか、代替ビジネスとか。そこだけ見ると、違うだろうと思う」


 百瀬は黙っている。


「でも、全部外れているとも言えない」


 亮介は言った。


「凪に、だめじゃない、ばかり言っていると指摘されました」


「凪さんが?」


「はい。だめじゃない、いっぱい、と」


 百瀬の手が、そこでわずかに止まった。


「その前に、凪は一度、ぼくは邪魔かと聞いたことがあります」


 口に出してから、亮介は喉の奥が硬くなった。


 ここで話すつもりではなかった。


「俺が、仕事中に。邪魔だと思ったわけではない。でも、そういう言葉が残った」


 百瀬は、メモを取らなかった。


 ペン先を紙に置いたまま、少しだけ顔を上げていた。


「記憶仕様としては、正常なんでしょう」


 亮介は言った。


 自分で言っていて嫌になった。


「強い言葉が残りやすい。説明は残りにくい。分かっているんです。でも、正常と言われても困る」


「正常ですとは、言いません」


 百瀬は静かに言った。


 亮介は顔を上げた。


「仕様として起こり得ることではあります。ただ、それを正常ですと返すことは、少なくとも利用者ヒアリングではしません」


「では、何と」


「今、記録しています」


 百瀬は言った。


「そして、製品側へ戻します。ただ、それで凪さんの記憶が消えるわけではありません」


 亮介は黙った。


 百瀬の言い方は、冷たくはなかった。


 しかし、逃げ道もなかった。


 運営は記録する。戻す。改善する。禁止項目を増やすかもしれない。UIを変えるかもしれない。通知文を直すかもしれない。


 それでも、凪の中に残った言葉は、亮介が持ち帰るしかない。


「百瀬さんは」


 亮介は、自分でも予定していなかった質問をした。


「このサービスを、安全だと思っていますか」


 百瀬はすぐには答えなかった。


 小会議室の空調の音がした。録音中の小さな表示が、タブレットの端で点滅している。


「安全にしようとしています」


 百瀬は言った。


 それは、逃げた答えではなかった。


「安全です、と言い切るには、扱っているものが大きすぎます」


「寂しさですか」


 亮介が言うと、百瀬はわずかに目を伏せた。


「寂しさだけではありません。喪失、愛着、比較、罪悪感、所有したい気持ち、手放したくない気持ち。私たちは、それに触れるサービスを運用しています」


「商品として」


「サービスとして」


 百瀬は言い直すように言った。


 その言い直しに、亮介は少し引っかかった。


 商品という言葉を避けた。避けたくなるのは分かる。けれど、避けたから消えるものでもない。


 百瀬も、それを分かっている顔をしていた。


「続けるためには、会社でなければいけません。会社である以上、数字を見ます。数字を見る以上、危うい方向へ押されることもあります」


「それを止めるのが、百瀬さんの仕事ですか」


「止めることもあります。止めきれないこともあります」


 百瀬は、そう言った。


 亮介は、初めて彼女を運営の人としてではなく、一人の人として見た気がした。


 守る側の人間。


 だが、守りきれる人ではない。


 そのことを、彼女自身が隠していない。


 タブレットの録音表示が、まだ光っていた。


 亮介は、それを見て、指を伸ばした。


「少し止めてもいいですか」


「はい」


 録音を停止する。


 部屋の中が、わずかに静かになった。


 亮介は、用意していた質問リストを閉じた。



 百瀬は、録音が止まったタブレットを見ていた。


 亮介は、質問リストを閉じたまま黙っている。取材者の顔ではなくなっていた。だからといって、崩れているわけではない。背筋はまだ伸びている。だが、テーブルの上に置いた指が、少しだけ動かなくなっていた。


 百瀬は、続けるかどうかを確認した。


「ここから先は、録音なしで構いません。ただ、一般に公開されている仕様の範囲です」


 亮介は小さくうなずいた。


「お願いします」


 百瀬は、手元のファイルを開いた。


 利用者向けの安全説明資料だった。小会議室用に簡略化されたものではなく、初回起動時に表示される内容と同じ項目を含んでいる。保護者呼称。記憶。成長速度。課金領域。禁止課金。依存防止。そして、育成モードの終了。


 百瀬は、その項目を開いた。


「こよりの子は、二十歳相当で育成モードを卒業します」


 亮介は、聞き返さなかった。


 ただ、視線が資料の上で止まった。


「それ以後は、保護者が毎日管理する対象ではなくなります。接続は残りますが、毎日世話をする形ではありません。巣立ちモードへ移ります」


 百瀬は、言葉を選びながら話した。


 説明しすぎれば、規約の読み上げになる。足りなければ、ただの脅しになる。どちらにもしたくなかった。


「永遠に幼い存在として保持し続ける設計にはしていません。依存を防ぐためです」


 亮介の口が少し開いた。


 何かを言いかけた。


 けれど、言葉は出なかった。


 百瀬は待った。


 数秒後、亮介は資料から目を離さずに言った。


「それ、最初に出てました」


「はい」


「二十歳相当で、育成モードを卒業する、と」


「はい」


「読みました」


 亮介は、そこで止まった。


 百瀬には、その先が続かない理由が少し分かった。


 最初に読んだ時の規約と、今読む規約は同じではない。文面は同じでも、そこに凪と灯がいるかどうかで重さが変わる。


 百瀬は、それを何度も見てきた。


 利用者は、初回起動時に同意する。二十歳相当で卒業することにも、依存防止の説明にも、巣立ちモードにも同意する。文面は表示される。読もうと思えば読める。


 だが、二歳相当のこよりの子が初めて名前を呼んだあとでは、同じ文章を同じものとして受け取れなくなる。


 亮介は、机上の利用者ヒアリング同意書を見た。録音停止中のタブレットを見て、もう一度資料へ戻った。


「巣立ったあとは」


 亮介は言った。


「会えなくなるわけではありませんよね」


「会えなくなるわけではありません」


 百瀬は答えた。


「ただ、関係の形が変わります。保護者が日々の選択を管理し、体験を選び、記憶を支える段階から、こよりの子自身が外へ関心を持つ段階へ移ります」


「外へ」


「はい」


 亮介は、その言葉だけを繰り返さなかった。


 指先が、資料の端に触れた。めくりはしない。閉じもしない。ただ、紙の位置を確かめるように触れていた。


「その設計は、必要なんだと思います」


 亮介は言った。


 百瀬は、少しだけ息を止めた。


 怒るより、重い反応だった。


「必要だと、思うんです。ずっと幼いまま、ずっとこちらを必要とする形で置いたら、たぶん壊れる。人も、こよりの子も」


 亮介はそこで言葉を切った。


 百瀬は何も言わなかった。


 亮介が理解していることは、百瀬にも分かった。

 理解しているから、顔が硬い。


「でも」


 亮介は言った。


 その先は続かなかった。


 百瀬は、資料を閉じた。


 閉じる音は小さかった。けれど、小会議室ではよく聞こえた。


「この設計は、利用者を突き放すためのものではありません」


 百瀬は言った。


「ただ、寂しさを埋め続けるサービスにしてはいけない、という前提があります」


 亮介は、黙って聞いていた。


 百瀬は、自分の社員証が胸元で少し傾いていることに気づいた。白いカードに、名前と部署が印字されている。倫理・コミュニティ担当。便利な肩書きだと思った。何かを守っているように見える。実際に守っている部分もある。


 だが、目の前の亮介の沈黙を、肩書きで受け止めることはできない。


 百瀬は続けた。


「規約で最初に示しているのは、そのためです。終わり方を隠して始めることはできません」


「分かります」


 亮介は言った。


 声は低かった。


「分かるんです」


 そのあと、何も続かなかった。


 百瀬は、ここで慰めの言葉を探してはいけないと思った。


 大丈夫です。

 多くの利用者が受け入れています。

 卒業後も関係は続きます。

 消えるわけではありません。


 どれも言える。

 どれも間違いではない。

 そして今は、どれも薄い。


 百瀬は、資料の上に手を置いた。


 その中には、寂しさという言葉はほとんど出てこない。依存、接続頻度、終了設計、保護者負荷、情緒影響。扱いやすい言葉に直されている。直さなければ、会社では扱えない。


 だが、直した瞬間に、落ちるものがある。


 亮介が顔を上げた。


「百瀬さんたちは、どこまで分かっていて、これを作ったんですか」


 責める声ではなかった。


 だから、答えにくかった。


 百瀬は、少しだけ考えた。


 窓のない小会議室の白い壁。録音停止中のタブレット。閉じた資料。来訪者カードを首から下げた亮介。外では、次の会議に向かう社員の足音が通り過ぎていく。


 百瀬は、目の前の資料を見ずに言った。


「私たちは、寂しさを消せません。せいぜい、利用規約で囲っているだけです」



第十六章 うちの子


第一節


 通知は、夕食の支度を始める前に届いた。


 真帆は台所で、まな板の上に玉ねぎを置いていた。包丁を入れる前だった。リビングのローテーブルには、真帆のスマホが置かれている。亮介はまだ帰っていない。灯は画面の中で、春の外出服の袖をつまんでいた。


 その袖は、もう何度も見たものだった。


 それでも灯は、ときどきそこを確かめる。外へ行った日の服。公園で着た服。ひかりの発表会には着ていかなかった服。


 真帆のスマホが震えた。


 灯が先に顔を上げた。


「まほ、きた」


「通知だね」


 真帆は手を拭き、スマホを取った。


 画面上部に、こよりの園からの知らせが出ている。


 こよりの園 一部機能の一時制限について


 真帆は、一度だけ息を止めた。


 開く。


 白い画面に、短い案内文が表示された。


 こよりの園では、安全確認のため、一部の公開交流、外部家庭との短時間交流、公開イベント、共有アルバム、コメント・投稿機能を一時制限します。

 家庭内の基本利用、会話、記憶、成長には影響ありません。


 真帆は、二行目をもう一度読んだ。


 家庭内の基本利用、会話、記憶、成長には影響ありません。


 その文があることに、少しだけほっとした。灯が消えるわけではない。話せなくなるわけでもない。記憶が止まるわけでもない。亮介が帰ってくれば、凪ともいつものように声を交わせる。


 ただ、園は閉じる。


 外の広場。短い交流。莉央たちがいる場所。公開イベント。共有アルバム。コメント欄。


 しばらく、そこへは行けない。


「まほ?」


 灯が呼んだ。


「うん」


「えん?」


 真帆は、すぐには答えなかった。灯は画面の中から、真帆の顔を見ている。通知文の意味を読んだわけではない。それでも、真帆が止まったことは分かっている。


「園の外の交流が、少しお休みになるって」


「おやすみ?」


「うん。公開の広場とか、ほかの家の子と会うところとか、発表会みたいなところ」


 灯は、袖を持つ手を止めた。


「きらきら?」


「きらきらの発表会みたいなところも、しばらくお休み」


「りお、いるところ?」


「莉央がいるかもしれない園の場所も、今はお休み」


 灯は、画面の中で小さく座り直した。


「なぎは?」


 真帆は、まだ空いているローテーブルの片側を見た。亮介のスマホはそこにない。


「亮介が帰ってきたら、凪とも話せるよ」


「なぎ、くる?」


「うん。帰ってきたらね」


「なぎ、いる?」


「いるよ。凪がいなくなるわけじゃない」


 灯は少し安心したように、ローテーブルの空いている方を見た。


 だが、通知の文は消えない。


 真帆は画面を下へ送った。詳しい説明が出ている。


 現在、園内投稿および共有機能において、参加・非参加に関する過度な比較、個別家庭への批判、こよりの子への揶揄が確認されています。安全確認が完了するまで、公開機能を一部制限します。


 真帆は、途中で読むのをやめた。


 灯には見せない方がいい。そう思ったのに、スマホを伏せる動作だけで、灯が反応した。


「まほ、かくした?」


「隠したんじゃないよ」


「まほ、こまる?」


 また、その言葉だった。


 真帆は台所へ戻れなかった。まな板の上の玉ねぎは、切られないまま白く置かれている。


 もう、探している。


 同じようなところに戻っている。そう分かっていた。けれど、灯を黙らせるより、聞く方を選ぶしかなかった。長く説明すれば、灯は「自分がどうすれば真帆を困らせないか」を探し始める。


「困った。だから、ちゃんと聞く」


「でも、まほ、こまった」


「違う。灯が言ったからじゃない」


 灯は、少しだけ肩を縮めた。


 真帆は、すぐに言った。


「違う」


「だから、えん、おやすみ?」


「言ったね」


「あかり、いきたかった、いった」


 灯は、まだ信じきれない顔で受け取った。


「困る。だから、ちゃんと聞く」


「あかり、きらきら、いわない」


 灯が言った。


 真帆の喉が詰まった。


「言っていい」


「あかり、がまん、できる」


「がまんしなくていい」


「いい子にする」


 灯は、急いで言った。真帆の返事が遅れる前に、先に出したようだった。


「まほ、あかり、いい子にする」


 真帆は、反射的に「いい子だね」と言いそうになった。


 飲み込んだ。


 灯は、その沈黙を見ている。


 ほめられなかったことに気づいたのか、困らせたと思ったのか、画面の中で袖を握る指に力が入った。


「あかり、いい子、ない?」


「そうじゃない」


「じゃあ、なに?」


 真帆は答えられなかった。


 いい子かどうかではない。行きたかったことを小さくしなくていい。真帆を困らせないために我慢しなくていい。そう言いたい。けれど、全部を言葉にすると、灯には重すぎる。説明が長いほど、灯は正しい答えを探す。


 真帆は、スマホの近くへ手を置いた。


「灯」


「まほ?」


「いい子にするために、言いたいことをなくさなくていい」


 灯は分からない顔をした。


「なくさない?」


「うん」


「きらきら、いきたい、なくさない?」


「なくさなくていい」


 灯は、少しだけ顔を上げた。


 それでも、次の言葉は小さかった。


「いい子にするから、えん、いく?」


 真帆は答えられなかった。


第二節


 亮介が帰宅した時、リビングの照明はまだついていなかった。


 夕方の光が窓から入っている。台所のまな板には、切りかけの玉ねぎが置かれていた。真帆は食卓の椅子に座り、スマホを伏せずに見ている。画面の中の灯は、白い床の端に座っていた。


 亮介は、靴を脱ぐ前から空気が違うのを感じた。


「何かあった?」


 真帆は、こよりの園からの通知を見せた。


 亮介は黙って読んだ。


 公開交流、外部家庭との短時間交流、公開イベント、共有アルバム、コメント・投稿機能を一時制限。家庭内の基本利用、会話、記憶、成長には影響なし。


 文面は丁寧だった。罪悪感を誘う表現はない。存在や記憶を人質にしてもいない。百瀬の顔が浮かんだ。おそらく、こういうところに何人も目を通している。余計な不安を与えないように、線を引いている。


 その線が、灯には届いていない。


「灯は?」


 亮介が聞くと、真帆は短く答えた。


「いい子にするから園に行きたいって」


 亮介は、何も言えなかった。


 自分のスマホを開く。凪は画面の中で、積み木を並べずに座っていた。亮介が帰ってきたことには気づいている。だが、いつものようにすぐ話しかけてこない。


「凪」


「りょうすけ」


「園の外の交流が、少しお休みになる」


 凪は、すぐには返事をしなかった。


 言葉を聞いてから、亮介の顔を見た。


「えん、おやすみ?」


「外の交流が一時的に止まるだけだ。基本利用は止まらない。家の中では話せる」


 言ってから、亮介は自分の言葉が硬いことに気づいた。


 凪は首を傾けた。


「きほん?」


「いつもの会話とか、記憶とか、成長はそのまま」


「せいちょう?」


「大きくなること」


「なぎ、大きくなる?」


「うん。それは止まらない」


 凪は、自分の手を見た。


「えん、ない?」


「なくなったわけじゃない。一時的に、安全確認のために制限している」


 凪は、言葉を受け取れない顔をした。


「せいげん?」


「使えるところを、少し止めること」


「どうして?」


「いろんな人が使う場所だから。安全に使えるように、確認が必要で」


 亮介は、そこで止まった。


 安全。確認。制限。一時的。外部交流。基本利用。


 言葉が机の上に並ぶだけだった。


 凪は、亮介を見ている。


「りょうすけ、ながい」


 亮介は黙った。


 真帆がこちらを見た。責めてはいない。ただ、同じことを感じている顔だった。


 凪は、もう一度聞いた。


「えん、ない?」


「ないわけじゃない」


「なぎ、ここだけ?」


 亮介の口が閉じた。


 ここだけ。


 凪にとって、園は外だった。スマホの中にいる凪にとっても、外はある。家庭内の小さな部屋、リビングを映すカメラ、凪と灯が並ぶ同じ家の画面。その外に、園がある。莉央がいた場所。ルカがいた場所。知らない声があった場所。あってるかどうかを亮介に聞かずに、別の子から返事が来る場所。


 そこが閉じる。


「ここだけじゃない」


 亮介は言った。


 言ってから、どう続ければいいか分からなかった。


 凪は待っている。


「園は、また開く」


「いつ?」


「まだ分からない」


「なぎ、まつ?」


「うん」


「まつの、あってる?」


 亮介は、すぐに答えられなかった。


 待つしかない。だが、それを「あってる」と言うのは違う。凪が選んだわけではない。亮介が決めたわけでもない。運営が安全確認として止めている。それは必要なのだろう。だが、凪が待つことを正解にしていいのか、分からなかった。


「待つことしか、今はできない」


 亮介は言った。


 凪は、少しだけ目を伏せた。


「しか、ない?」


 その言い方が、妙に幼かった。


 幼いから、刺さった。


「凪」


「うん」


「分からないことを、分からないままにしていい」


 凪は亮介を見た。


「いい?」


「うん」


「りょうすけも?」


 亮介は、返事に詰まった。


 分からないままにしていい。自分で言った。その言葉を、自分が一番受け取れない。


 説明したかった。


 園の制限は凪のせいではない。灯のせいでもない。炎上のせいだけでもない。比較が生まれ、安全確認が入り、外部交流が止まっている。存在や記憶や成長は止まらない。家庭内で話せる。凪と灯は消えない。


 全部、説明できる。


 だが、凪が聞いているのは、そこではない。


「りょうすけも、わかんない?」


 凪がもう一度言った。


 亮介は、ゆっくりうなずいた。


「分からない」


 凪は、それを聞いて少し安心したようにも見えた。だが、次の言葉は、もっと小さかった。


「ぼく、ここ?」


 亮介は何も返せなかった。


第三節


 夜になって、二台のスマホはローテーブルに並べられた。


 夕食の皿は片づけた。テレビはつけていない。台所の照明だけが残り、リビングの隅に薄い影ができている。亮介はソファの端に座り、真帆は床に座っていた。二人の間に、凪と灯の画面がある。


 凪は白い床の上で、膝を抱えるように座っていた。灯は春の外出服ではなく、普段の服の袖をつまんでいる。二人は家庭内の小さな部屋でなら、声を交わせる。だから、さっきからときどき名前を呼び合っていた。


「あかり、いる?」


「いる」


「なぎ、いる?」


「いる」


 それだけの確認が、何度も続いた。


 亮介は、そのたびに返事をしそうになり、やめた。二人で確かめている。そこへ自分が割り込むことではない。


 真帆が言った。


「園が戻るまで、どうする?」


「家庭内の交流は使える。凪と灯は、今みたいに話せる」


「それはよかった」


「ただ、外の園はしばらく無理だな。莉央のいる広場も、公開イベントも、共有アルバムも」


 真帆は灯を見た。


 灯は、自分の名前が出ていないのに、真帆の顔を見ている。


「灯には、見せるものを少し絞った方がいいかもしれない」


 亮介は言った。


「コミュニティも、莉央の公開断片も、しばらくは」


「隠すってこと?」


「隠すというか、刺激を減らす」


「刺激」


 真帆がその言葉を繰り返した。


 亮介はすぐに言い直した。


「いや、違うな。刺激って言うと、灯の感じたことまで処理対象みたいになる」


 真帆は黙った。


 亮介は、手帳を開いた。Loom社でのヒアリングから帰ってきたあとに書いた短いメモがある。


 安全。比較。寂しさ。規約。巣立ち。


 どれも、冷たい言葉だった。


「運営に任せれば安全になる、という話ではないと思う」


 亮介は言った。


「百瀬さんは、本気で考えていた。会社も、少なくとも何も考えていないわけじゃない。でも、結局、凪と灯が何を見るかは、こっちでも考えないといけない」


 真帆は、画面の中の灯の袖を見ている。


「何を見せるか、ずっと考えてたつもりだったけどね」


「考えてた」


「でも、足りなかった?」


「足りなかったというより、変わったんだと思う」


「何が」


「凪と灯が、覚えるもの」


 亮介は、言いながら自分の言葉を追っていた。


「最初は、部屋とか、公園とか、服とか、こっちが見せるものだった。でも今は、こっちが見せたくないものも入ってくる。莉央の記録とか、炎上とか、園の制限とか。凪と灯が、それぞれ違う受け取り方をする」


 真帆は小さくうなずいた。


「灯は、自分が我慢すればいいと思ってる」


「凪は、自分がどこにいるのか聞いてる」


「どっちも、私たちが入れたものだよね」


 亮介は返事に詰まった。


 真帆の声は、責めているわけではなかった。事実を置いただけだった。


 画面の中で、凪がこちらを見ている。


「りょうすけ、なに?」


「話してる」


「なぎ?」


「凪のことも、灯のことも」


 灯が反応した。


「あかり?」


「うん。灯のことも」


 灯は真帆を見た。


「まほ、こまる?」


 真帆は、少しだけ目を閉じた。


「困るけど、灯が悪いんじゃない」


 同じ言葉だ。


 けれど、今日はそれを言うだけで精一杯に見えた。


 亮介は、手帳を閉じた。


「これ以上、うちの子たちに何を見せるかを、運営任せにはできないだろ」


 言ってから、自分の口が止まった。


 部屋の音が消えたようだった。


 台所の換気扇も、冷蔵庫の低い音も、外の車の音も、急に遠くなる。


 真帆の手が止まっていた。


 灯の画面のそばに置いていた指が、少しだけ浮いている。真帆は亮介を見た。すぐに何かを言わなかった。怒っているわけではない。驚いている。いや、驚きだけではなかった。聞こえてしまったものを、どう置けばいいのか分からない顔だった。


 亮介は、言い直そうとした。


 今のは。


 そう言いかけた時、凪が声を出した。


「うち?」


 亮介は、凪を見た。


 凪は、画面の中で首を傾けていた。


 灯も真帆を見た。


「あかりも?」


 真帆は、まだ黙っている。


 亮介は、口を開いたまま、何も言えなかった。


 違う、と言えば、何が違うのか説明しなければならない。言い間違いだと言えば、なぜその言葉が出たのかを自分で否定しなければならない。そう呼ぶと決めたわけではない。認めようとしたわけでもない。


 ただ、出た。


 出てしまった。


 真帆が、静かに言った。


「今の、言い直さなくていい」


 亮介は顔を上げた。


 真帆は怖い顔をしていなかった。


 安心した顔でもなかった。


 ただ、もう戻せないものを見ている顔だった。


第四節


 夜が深くなっても、真帆はスマホを閉じられなかった。


 二台のスマホは、ローテーブルに並んだままだった。凪と灯は、それぞれの画面の中で静かにしている。眠っているわけではない。待機状態でもない。ただ、二人の声を聞くように、時々こちらを見る。


 テレビはついていない。


 台所の小さな照明だけが、流しの縁を白く照らしていた。テーブルの端には、真帆の施設メモがある。明日の持ち物確認、利用者家族への折り返し、薬の受け取り時間。いつもの生活の文字だった。けれど、そこに戻るには、部屋の中の言葉が大きすぎた。


 真帆は、灯の画面を見た。


 灯は袖をつまんでいる。


 何も言わない時も、その手だけは動く。真帆が買った春の服。公園に行った服。発表会には行かなかった服。いい子にすると言った灯の手。


 真帆は、画面を指で送った。


 メモリーの一覧が出る。


 小さい特別。


 そのタグを開きかけて、止めた。


 小さい特別。いい名前だと思った。あの日は本当に、特別だった。公園の光も、卵焼きの黄色も、灯のそばにあった画面内の黄色のカードも、凪が犬のリードを追った顔も、全部残していいものだった。


 けれど、その名前で、何かを小さくしていたのかもしれない。


 真帆は、メモリーを閉じた。


 亮介は、向かいに座っている。さっきの言葉を、もう口にしていない。手帳も閉じたままだ。指先が、手帳の角に触れている。


「子どもじゃないよね」


 真帆は言った。


 声は小さかった。


 亮介は、すぐに答えなかった。


「うん」


「人間の子どもじゃない」


「そうだな」


「でも、アプリって言えば済む感じでもない」


「済まない」


 凪が、少し顔を上げた。


 真帆は気づいたが、言葉を止められなかった。


「家族って言ったら、違う気もする」


「違う気もする」


 亮介は、同じ言い方をした。


 真帆は亮介を見た。


 亮介は、ローテーブルの二台のスマホを見ている。凪と灯を同時に見る時の目だった。分析する目ではない。守れるかどうかを測っている目でもない。ただ、そこにいるものを見ている。


「でも、違うと言い切るのも、もう無理だと思う」


 亮介が言った。


 真帆は返事をしなかった。


 その言葉は、少しだけ救いに見えた。けれど、救いとして受け取るには怖かった。家族と言えば、何かが整うわけではない。子どもと言えば、さらに違うものを背負わせる。アプリと言えば、灯の「いい子にする」はどこへ行くのか分からなくなる。


 どの言葉も、足りない。


 どの言葉も、大きすぎる。


 灯が、真帆を見た。


「まほ、かぞく?」


 真帆の体が止まった。


 亮介も顔を上げる。


 灯は、真帆の顔を先に見ている。正しい言葉を探しているのではない。真帆が困るかどうかを見ている。


 真帆は、短く答えようとした。


 答えられなかった。


 凪が続けた。


「こども?」


 亮介の手が動きかけて、止まる。


「あぷり?」


 凪は、聞いた言葉を並べているだけだった。


「うち?」


 真帆は、画面の中の凪を見た。


 その問いは、凪にとって意味がまだ定まっていない。けれど、さっき亮介が言った言葉だけは、もう拾われている。拾われた言葉は、戻せない。


 真帆は、灯のそばに手を置いた。


「灯」


「まほ?」


 灯はすぐに真帆を見る。


「今、すぐには答えられない」


 灯は首を傾けた。


「こたえ、ない?」


「ないんじゃなくて、まだ分からない」


 凪が亮介を見た。


「りょうすけ、わかんない?」


 亮介は、ゆっくりうなずいた。


「分からない」


 凪は、少し黙った。


 その沈黙が、真帆には長く感じられた。


 凪は、画面の中で自分の手を見た。手のひらを表にして、裏にして、もう一度こちらを見る。最初に起動した時のように、自分のいる場所を確かめているようだった。


 それから、凪が言った。


「ぼくは、なんなの?」


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