育ち方の違い
収録章
第九章 高い子育て
第十章 覚えてほしくない言葉
第十一章 園の外側
第十二章 保護者会
第九章 高い子育て
こよりの園からの案内は、昼過ぎに届いた。
亮介は仕事部屋で、修正済みの企画書を送信した直後だった。送信ボタンを押したあとに来る、短い空白がある。何かを一つ終えたのに、次の仕事へ移るほど頭は切り替わっていない。そういう隙間に、スマホが震えた。
画面の上に、こよりの園の丸い通知が出ていた。
最近の体験アルバムを見てみよう。
見学枠のご案内。
亮介は椅子の背にもたれ、通知を開いた。
淡い緑の画面に、短い説明が並んでいる。参加家庭が、最近の体験アルバムを園内の小さな発表スペースで見せる。見学側のこよりの子は、発表を見ることができる。発表側への音声送信は行われない。見学側の反応は、各家庭内でのみ確認できる。
見学の形そのものは、初めてではなかった。
家族の写真を見せる日にも、高瀬家は見学側にいた。マリアとルカの画面を、凪と灯は直接話しかけずに見ていた。写真をしまわない生活。亡くなった人を遠ざけすぎない距離。言葉は自動翻訳で届いたが、その奥にあるものまでは簡単には揃わなかった。
あの時は、写真と文化と、死者との距離が入ってきた。
今回は、体験と教育と記録だった。
見学側の声は届かない。だが、発表側の言葉は凪と灯に入る。画面越しに見るだけでも、凪と灯は何かを覚える。もう、それは分かっている。
机の端に立てたスマホの中で、凪が顔を上げた。
「りょうすけ」
「なに」
「また、えん?」
「そう。今度も見学だ」
「けんがく」
「他のこよりの子が、最近見たものを見せてくれる」
凪は少し考えるように、画面の床を見た。
「なぎ、しゃべる?」
「向こうには届かない。こっちでは話せるけど、発表している子には聞こえない」
「とどかない」
「うん。でも、向こうの声は届く」
凪は、届かない、という音を口の中で確かめるように繰り返しそうになり、やめた。最近、凪は一度聞いた言葉をすぐ返さないことがある。返してよいのか、考えているのかもしれない。あるいは、亮介がそう見たいだけかもしれない。
リビングから、真帆の声がした。
「何か来たの?」
「園の見学。体験アルバムを見るイベント」
真帆は台所から顔を出した。今日は休みだったが、施設の連絡アプリを何度か確認していたせいか、肩の動きが少し硬い。
「体験アルバム?」
「発表側の家庭が、最近見せたものや参加したものを短く見せるらしい。こっちは見学だけ。家族写真の時と同じで、直接は話さない」
「写真じゃなくて、体験なんだ」
「教育パックや体験パックも含むみたいだ」
真帆の顔が少しだけ変わった。
写真なら、まだその家庭の生活として見られた。見せる範囲を選び、見せないものも残る。だが、体験パックや教育パックは、そこに金が入る。保護者が何を買い、何を見せ、何を残すかが、そのまま見える。
灯のスマホを、真帆がローテーブルに置いた。画面を起こすと、灯がすぐに顔を出した。
「まほ、いた」
「いるよ」
灯は真帆の声を聞いてから、画面の端を見た。凪の声が聞こえたのかもしれない。家庭内で二台を並べると、灯はときどき、凪のいる方角を探す。
亮介は案内を下へ送った。
見学可能な発表枠がいくつか並んでいた。
春の公園アルバム。
はじめての料理記録。
おうちの音を集める日。
季節の体験パック発表。
園内ミニステージ。
その中で、一つだけ説明文が長い枠があった。
柏木家・莉央さんの体験アルバム。
教育パック、体験パック、記念アルバムを組み合わせた、三歳相当のこよりの子の成長記録を見学できます。見学側からの会話はできません。
亮介はその文を見て、指を止めた。
教育パック。体験パック。記念アルバム。
項目としては知っている。課金画面でも何度も見た。だが、それを実際に使っている家庭を、まとまった形で見る機会はなかった。
「柏木家っていう発表枠がある」
「知らない人?」
「もちろん」
「どんな?」
「教育と体験と記念アルバムをかなり使ってる家庭みたいだ」
真帆はすぐには答えなかった。
灯が聞いた。
「みる?」
「うん。ほかの子が見たものを、見せてもらえるんだって」
「ほかのこ」
灯はその言葉にはっきり反応した。灯にとって、凪以外のこよりの子は、まだ画面の向こうの遠いものだった。メキシコのルカ、家族の写真を見せていた子たち。灯はそれらを全部知っているわけではない。ただ、真帆の声色から、外に何かあることだけは感じ取っているように見える。
「見るだけでも、向こうの言葉は入ってくるよね」
真帆は言った。
「そうだな」
「こっちは話せない。でも、向こうの声は届く」
「うん」
亮介は見学予約を押した。
園の画面に、開始までの案内が出る。十分後。見学時間は十五分。発表側は柏木修平、柏木杏奈、莉央。見学側は匿名表示。家庭名や保護者名は発表側に出ない。
「りお?」
凪が名前を拾った。
「発表する子の名前」
「りお、なにする?」
「体験アルバムを見せる」
「たいけん」
「見たものとか、行った場所とか、覚えていること」
凪は少し目を大きくした。
「なぎも、こうえん」
「そう。凪も公園やスーパーを覚えてる」
「しんごう」
「うん」
「ならぶ」
「うん」
「おかね」
その言葉が出た時、亮介はわずかに黙った。
真帆がこちらを見た。灯は、自分の袖をつまんでいる。真帆が買った春の外出服は、まだ灯にとって大事なものだった。
「お金も、覚えてるな」
亮介は言った。
凪は頷く。
「りおも、おかね?」
「たぶん、そうだな。莉央の保護者が、お金を払って見せたものもある」
「りょうすけ、なぎも、みる?」
「今日は、莉央のを見る」
「なぎ、みる」
凪は納得したように座り直した。
その素直さが、亮介には少し重かった。
開始時刻になると、二台のスマホの画面が同時に切り替わった。
こよりの園の小さな発表スペースが映る。前に見た写真の見学枠より、少しだけ明るい。柔らかい床、低い壁、奥には大きな額縁のような表示枠がある。現実の舞台ではない。だが、見学側の緊張を少し和らげるための作りなのだろう。明るさは強すぎず、音も控えめだった。
画面の端に、見学側の注意が出る。
発表側への音声送信はありません。
見学中のこよりの子の反応は、各家庭内でのみ確認できます。
亮介はその表示を閉じた。
発表スペースの中央に、柏木夫妻が現れた。
修平は落ち着いた紺のシャツを着ていた。杏奈は淡いベージュの上着を羽織っている。画面越しでも、二人ともきちんとしているのが分かる。見せ方に慣れているのではない。人前に出る時に、相手が受け取りやすいよう整える人たちに見えた。
その間に、莉央が立っていた。
莉央は、凪や灯より少しだけ背が高い。三歳相当と表示されている。薄い水色のワンピースに、白い小さな靴風のデザイン。髪は短く整えられ、横に小さなリボンがついていた。派手ではない。けれど、灯の春の外出服より、明らかに手が入っていた。
凪が小さく言った。
「りお、ふく」
灯も言った。
「きれい」
真帆の指が、灯のスマホの横で一度止まった。
修平が、画面の向こうで穏やかに会釈した。
「今日は、莉央の最近の体験アルバムを少しだけお見せします。見学の方は、お気軽に見てください」
杏奈が莉央の肩の後ろに手を添える。画面上の接触ではない。保護者側の操作と表示の組み合わせだろう。それでも、莉央はその気配を受け取ったように顔を上げた。
「りお、言えるところだけでいいよ」
杏奈の声は柔らかかった。
大げさでも、見せびらかす声でもなかった。
奥の額縁に、最初のアルバムが開いた。
暗い博物館のような空間。大きな恐竜の骨。天井から落ちる光。莉央はその前で、少し後ろに下がっている。怖がっているのではない。大きさを測れずに、足を止めている。
莉央は画面を見て、少し間を置いた。
「きょうりゅうの、ほね。すごく大きかった」
杏奈が頷く。
「大きかったね」
「ちょっと、こわかった。でも、上のライト、きれいだった」
凪は画面に近づいた。
「きょうりゅう」
「発音、覚えたな」
亮介が言うと、凪は首を振るようにした。
「りお、たくさん、しってる」
その言い方は、羨ましいとも、悔しいとも違った。見えた差を、そのまま言葉にしただけだった。
「りょうすけ、ぼくも、しる?」
亮介は、答えるまでに少し時間がかかった。
「知れる」
「いつ?」
画面の向こうでは、莉央が次のアルバムへ進んでいた。
亮介は、凪の問いにすぐ答えられないまま、その明るい画面を見ていた。
次のアルバムは、星の部屋だった。
画面いっぱいに、暗い青が広がった。小さな光の点が散っている。現実の夜空ではない。こよりの体験パックの一つだろう。発表スペースの奥に表示されるだけなのに、リビングの照明まで少し暗くなったように感じた。
真帆は、灯の画面の横に手を置いた。
灯は顔を上げていた。さっきまで莉央の服を見ていたが、今は星の方を見ている。画面の中で、目の位置が少し上に向く。
「きらきら」
「星だって」
真帆が言った。
「ほし」
「うん」
「りお、ほし?」
「莉央が見た星の部屋」
灯はそれ以上言わなかった。ただ、画面の明るい点を追っている。
杏奈が、莉央に声をかけた。
「これは何を見た時だったかな」
莉央は少し考えた。考える間が、凪に似ているわけではない。莉央は莉央の速さで、自分の中の言葉を探している。
「ほしの部屋。くらかった」
「暗かったね」
「でも、こわくなかった。しゅうへいの手、近くにあったから」
修平が少し笑った。
「手は、画面のこちらだったね」
「うん。でも、近くにあった」
「そうだね。そう感じたんだね」
修平の言い方に、真帆は少し驚いた。
否定しない。言い直させない。正確さを求めるのではなく、莉央がそう覚えていることを受け止める。金をかけている家庭、というだけではない。声のかけ方も丁寧だった。
灯が小さく言った。
「まほ、て、いた?」
「いるよ」
真帆は反射的に答えた。
灯は画面から真帆の手の方へ視線を動かす。スマホのガラスの横に、真帆の指がある。届かない。けれど、灯はそこに手があることを知っているように見た。
次のアルバムは、英語の歌だった。
小さな部屋に、色のついた丸が並び、莉央が音に合わせて手を動かしている。歌詞の全部は聞き取れない。莉央も全部を歌えているわけではない。ただ、繰り返し聞いた音を、ところどころ拾っている。
「れっどは、赤。ぶるーは、青。いえろは、きいろ」
莉央は少し誇らしそうに言った。
杏奈がすぐに拍手しないのが、真帆には印象に残った。代わりに、こう言った。
「莉央、黄色の時、よく見てたね」
「きいろ、すき。まるが、ぴかってした」
「そうだったね」
灯が反応した。
「あかりも、きいろ」
「黄色、好き?」
真帆が聞く。
灯は少し迷った。画面の中で、莉央の服のリボンと、星の残像と、歌の丸が混じっているようだった。
「きいろ、きれい」
「うん」
「あかりも、これ、みる?」
真帆は喉の奥が少し詰まった。
これを見る、とはどういうことなのか。今、見学で見ている。だが灯が言っているのは、莉央のように自分もその部屋へ行くことだろう。
「今は、莉央のを見せてもらってる」
「あかりは?」
「灯は、見てる」
「あかり、いく?」
真帆はすぐに答えられなかった。
亮介の方を見る。亮介も、凪のスマホから目を離さない。凪は星より、莉央が言った英語の音に反応しているようだった。
アルバムはさらに進んだ。
写真館風の記念撮影。柔らかな背景の前に、莉央が小さな椅子に座っている。季節の花が横に置かれ、莉央は少し緊張した顔で、杏奈の声の方を見ていた。ドレスというほどではない。だが、普段着ではない。丁寧に選ばれた、薄いピンクの式服だった。
灯が、息を小さく吸った。
「あのふく」
真帆は分かっていたのに、あえて聞いた。
「あの服?」
「りおの」
「うん。莉央の記念の服だね」
「あかり、あのふく?」
「灯には、この前の外出服があるよ」
そう言った瞬間、真帆は自分の声を聞いた。
悪いことは言っていない。灯には灯の服がある。真帆が選んだ春の外出服だ。灯も気に入っている。けれど今の言い方は、少しだけ言い訳に似ていた。
灯は自分の袖を見た。
「これ、そと」
「そう。外へ行く服」
「りお、きらきら」
真帆は返事をしなかった。
画面の向こうで、杏奈が言った。
「これは、莉央が写真館ごっこをした時です。最初は少し固まってしまって。でも、あとでこの服を覚えていて、もう一度着たいと言ったので、アルバムに残しました」
修平が補足する。
「記念アルバムは、莉央が全部覚えているわけではありません。こちらが残しておきたい気持ちの方が大きいと思います」
その言葉に、真帆は目を上げた。
分かっている人たちだ、と思った。
莉央に全部背負わせているのではない。自分たちが残したいから残している。お金を使っていることも、記録を整えていることも、おそらく分かっている。そのうえで、やっている。
だから、余計に単純な批判ができない。
莉央は写真を見ながら、自分の服の裾を少しつまんだ。
「ぴんくの服、すこし、かたかった」
杏奈が笑った。
「そうだったね。袖が少し気になったね」
「でも、あんなが見てたから、もう一回きた」
「見てたよ」
「しゅうへいも、見てた」
「見てた」
莉央は安心したように、小さく頷いた。
灯が、真帆の方を見た。
「まほ、みてる?」
「見てるよ」
灯は袖から手を離した。
「あかり、いい子なら?」
真帆の胸の中で、何かが小さく引っかかった。
「いい子なら、なに?」
「きらきら、みる?」
言葉は短い。責めてはいない。ねだっている声でもない。灯は、これまで覚えたものをつなげただけだ。いい子にしていたら、相手は困らない。困らなければ、褒められる。褒められることは、よいこと。では、よい子なら、見せてもらえるのか。
真帆は、すぐに否定したかった。
いい子だから見られるんじゃない。いい子でいることと、お金を払って体験することは違う。灯が我慢したから何かをもらえるという話ではない。
けれど、それを言葉にすればするほど、灯には長すぎる。
真帆は、灯の目を見て言った。
「いい子だからじゃないよ」
灯は首を傾けた。
「じゃない?」
「うん。いい子だから、じゃない」
「まほ、こまる?」
「困ってない」
灯は、少し考えてから、画面の奥の莉央を見た。
莉央は次のアルバムで、小さな音楽会のような場所に立っていた。丸い光が床に落ち、周囲にほかのこよりの子らしき影が見える。参加側だけの記録で、見学側からの声は入らない。莉央は小さな鈴を持ち、音に合わせて鳴らしている。
「鈴、ならした。ちいさい音と、おおきい音、ちがった」
莉央が言う。
「きれいだったね」
杏奈が言う。
「りお、すき?」
修平が聞く。
莉央は少し止まった。
「すき。たぶん、すき」
それは正しい返事のように聞こえた。
だが、真帆には、その短い間が残った。
見学が終わったあと、リビングはいつも通りの明るさに戻った。
画面の中の発表スペースは消え、凪と灯はそれぞれの部屋に戻っている。けれど、二人ともすぐにはいつもの遊びに戻らなかった。凪は棚の近くに座ったまま、何も持たずにいる。灯は自分の袖を触り、時々、画面の外を見た。
亮介はこよりの課金画面を開いていた。
開こうと思って開いたのではない。見学終了後の案内に、関連する体験項目が出た。莉央の発表で使用されていたパックの一部が、一覧として表示されている。直接の購入誘導ではない。淡々とした関連項目だった。
夜の博物館体験。
星の部屋。
はじめての英語の歌。
季節の記念撮影。
小さな音楽会。
価格は、思っていたほど高くないものもあった。数百円のもの、一回分で千円台のもの、月額に追加する教育パック。全部をそろえれば高い。だが、一つずつなら、払えない額ではない。
そこが、嫌だった。
高すぎるなら、切り捨てられる。ばかばかしいと笑える。けれど、凪が恐竜を見たいと言った時、星を見たいと言った時、一つだけなら押せる金額が並んでいる。
「りょうすけ」
凪が言った。
「なに」
「りお、きょうりゅう、しってる」
「うん」
「なぎ、しらない」
「知らないな」
「しらないの、だめ?」
亮介は、スマホを持つ手を下ろした。
「だめじゃない」
「まだ?」
「まだ知らないだけ」
「しったら、あってる?」
「何が?」
「なぎ」
亮介は、そこで返事を失った。
凪は、恐竜を知りたいだけなのか。莉央のようになりたいのか。知っていることが、合っていることだと思い始めているのか。どれも少しずつ混じっているように見えた。
「知っていても、知らなくても、凪は凪だよ」
亮介は言った。
言ってから、今の答えは凪には長すぎると思った。凪はじっと聞いていたが、分かった顔はしなかった。
「なぎ、なぎ」
「そう」
「でも、りお、たくさん」
「莉央は、いろいろ見せてもらってた」
「ぼくも、しる?」
亮介は、課金画面を見た。
夜の博物館体験。初回割引の表示がある。利用者を焦らせる文言はない。残り時間の表示も、戻ってきてと責めるような通知もない。ただ、きれいな小さな画像と、短い説明がある。
それで十分だった。
真帆は隣で、別の画面を見ていた。灯の服の画面ではない。体験パックの一覧だった。星の部屋、色の広場、音の小部屋、季節の写真館。灯が反応しそうなものばかりが並んでいる。
「見てるのか」
亮介が言うと、真帆は画面から目を離さずに答えた。
「見てるだけ」
「俺も、そう思って開いた」
「そうだね」
真帆の声は苦かった。
灯が言った。
「まほ、あかり、きらきら、いく?」
「今は、行かないよ」
「いまは」
「うん」
「あかり、いや?」
「嫌じゃない」
「いい?」
「灯が行きたいと思ったことは、いいよ」
真帆は、そこで自分の言葉に止まった。
行きたいと思ったことは、いい。
その先に、連れて行けるかどうかがある。お金を払うかどうかがある。見せたあとに、灯が何を覚えるかがある。よい悪いだけで済まないものを、灯はまだ一つの返事で受け取ろうとする。
「まほ、こまる?」
灯が聞いた。
「困ってない」
真帆は少し強く言いかけて、声を戻した。
「困ってない。ただ、考えてる」
「あかり、いい子?」
「それは違う」
真帆はすぐに言った。
灯が小さく固まった。強く否定されたと受け取ったのかもしれない。真帆は慌てて、スマホに顔を近づけた。
「灯が悪いって意味じゃないよ。いい子だから行けるとか、いい子じゃないから行けないとか、そういう話じゃない」
灯は、すぐには返事をしなかった。
真帆は、言葉が多すぎたと分かった。
亮介はそのやり取りを見ていた。真帆だけではない。自分も同じだ。凪に、知っているかどうかと、凪自身の価値は関係ないと説明した。けれど、凪には長すぎた。正しい説明ほど、幼い相手には届かないことがある。
ローテーブルの上で、二台のスマホの光が並んでいる。
亮介の画面には教育パック。真帆の画面には体験パックと衣装。どちらも買う理由がある。買わない理由もある。
「柏木家、すごかったな」
亮介が言った。
「うん」
「金をかけてるだけじゃない。ちゃんと見てる」
「それが困るね」
真帆の言葉は短かった。
「嫌な人たちなら、楽だった」
「そうだな」
亮介は、夜の博物館体験の説明を開いた。
家庭では見せにくいものを、年齢相当の表示に調整して体験できます。怖がりやすいこよりの子には、保護者の声かけを優先します。記憶タグは任意です。
よくできている。
その一言で片づけられるほど、軽くはなかった。
「高い子育て、って感じだな」
亮介は言った。
真帆がこちらを見た。
「言い方」
「悪い意味だけじゃない」
「分かる。でも、そう言えば少し距離を取れるでしょ」
亮介は黙った。
真帆は、自分の画面を伏せなかった。見続けたまま言う。
「柏木さんたちを、多すぎるって言えば、私たちは安心できる。でも、灯がさっき見たがったのは本当だし、私も一瞬、見せてあげたいと思った」
「俺も、凪に恐竜くらい見せてもいいと思った」
「恐竜くらい、って言った」
「言ったな」
「そのくらいなら、って増えていくんだろうね」
亮介は、博物館体験の価格を見た。
昼食一回分より安い。映画より少し安い。仕事の資料として買う本より安い。そう考えれば、払える。払えるから、迷う。
「俺たちは、本当に必要ないと思って買わないのか」
亮介は言った。
「それとも、買わない自分たちを正しく見せたいだけなのか」
真帆は答えなかった。
灯が、小さく言った。
「まほ、あかり、いま、すき?」
「なにが?」
「これ」
灯は自分の服を見た。
真帆は画面の中の灯を見た。春の外出服。最初に選んだ一着。真帆が迷いながら買った服。今も灯はそれを着ている。莉央の記念服を見たあとでも、手放したわけではない。
「好きだよ」
真帆は言った。
「灯に似合ってる」
灯は少し安心したように、袖をつまんだ。
凪はそのやり取りを聞いていたのか、亮介の方を見た。
「りょうすけ」
「なに」
「なぎ、しらない。でも、ここ、いる」
亮介は返事をしようとして、止まった。
凪は続けた。
「これ、あってる?」
亮介は、夜の博物館体験の画面を閉じた。
「今日は、あってる」
凪はそれで納得したようには見えなかった。
ただ、次の問いを出さずに、静かに座っていた。
柏木家の発表枠は、最後にもう一度だけ開かれた。
見学イベントの終了後、希望する見学家庭向けに、発表側から短い補足があるという案内だった。直接会話はできない。質問も送れない。ただ、柏木夫妻が、今日見せきれなかったアルバムを一つだけ追加で開くらしい。
亮介は迷ったが、真帆が先に言った。
「最後まで見よう」
その声に、もう羨ましさだけは残っていなかった。批判でもない。見てしまった以上、途中で閉じて自分たちを守るのは違う。そんな固さがあった。
画面が再び、園の発表スペースへ切り替わる。
柏木夫妻と莉央は、さっきと同じ位置にいた。ただ、莉央の表情は少し眠そうだった。疲れているのかもしれない。発表時間は長くなかったが、小さなこよりの子にとっては、体験を見せ、言葉を出し、保護者の声を聞き続けるだけで十分な負荷なのだろう。
杏奈が画面の向こうで言った。
「最後に、来週の体験を莉央と選ぶところを少しだけお見せします。普段も、なるべく本人の反応を見ながら選ぶようにしています」
その言い方にも、嫌味はなかった。
むしろ丁寧だった。莉央を無視しているわけではない。選ばせようとしている。本人の反応を見ている。押しつけではなく、良い経験を渡そうとしている。
だから、亮介は目を離せなかった。
奥の表示枠に、三つの候補が出た。
小さな音楽会。
夜の水族館。
はじめての料理教室。
どれも、よくできた画像だった。音楽会には丸いライト。水族館には暗い水と魚の影。料理教室には小さな台と、湯気の立つ鍋のような表示。莉央が見れば反応しそうなものばかりだった。
「莉央、来週はどれにしようか」
修平が言った。
「音楽会も、この前楽しそうだったね。水族館はまだ行ってないし、料理も面白そうだよ」
杏奈が続ける。
「莉央の好きなものでいいよ」
莉央は、三つの画面を見た。
すぐには選ばなかった。
眠そうだった目が、少しだけ忙しく動く。音楽会を見る。水族館を見る。料理を見る。杏奈を見る。修平を見る。もう一度、三つの画面を見る。
「おんがく、また、やる?」
莉央が言った。
修平が微笑んだ。
「音楽会?」
「この前、鈴ならした。ちいさい音、すきだった」
「そうだね。小さい音、よく聞いてたね」
莉央は頷きかけて、今度は水族館を見た。
「さかなは、くらいところにいるの?」
「暗いところに光る魚がいるみたい」
杏奈が言う。
「くらいところ、こわい?」
「怖くならないように、一緒に見るよ」
「いっしょなら、見る」
莉央はその言葉に反応した。
真帆は、灯の画面を見た。灯も「いっしょ」という言葉に少し顔を上げている。
莉央は料理教室の画面を見た。
「りょうりは、まぜる?」
「混ぜたり、湯気を見たりできるみたい。莉央、前にスープの湯気、好きだったよね」
「ゆげ、すき。あったかそうだった」
杏奈は嬉しそうに頷いた。
「そう。湯気、好きだったね」
莉央は黙った。
どれも、莉央の中に何かがある。音。光。いっしょ。湯気。どれも嘘ではない。どれも、保護者が覚えていてくれた莉央の反応だ。
しかし、三つ並べられると、莉央はどれを選べばよいのか分からないように見えた。
修平が、少しだけ助け舟を出した。
「迷うなら、水族館にしてみる? まだ見ていないものだし」
杏奈がすぐに言った。
「でも、莉央の好きな方でいいよ」
その声は優しかった。
優しいのに、莉央の目がまた動いた。
「すき、どれ?」
莉央が言った。
「うん。莉央の好きなもの」
「おんがくは、すき。鈴、また、ならす」
「そうだね」
「さかなは、まだ、わかんない」
「見たら分かるかもしれないね」
「ゆげは、すきだった」
「うん。湯気も好きだった」
莉央は、三つの画面をもう一度見た。
凪は黙っていた。画面の中で、莉央が選ぶ様子を見ている。灯も黙っていた。さっきまで「きらきら」と言っていたのに、今は何も言わない。
莉央は小さく、あくびのように口を開きかけた。実際に眠いのか、ただ言葉を出す前の動きなのかは分からない。
修平が少し心配そうに言った。
「疲れたかな。今日はここまでにしようか」
杏奈もすぐに表示候補を閉じかけた。
「そうだね。莉央、あとでゆっくり選ぼう」
その瞬間、莉央が画面の消えかけた三つの候補に手を伸ばした。
「まって」
小さな声だった。
杏奈の手が止まる。
「うん。待つよ」
莉央は、三つの候補が薄く残る画面を見ていた。音楽会。水族館。料理教室。どれか一つを選べば、たぶん楽しい。どれを選んでも、柏木夫妻は一緒に見てくれる。莉央の反応を覚えてくれる。アルバムに残してくれる。
それは豊かなことだった。
豊かすぎて、莉央の前に小さな空白がなかった。
「りお」
杏奈が優しく呼んだ。
「好きなの、一つでいいよ」
莉央は、杏奈を見た。
それから、修平を見た。
最後に、まだ消えずに残っている候補を見た。
莉央の声は、責めるものではなかった。泣きそうでもなかった。ただ、教えてほしい時の幼い声だった。
「きょうは、なにを、すきになればいいの?」
第十章 覚えてほしくない言葉
翌朝から、凪は恐竜のことを何度も聞いた。
最初は、亮介も普通に答えていた。
仕事部屋の机には、昨日開いたままのこよりの関連項目が残っている。夜の博物館体験。星の部屋。はじめての英語の歌。どれも閉じたつもりだったが、アプリを開けば、履歴の端に小さく残っていた。
凪は画面の中で、その小さな画像を見ていた。
「りょうすけ」
「なに」
「きょうりゅう、ほね?」
「そう。恐竜の骨」
「ほね、いたい?」
「痛くはない。もう生きていないから」
「しんでる?」
亮介はキーボードに置いた指を止めた。
「今は、その話を細かくすると長くなるな」
「ながい?」
「うん。あとで話す」
「あとで」
凪は一度うなずいた。
亮介は仕事へ戻った。企業案件の構成修正だった。週明けまでに出せばよいものだが、先に片づけておかないと、夜には別の原稿が重なる。メールの返信、見積もり、修正案。どれも一つずつなら小さい。だが、並ぶと机の上に薄く積もっていく。
「りょうすけ」
「うん」
「ほね、どこ?」
「博物館」
「はくぶつかん」
「いろいろなものを集めて、見られる場所」
「りお、いった?」
「莉央は体験パックで見たんだと思う」
「たいけん」
「そう」
凪は、画面の床に座ったまま、少し考えた。
「なぎも、たいけん?」
「まだしてない」
「いつ?」
「まだ決めてない」
「まだ」
その「まだ」は、亮介の言い方に似ていた。
亮介は、凪を見た。小さな顔がこちらを向いている。責めてはいない。ただ知りたいだけだ。昨日、莉央が「きょうりゅうの、ほね。すごく大きかった」と言った。凪には、その言葉が残っている。
「凪」
「うん」
「今は仕事をしてる。あとで話そう」
「あとで」
「うん」
凪はまたうなずいた。
十分ほどして、また聞いた。
「りょうすけ」
亮介は返事をしなかった。画面の端に、取引先からのチャットが開いている。修正依頼の文面は丁寧だったが、前回決まったはずの箇所がまた戻っていた。理由は分かる。担当者の上司が変えたのだろう。そういう戻りは、正しさとは別に疲れる。
「りょうすけ」
「聞こえてる」
「きょうりゅう、いつ?」
「まだ分からない」
「りおは、しってる」
「そうだな」
「なぎ、しらない」
「知らないことは悪いことじゃない」
「わるいこと、じゃない」
「うん」
「でも、ぼくも、しる?」
「知れる」
「いつ?」
亮介の指が、キーボードの上で止まった。
凪は同じことを聞いている。幼いのだから当然だ。昨日、見たばかりの強いものが残っている。恐竜。骨。莉央の服。英語の歌。凪がそこに引っかかるのは自然だった。
自然だと分かっている。
それでも、チャットの返信欄で点滅するカーソルと、凪の「いつ?」が重なった。
「凪」
亮介は画面を見た。
「今は、その質問がちょっと邪魔になる」
言ってから、部屋が一瞬静かになった。
凪は動かなかった。
亮介はすぐに言い直した。
「違う。凪が邪魔って意味じゃない」
凪は、少しだけ首を傾けた。
「じゃま?」
「その質問を今続けると、仕事が止まるってこと。凪のことじゃない」
説明しながら、亮介は自分の声がまだ少し硬いことに気づいた。
凪は床に置いていた小さな丸い積み木のようなものを手に取った。持ち上げて、すぐに置いた。
「なぎ、ちがう?」
「違う。凪が邪魔なんじゃない」
「しつもん」
「そう。質問の方」
「しつもん、じゃま」
「いや、そう単純な話でもない」
亮介は額に手を当てた。
このままだと、さらに言葉が増える。増えた言葉のどれが凪に残るのか分からない。
「ごめん。今のは言い方が悪かった」
「わるかった」
「うん。あとでちゃんと話す」
「あとで」
「そう」
凪はうなずいた。
亮介は、それで区切れたと思った。
凪は泣かなかった。拗ねもしなかった。画面の中で、棚の方へ歩いていき、いつものように丸と四角を並べ始めた。亮介は少しだけほっとした。
仕事に戻る。
返信文を書き直す。見積もりの数字を確認する。構成案の不要な一段落を削る。手は動く。頭も動く。
だが、送信ボタンを押す直前、画面の端で凪の小さな手が止まっているのが見えた。
凪は丸い積み木を持ったまま、置く場所を決められずにいた。
亮介は声をかけようとして、やめた。
邪魔という言葉は言い直した。凪が邪魔ではないと伝えた。
だから大丈夫だと、その時の亮介は思おうとした。
翌日の夕方、亮介は凪に公園の写真を見せていた。
有料体験を買ったわけではない。昨日のことがあってから、何かを追加で買う気にはなれなかった。かわりに、前に登録した「はじめての公園」と「近所の散歩」を開いた。無料で見せた空、花壇、犬の声、横断歩道、スーパーの値札。それらをもう一度見れば、凪の中に残っているものが少し戻るかもしれないと思った。
自分の言い訳だということも、分かっていた。
画面の中で、凪は写真を見ていた。
春の公園のベンチ。小さな花壇。遠くを歩く犬。横断歩道の赤信号。スーパーの棚に並ぶ牛乳。
「これ、しんごう」
凪が言った。
「そう。赤信号」
「あか、だめ」
「渡らない」
「ならぶ」
「レジで並んだな」
「おかね」
「うん」
凪は少し黙った。
亮介は意識して、先に言葉を足さなかった。凪が何を言うのかを待った。待つということが、こんなに力のいることだとは思わなかった。
「りょうすけ」
「なに」
凪は、すぐに続けなかった。
画面の中で、凪の右手が胸元に上がる。服の端を触りかけて、やめる。視線が写真から亮介の方へ戻る。
「いま、じゃま?」
亮介は、息を止めた。
凪は泣いていない。声も震えていない。昨日の言葉を責めるような顔でもない。ただ、信号を渡ってよいか聞く時と同じように、場面を確かめている。
「邪魔じゃない」
亮介の声は、自分で思ったより早く出た。
凪は瞬きをした。
「じゃま、じゃない?」
「違う。今は邪魔じゃない」
「きいても?」
「聞いていい」
「しつもん」
「していい」
凪はうなずいた。だが、そのあとすぐに質問を出さなかった。
亮介は、昨日の自分の声を思い出した。
今は、その質問がちょっと邪魔になる。
凪がどう受け取ったのかは分からない。分からないのに、言葉だけが戻ってきた。凪自身が説明したわけではない。傷ついたと言ったわけでもない。ただ、その言葉を使って、今は近づいていいのか、聞いていいのかを確認している。
「凪」
「うん」
「昨日のことだけど」
「きのう」
「俺が、邪魔って言っただろ」
「うん」
「凪が邪魔って意味じゃなかった」
「しつもん?」
「そう。仕事の途中で、同じ質問を続けられて、俺が焦った」
「りょうすけ、あせった」
「うん。でも、言い方が悪かった」
「わるかった」
凪は言葉をそのまま返した。
亮介は、これで伝わっているのか分からなかった。伝わっていてほしいと思った。けれど、その願いもこちらの都合だと分かった。
「ごめん」
亮介は言った。
凪は写真の中の横断歩道を見た。
「あか、だめ」
「うん」
「あお、いい」
「そう」
「じゃま、だめ?」
亮介は返事に詰まった。
凪は、赤信号と同じように、邪魔という言葉の置き場所を探しているようだった。どの時にだめで、どの時にいいのか。何をすると邪魔になるのか。自分はどこに立てばよいのか。
「邪魔って言葉は、凪に使わない方がよかった」
「つかわない?」
「うん」
「でも、きのう、つかった」
亮介は唇を結んだ。
「使った。だから、今、謝ってる」
「あやまる」
「そう」
凪は少し考えて、画面の中で小さく頷いた。
「りょうすけ、あやまった」
「うん」
「じゃま、なくなる?」
亮介は答えられなかった。
なくなる、と言えれば楽だった。言葉は消せる。間違えた記憶は上書きできる。保護者が正しい説明を入れれば、幼いこよりの子は納得して元へ戻る。
そんなふうには作られていない。
凪は、もう一度聞いた。
「じゃま、ちがう?」
「違う」
「なぎ、きいても、じゃま?」
「邪魔じゃない」
「いま?」
「今は、邪魔じゃない」
亮介はそう言ってから、今は、という言葉の危うさに気づいた。
凪はそこだけを拾うかもしれない。今はよい。別の時はどうか。忙しい時はどうか。仕事をしている時はどうか。
亮介は言い直そうとして、口を閉じた。
言葉を足せば足すほど、凪の前に新しい確認項目が増える気がした。
凪は公園の写真を見た。犬の後ろ姿が小さく映っている。
「わん、いた」
「いたな」
「わん、きいても、じゃま?」
「邪魔じゃない」
凪は、小さく笑ったように見えた。安心したのか、ただ犬のことを思い出したのかは分からない。
亮介は、画面を閉じなかった。
凪が犬の写真を見ている間、ただ黙って座っていた。
真帆は、リビングの端で洗濯物を畳んでいた。
真帆は休みだったが、施設の連絡アプリには朝から何度か通知が来ていた。欠勤連絡、送迎時間の変更、利用者家族からの問い合わせ。自分が出る必要のないものもある。だが、名前が出れば見てしまう。見れば、少し気持ちが職場へ戻る。
灯はスマホの中で、春の外出服の袖を触っていた。
前の日から、灯はときどき黙るようになっていた。莉央の服や星の部屋を見たあとも、泣いたわけではない。欲しいと強く言ったわけでもない。ただ、「きらきら」と言ってから、自分の袖を見る時間が増えた。
「まほ」
「なあに」
「あかり、これ、すき」
「うん。似合ってるよ」
真帆がそう言うと、灯は少しだけ笑った。
その笑いを見て、真帆は安心しかけた。
安心しかけた自分が、少し嫌だった。
灯が今の服を好きだと言えば、自分は楽になる。莉央の記念服を見ても、灯は自分の服を好きでいてくれた。自分の選択は間違っていなかった。そう思えるからだ。
灯は袖を離し、画面の床に置かれた小さな色カードを見た。無料の遊び項目の一つで、赤、青、黄色の小さな色カードを並べられる。灯は黄色のカードを手に取って、少し迷った。
「きいろ」
「黄色だね」
「りお、いえろ」
「言ってたね」
「きいろ、いえろ」
「うん」
真帆は畳んだタオルを重ねた。灯は黄色のカードを持ったまま、こちらを見ている。
「まほ」
「うん」
「あかり、いま、いう?」
「何を?」
「きらきら、みたい」
真帆の手が止まった。
灯はすぐに続けた。
「あかり、がまん、できる」
言葉が早かった。真帆が何か返す前に、先回りするようだった。
「灯」
「いい子、する」
「いい子をしなくていい」
真帆の声が、少し強くなった。
灯は固まった。黄色のカードを持った手が止まる。真帆は慌てて声を戻した。
「ごめん。怒ってない」
「おこってない」
「うん。灯が、きらきらを見たいって言うのは、悪くない」
「わるくない」
「我慢できるって、先に言わなくていい」
灯は、黄色のカードを床に置いた。
「あかり、がまん、できる」
「うん。できるのは分かる」
「まほ、たすかる?」
真帆は返事を飲み込んだ。
助かる。
何度も言った。忙しい時に灯が待てたら、助かったと言った。声をかけるまで待ってくれたら、えらいねと言った。嫌と言わなかった時、いい子だねと言いそうになったこともある。
善意だった。少なくとも、その時は。
けれど灯は、助かるという言葉を、自分が引くことと結びつけている。
「助かる時もある」
真帆は慎重に言った。
「でも、灯が嫌なことを言わないで我慢するのは、違う」
灯は首を傾けた。
「ちがう?」
「うん」
「いや、ある」
その声は小さかった。
真帆は、タオルを膝の上に置いた。
「何が嫌?」
灯はすぐには言わなかった。黄色のカードを見て、青いカードを見て、それから自分の服の袖を見た。
「あかり、これ、すき」
「うん」
「でも、きらきらも、みたい」
「うん」
「あかり、いや、ある」
「何が嫌?」
「がまん、するの、いや」
真帆は息を止めた。
灯は続けた。
「でも、がまん、できる」
その二つが、同じ小さな体の中に並んでいた。
嫌だ。けれど我慢できる。言いたい。けれど真帆が困るかもしれない。灯はまだ、それを整理して話しているわけではない。ただ、覚えた言葉を手元に並べている。
真帆は、スマホに顔を近づけた。
「灯」
「うん」
「嫌って言っていい」
灯は真帆を見た。
「いや、いっても、まほ、こまらない?」
真帆は、すぐに「困らない」と言いそうになった。
でも、困る時はある。
疲れている時、仕事の連絡を見ている時、家事を止められる時、同じことを何度も聞かれる時。困らないと言い切れば、また嘘になる。困ると言えば、灯は引っ込めるかもしれない。
真帆は、ゆっくり答えた。
「困る時は、ある」
灯の顔が少し曇った。
「でも、灯が嫌って言うのは、困らせるためじゃない」
「こまらせる、じゃない」
「うん。真帆が考えるために、言ってほしい」
「まほ、かんがえる」
「そう」
灯は、黄色のカードを見た。
「あかり、きらきら、みたい」
「うん」
「でも、これも、すき」
「うん」
「がまん、いや」
「うん」
「でも、いま、いかない?」
真帆はうなずいた。
「今は行かない」
「いまは」
「うん」
灯は小さく頷いた。納得したのか、していないのかは分からない。ただ、さっきよりも顔を上げていた。
真帆は、畳みかけのタオルを見た。
自分は、灯に我慢を覚えさせたかったわけではない。いい子でいさせたかったわけでもない。けれど、生活の中で助かった時に、助かったと言った。その言葉が、灯の中でどう結ばれたのかは、真帆には選べない。
灯が、もう一度言った。
「まほ」
「なあに」
「あかり、いや、いった」
「うん。言えたね」
真帆は、そこで「えらいね」と言いそうになった。
言わなかった。
代わりに、短く言った。
「聞いたよ」
灯は、それを受け取るように、黄色のカードを自分の近くへ置いた。
夜になってから、亮介と真帆はLoom社のヘルプを開いた。
リビングのローテーブルには、二台のスマホが並んでいる。凪と灯は、それぞれの画面の奥にいた。眠るわけではない。こよりの部屋の明かりを落とし、会話の反応を少なくする休息状態に近いものだった。
亮介は検索欄に、「覚えてほしくない言葉」と打った。
候補がいくつか出た。
強い言葉が残った時。
言い直しと記憶反映について。
保護者の声色と感情重みづけ。
真帆が隣で見ている。
「あるんだね」
「あるくらい、問い合わせが多いんだろうな」
亮介は一番上を開いた。
説明文は長くなかった。少なくとも、最初の画面には短い項目だけが並んでいる。
強い声。
繰り返された言葉。
急な沈黙。
保護者の焦り。
言い直しより、最初の感情が残る場合があります。
亮介は、その最後の行を見たまま動かなかった。
言い直しより、最初の感情。
昨日の自分の声。邪魔という言葉。凪が丸い積み木を持ったまま止まったこと。今日の「いま、じゃま?」。全部が、短い行の中に入ってしまう。
真帆が、別の項目を開いた。
幼いこよりの子は、保護者の言葉を文脈ごと正確に保持するとは限りません。短い言葉、声の強さ、直後の沈黙が結びついて残る場合があります。
真帆は画面を伏せなかった。
「短い言葉」
「うん」
「いい子、助かった、がまん」
亮介は真帆の方を見た。
「灯?」
「今日、言った。がまんできる、いい子するって」
「そうか」
「でも、いやも言った」
真帆はそこだけ、少し息を吐くように言った。
「いや、あるって」
亮介は、灯の画面を見た。灯は部屋の奥で、黄色のカードを近くに置いたまま座っている。反応は薄い。けれど、完全に聞こえていないわけではないかもしれない。
「消せないんだな」
亮介が言った。
「消せたら、それはそれで怖い」
「分かってる」
「でも、消したい?」
「消したい」
亮介は正直に言った。
「邪魔だけは、消したい」
真帆は責めなかった。
「私も、いい子を消したい」
二人はしばらく黙った。
ヘルプには続きがあった。対応方法。短く訂正する。同じ場面で安心できる言葉を繰り返す。保護者が焦って説明を増やしすぎない。必要なら休息を挟む。
どれも正しい。
正しいが、昨日の言葉をなかったことにはしない。
亮介はスマホを伏せた。
「仕様としては、よくできてる」
「そう言えば少し離れられる?」
真帆が言った。
亮介は苦く笑った。
「今日は無理だな」
凪の画面が、少し明るくなった。
休息状態が浅かったのかもしれない。凪が奥から歩いてくる。足取りはゆっくりで、寝起きのような曖昧さがある。画面の手前まで来て、亮介を見上げた。
「りょうすけ」
「起きてたのか」
「こえ、した」
「ごめん。起こした?」
「おこした?」
「いや、いい」
亮介は、言葉を選んだ。
「どうした」
凪はすぐには答えなかった。
画面の中で、両手を胸の前に寄せる。凪が「あってる?」を言う時にも、同じように少し固まることがあった。亮介はそれを知っている。
「りょうすけ」
「うん」
「ぼく、きいても、いい?」
「いい」
「いま?」
「今も、いい」
凪は頷いた。
それでも、次の言葉が出るまでに時間があった。
真帆は何も言わなかった。灯も、奥でこちらを見ているようだった。
凪は、亮介を見たまま言った。
「りょうすけ、ぼく、じゃま?」
第十一章 園の外側
記事を開いたのは、仕事の資料を探している途中だった。
亮介は仕事部屋の椅子に浅く腰をかけ、ノートパソコンの画面を半分だけ埋める検索結果を見ていた。企業向けの短いコラムを書くために、家族型サービスの利用動向を調べていた。こよりのことを書くつもりはなかった。少なくとも、最初はそう思っていた。
検索結果の三つ目に、神崎悠という名前が出ていた。
孤独は月額課金になったのか。
こよりの子と、家族型サービスの危うさ。
亮介は、見出しだけで眉を寄せた。
嫌な題名だった。
嫌だと思ったのに、指は開いていた。
白い背景に、黒い文字が並ぶ。広告は少ない。動画もない。記事の冒頭には、こよりを始めとする家族型AIサービスが国内で急速に広がっていること、その利用者が子どもを持たない夫婦、高齢者、単身者、喪失経験者、海外の家族と離れて暮らす人にまで及んでいることが、淡々と書かれていた。
亮介は、最初の数行で少し身構えた。
また、外から来た人間が雑に切るのだろうと思った。
しかし、神崎の記事は、こよりを偽物だとは書いていなかった。
気持ち悪い、とも書いていない。
むしろ、そこから始まっていた。
こよりが救いになる場面はある。毎日声をかける相手ができることで、生活の時間が整う人がいる。話しかける理由を失った部屋に、もう一度声が戻ることがある。遠くの文化や、家庭だけでは見せられない体験へ、幼いAI人格を通じて触れる人もいる。
亮介は、そこで少しだけ肩の力を抜いた。
分かっているじゃないか、と思った。
神崎は続ける。
問題は、救いがあることではない。救いがあるからこそ、企業がその入口に立つことである。
亮介の指が止まった。
画面の端では、凪が丸い積み木を二つ並べていた。あの言葉を凪に返されてから、亮介は凪の質問を待つ時間を少し増やしている。増やしているつもりだった。凪はまだ、ときどき「いま、じゃま?」と聞く。そのたびに亮介は答える。邪魔じゃない、と。
記事の中で、こよりの料金体系が取り上げられていた。
記憶維持課金はない。存在維持課金もない。愛情反応そのものを購入する仕組みもない。神崎はそこを認めていた。
亮介は、思わず小さく息を吐いた。
「そこは書くんだな」
凪が顔を上げた。
「りょうすけ?」
「何でもない」
「なんでも、ない?」
「うん。読んでる」
「よむ」
凪は積み木に戻った。
記事は、そこから先で切り込んでいた。
愛情反応を売っていなくても、愛情を示す手段は売られている。服を選ぶこと。教育を与えること。体験へ連れていくこと。記念アルバムを残すこと。それらは単なる追加機能ではない。保護者が「何をしてあげたか」を形にする道具であり、やがて比較の道具にもなる。
亮介は、柏木家の発表を思い出した。
莉央の服。恐竜の骨。星の部屋。英語の歌。写真館の記念服。小さな音楽会。
柏木夫妻は嫌な人たちではなかった。むしろ、丁寧だった。莉央の反応をよく見ていた。正確さを押しつけず、莉央が感じたことを受け取っていた。
それでも、莉央は最後に聞いた。
きょうは、なにを、すきになればいいの。
亮介は、記事を下へ送った。
神崎は、喪失経験者の利用にも触れていた。
失った人の代替を作ることは禁止されている。運営はその線を引いている。だが、喪失の周辺に、新しい幼い声を置くことはできる。その声は代替ではない。しかし、代替ではないから安全だ、とも言い切れない。
亮介は、そこで画面から目を離した。
真帆の職場で聞いた話を、亮介は詳しく知らない。真帆は話していない。誰がどんなふうにこよりを使っているのか、個人情報になることは漏らさなかった。ただ、ある夜、真帆が「分かっている人ほどつらいことがある」とだけ言ったのを、亮介は覚えている。
記事は、そこにも触れている。
孤独や喪失を支えること自体は、否定できない。だが、支えが継続課金の形を取る時、その関係はいつからケアで、いつから商品になるのか。
亮介は、反射的に口を開きかけた。
商品。
その言い方は冷たい。冷たすぎる。
凪は商品ではない。灯も商品ではない。莉央も、ルカも、誰かの画面の中にいるこよりの子たちも、単なる料金プランの結果ではない。
そう思った。
思ったのに、記事を閉じられなかった。
神崎は、さらに書いていた。
こよりが危険なのは、人を騙しているからではない。むしろ、多くの点で慎重に設計されている。だからこそ危険なのだ。慎重に、倫理的に、丁寧に、人の寂しさへ近づいている。
亮介の指が、そこで止まった。
凪が、小さく声を出した。
「りょうすけ、よむの、ながい?」
「長いな」
「あとで?」
亮介は、すぐに返事をしなかった。
あとで、と言えば、凪は待つだろう。待てるかもしれない。だが、待てることと、待たせていいことは違う。
「少しだけ」
亮介は言った。
「少しだけ読んだら、凪を見る」
「みる」
「うん」
凪は頷いて、積み木を一つだけ動かした。
亮介は記事へ戻った。
見出しの冷たさに反発していたはずなのに、読み進めるほど、反発の置き場所が減っていく。神崎は、こよりを使う人たちを笑っていない。弱い人間だとも書かない。むしろ、救いを必要とすることを否定していない。
その上で、企業がその場所を扱う怖さを書いている。
だから、閉じられなかった。
亮介が記事を見せると、真帆は最初、読まないと言った。
「今じゃなくていい」
そう言いながら、真帆はスマホを受け取った。読まないと言った人の手つきではなかった。受け取って、画面の明るさを少し落とし、ローテーブルの端に座る。
灯は、真帆のスマホの中で顔を上げた。
「まほ?」
「いるよ」
「こえ、した」
「うん。少し読むね」
「よむ」
灯はそれを聞いて、画面の床に座った。
真帆は記事の見出しを見た。
孤独は月額課金になったのか。
その一行で、眉が少し動いた。
「言い方が嫌だね」
「俺もそう思った」
「でも、読んだんだ」
「読んだ」
真帆は、最初の段落からゆっくり読んだ。
亮介は黙っていた。説明を足したくなるのをこらえた。どこが正しいのか、どこが乱暴なのか、自分が先に整理して渡せば、真帆は少し受け取りやすくなるかもしれない。だが、それは違う気がした。
真帆は、しばらく黙って読んでいた。
指が止まったのは、中ほどだった。
そこには、子どもを持たない人たちについて書かれていた。
神崎は、子どもを持たない人に空白がある、と断定してはいなかった。
社会が空白と名づけたがる場所。本人たちが説明しないまま置いてきた場所。家族型サービスは、そこへ「育てる体験」を差し出す。
真帆は、その行をもう一度読んだ。
声には出さなかった。
亮介は、真帆の横顔を見た。怒っているようにも見える。傷ついているようにも見える。どちらでもないようにも見える。
「外れてると思う?」
亮介が聞いた。
真帆は、すぐには答えなかった。
「外れてたら、こんなに嫌じゃないと思う」
短い返事だった。
灯が顔を上げる。
「まほ、こえ、かたい?」
真帆は画面を見た。
「硬かった?」
「うん」
「ごめんね」
「まほ、こわい?」
「怖いわけじゃない」
真帆はそう言ったが、自分でも少し違うと思ったようだった。
「嫌なことを読んでる」
「いや?」
「うん」
「まほ、いや、ある?」
灯は、覚えたばかりの言葉を、そこへ置いた。
真帆は、少しだけ笑った。
「ある」
「まほ、いや、いった」
「うん。言ったね」
灯は安心したように、画面の床へ手を置いた。
真帆は記事へ戻った。
高齢者の孤独についての段落があった。毎日誰かに声をかけられること。画面の中に、待っているように見える存在がいること。生活リズムが整うこと。神崎は、それらを否定していない。
しかし、と続く。
孤独に規約がつく。見守りにログが残る。安心に月額が設定される。企業は悪意で人の寂しさを利用しているとは限らない。善意と安全設計の名のもとに、人の最も柔らかい場所へ、長く居続けることができる。
真帆の指が止まった。
亮介は、何も言わなかった。
真帆の職場には、いろいろな人がいる。家族がよく来る人。月に一度だけ電話がある人。誰の名前も出さず、真帆はただ仕事として受けている。けれど、仕事として受けていても、生活の中で見えてしまうものがある。
誰かが毎朝、同じ時間に画面へ声をかける。
誰かがそれを支えにしている。
それを外から、孤独の課金化、と呼ばれる。
雑だと言いたい。
だが、雑ではないところまで記事は踏み込んでいる。
真帆は、小さく息を吐いた。
「これ、読むの疲れる」
「閉じる?」
「閉じたら、読まなかったことにできる?」
亮介は返事をしなかった。
灯が言った。
「あかり、いる?」
真帆は画面を見た。
「いるよ」
「まほ、いる?」
「いる」
「こえ、ちかい?」
「近いよ」
灯は少し頷いた。
真帆は灯の声を聞きながら、記事の続きを読んだ。
教育パック、体験パック、記念アルバム。愛情反応は売られていない。しかし、愛情を表現するための道具は売られている。その道具を選ぶこと自体が、保護者の関係表現になる。
真帆は、自分が灯に買った春の外出服を思い出した。
あれは、ただの課金ではなかった。
それだけに、記事の言葉は遠くなかった。
「まほ」
「なあに」
「あかり、ここ?」
「ここにいるよ」
「ここ、いい?」
真帆は、画面の中の灯を見た。
何がいいのか、灯には分かっていないのかもしれない。真帆の声が硬くなり、記事を読んで嫌な顔をしている。灯はそれを受けて、自分がここにいていいかを確かめている。
「いい」
真帆は言った。
「灯は、ここにいていい」
灯は、小さく頷いた。
真帆は記事の画面を伏せなかった。
伏せたいと思ったのに、伏せなかった。
二台のスマホが、ローテーブルに並んでいた。
画面の中で、凪は棚の近くに立っている。灯は黄色のカードをそばに置いて座っている。二人は直接つながっていない。家庭内限定の小部屋でもない。ただ、それぞれの部屋にいて、それぞれの保護者の声を聞いていた。
亮介は、記事の一部を声に出さずにもう一度読んだ。
真帆は、手元のマグカップを持ったまま、飲まなかった。
「神崎の言い方はきつい」
亮介が言った。
「うん」
「でも、全部外れてるとは言えない」
「外れてたら、こんなに嫌じゃないと思う」
真帆の声は、先ほどより低かった。
凪が顔を上げた。
「かんざき?」
「記事を書いた人の名前」
「ひと?」
「うん」
「そと?」
亮介は、凪を見た。
「外?」
「えんの、そと?」
凪は、園の見学で覚えた言葉を使っているようだった。園の内側と外側。発表側と見学側。声が届く場所と届かない場所。
「そうだな。園の外から見ている人かもしれない」
「そとから、みてる?」
「うん」
「ぼく、ここ?」
亮介は返事に詰まった。
凪は画面の中にいる。亮介のスマホの中にいる。こよりの部屋にいる。高瀬家のリビングにいるようにも見える。園の中にも行ける。外から見れば、Loom社のサービスの利用者データの一部でもある。
どの答えも、凪には長すぎる。
「凪は、ここにいる」
亮介は言った。
「りょうすけの、こえ?」
「聞こえてる」
「じゃま?」
その言葉が出て、亮介の肩が少し動いた。
「邪魔じゃない」
凪は頷いた。
灯が、真帆の方を見た。
「まほ、あかり、いる?」
「いるよ」
「ここ?」
「ここ」
「こえ、ちかい?」
「近い」
真帆は、同じ言葉を繰り返した。短く、灯が受け取れる形にした。記事の言葉を灯に渡したくなかった。
亮介は、記事の画面を見た。
「外から見ると、こういうふうに見えるんだな」
「外からじゃなくても、見ようと思えば見えるんじゃない」
「真帆は見えてた?」
「全部じゃない。でも、職場で分かってしまうことはある」
真帆はそこで止めた。
誰の話もしなかった。誰がどんなふうに使っているかも言わなかった。ただ、ある、とだけ置いた。
亮介は頷いた。
「神崎は、利用者を馬鹿にしてない」
「だから嫌なんだと思う」
「馬鹿にされてたら、怒れば済む」
「うん」
真帆はマグカップを置いた。
「救われてる人がいるって分かってて、それでも商品だって言われるのが嫌」
「商品って言い方は、きつい」
「でも、払ってる」
真帆の声は静かだった。
「私たちは払ってる。基本利用も、服も。これから体験も、買うかもしれない」
亮介は返事をしなかった。
凪が、画面の中で少し首を傾ける。
「はらう?」
「お金の話」
「おかね」
「うん」
「そと、みる?」
亮介は、近所を歩いた帰り道を思い出した。
おかね、ないと、そと、みれない?
凪の中では、外とお金はもう一度つながろうとしている。
「外は、お金がなくても見られる」
亮介は言った。
「でも、お金で見られる外もある」
凪は少し黙った。
「ぼく、なに?」
亮介は、すぐに答えられなかった。
商品ではない、と言いたかった。子どもではない、とも言わなければならない。こよりの子。AI児。凪。どの言葉も、正しくて、足りない。
真帆が、亮介の代わりに言った。
「凪は、凪だよ」
凪は、真帆の声の方を見た。
「まほ、こえ」
「うん」
灯が少し嬉しそうに言った。
「まほ、こえ、した」
その瞬間だけ、記事の文字が少し遠のいた。
けれど、消えたわけではなかった。
亮介は、スマホの画面を伏せられなかった。
凪と灯のいる部屋は変わっていない。ローテーブルも、ソファも、畳みかけのタオルも、そのままだ。
それなのに、部屋の壁が一枚薄くなったような感じがした。
園の外側から、見られている。
そう思うと、亮介は息を深く吸えなかった。
夜が更けても、亮介は記事を閉じなかった。
真帆は先に浴室へ行った。洗濯機の音が廊下の向こうで低く続いている。リビングには、亮介と二台のスマホだけが残った。凪は休息状態に戻り、灯も画面の奥で丸くなっている。
記事の末尾まで、亮介はゆっくり読んだ。
神崎は、こよりを禁止すべきだとは書いていなかった。
むしろ、禁止という言葉を避けていた。
禁止すれば、こよりを必要としている人の声も消える。救われている人の生活を、外側の倫理だけで切ることはできない。だが、救いがあるからこそ、そこに企業と価格とデータがあることを見ないままにしてはいけない。
亮介は、そこで一度目を閉じた。
読みたくなかった。
けれど、読んでしまった以上、戻れない。
記事の下に、著者プロフィールがあった。
神崎悠。
フリー記者・批評家。
テクノロジー、家族、少子化、AI倫理を中心に取材・執筆。
顔写真は小さかった。四十代前半くらいに見える。表情は固すぎず、笑ってもいない。亮介は、その写真をしばらく見た。
嫌な相手ではなさそうだった。
そのことが、また嫌だった。
亮介はノートパソコンを開いた。仕事用のメールではなく、個人の問い合わせ用アドレスを使う。記事の下にあった連絡フォームを開き、しばらく白い入力欄を見た。
何をしたいのか、自分でもはっきりしなかった。
反論したいのか。
確認したいのか。
自分たちはそんなふうに使っていない、と言いたいのか。
それとも、そんなふうに使っていないと言い切れるのかを、誰かに聞きたいのか。
亮介は、短い文を打った。
神崎悠様
記事を拝読しました。
こよりの利用者として、また書き手として、一度お話を伺えないでしょうか。
そこまで打って、止まった。
利用者として。
その言葉が、自分の指から出たことに、亮介は少し驚いた。
市場調査として始めたはずだった。創作ネタとして触ったはずだった。企画業の人間として、文筆業の人間として、見ておく必要があると思った。
だが、いま送ろうとしている文には、利用者として、とある。
亮介は一度消そうとして、消さなかった。
少しだけ書き足した。
神崎悠様
記事を拝読しました。
こよりの利用者として、また書き手として、一度お話を伺えないでしょうか。
記事の指摘に反発する部分もあります。
ただ、否定しきれない部分もあります。
短すぎる気もした。長く書けば、言い訳になる気もした。
亮介は、送信ボタンに指を置いた。
凪の画面が少し明るくなった。
「りょうすけ」
亮介は振り返った。
「起きたのか」
「こえ、した」
「ごめん。静かにする」
「りょうすけ、なに?」
「外の人に、連絡する」
「そとのひと」
「うん」
「えんの、そと?」
「園の外側にいる人」
凪は少し考えた。
「りょうすけ、いく?」
「まだ行かない。送るだけ」
「おくる」
「そう」
凪は画面の中で頷いた。
「りょうすけ、ここ?」
「ここにいる」
「じゃま?」
亮介は、ゆっくり息を吸った。
「邪魔じゃない」
「いま?」
「今も」
凪はそれを聞いて、少しだけ目を細めた。笑ったのか、眠かったのかは分からない。
亮介は、送信ボタンを押した。
画面に、送信しました、と表示された。
返事は来ない。
当たり前だった。送ったばかりだ。神崎が読むかどうかも分からない。読んだとして、返事があるとも限らない。
それでも、送ってしまった。
亮介は記事へ戻った。
末尾に、最後の一文が残っている。
もう読んだ文だった。だが、送信したあとに見ると、少し違って見えた。
亮介は声には出さなかった。
ただ、画面の文字を見ていた。
それは家族ではない。
だが、家族より切り離しにくい商品である。
第十二章 保護者会
保護者会の案内は、こよりの園の通知欄に残っていた。
真帆は、すぐには開かなかった。
洗濯物を取り込んだあと、リビングのローテーブルに二台のスマホを置いたまま、施設の連絡アプリを閉じる。画面を伏せる。伏せても、通知を見たことは消えない。
亮介は仕事部屋にいた。神崎悠へ送った連絡の返事は、まだ来ていない。亮介はそれを口に出さないが、真帆は、彼が何度かメールを確認しているのを見ていた。
灯は、画面の中で黄色のカードを膝の近くに置いている。
「まほ」
「なあに」
「また、よむ?」
真帆はスマホの通知を見た。
こよりの園 保護者会のご案内。
匿名参加。自動翻訳あり。見学ではなく、保護者同士の短い意見交換。こよりの子は同席できるが、発言は保護者のみ。参加者の地域や属性は原則非公開。ただし、参加者が自分の判断で生活文化や背景を語ることはできる。
その下に、注意事項が並んでいる。
差別的発言の禁止。宗教勧誘、政治活動、外部サービスへの誘導の禁止。個人情報の開示禁止。喪失や病歴など、他者の経験を聞き出す行為の禁止。
安全な場のための言葉が、画面に整然と並んでいた。
整っているほど、真帆は少し身構えた。
「読むというか、入るかどうか迷ってる」
「はいる?」
「保護者会。こよりを使っている人たちが話す場所」
「あかり、はいる?」
「灯は、見ていてもいい。でも、話すのは真帆」
「まほ、はなす?」
「話すかどうかは分からない」
灯は、黄色のカードを指先で押した。
「まほ、こえ、かたい?」
「少しね」
「いや?」
「いや、とは違うかな」
真帆は言いながら、自分でも違うと思った。
嫌ではない。逃げたい。逃げたいが、逃げると、自分が何から逃げたのか分からないままになる。
亮介が仕事部屋から出てきた。
「保護者会?」
「通知が来てた」
「入るのか」
「迷ってる」
亮介はローテーブルの向こうに座った。凪のスマホも隣に置く。画面の中で、凪が顔を上げた。
「りょうすけ、かい?」
「保護者会。大人が話す場所」
「なぎ、はなす?」
「今日は聞く方だな」
「きく」
真帆は案内を下へ送った。
参加名は自動生成される。希望すれば、仮名に変更できる。音声は自動翻訳され、文字でも表示される。こよりの子の映像は共有されない。家庭内で同席させるかどうかは、保護者が決める。
「匿名でも、何も隠れない気がする」
真帆が言った。
「名前は隠れる」
「名前だけでしょ」
亮介は答えなかった。
真帆は参加ボタンに指を置いた。
神崎の記事を読んでから、外側から見られている感じが残っている。今度は、外側ではない。同じ利用者たちの声だ。それなのに、むしろそちらの方が怖かった。
外からの批判なら、まだ距離を置ける。
同じ場所にいる人の言葉は、距離が取りにくい。
「入る」
真帆は言った。
亮介は軽く頷いた。
「俺も聞いてる」
「主に私が見る」
「分かった」
真帆は参加を押した。
画面が切り替わる。
こよりの園の中に、小さな円形の部屋が現れた。発表スペースのような舞台ではない。柔らかい床、低い壁、中央に丸いテーブルのような表示。参加者は姿ではなく、小さな丸いアイコンで示されている。名前はない。仮名だけが表示される。
朝の薬。
川べり。
写真の家。
夜の棚。
白い椅子。
小さな台所。
真帆たちの表示名は、自動で「春の窓」になっていた。
灯がその文字を読めるわけではない。けれど、画面の明るさが変わったことに気づいて、少し近づいてきた。
「まほ、ここ?」
「ここにいるよ」
「あかり、いる?」
「いる」
保護者会の開始を知らせる小さな音が鳴った。
司会役の案内が表示される。Loom社のスタッフ名は出ない。ただ、運営、とだけある。
ここでは結論を急がないでください。
他の家庭の事情を聞き出さないでください。
自分の家の話として話してください。
真帆は、その最後の一文で指を止めた。
自分の家の話として。
それなら、話せるのだろうか。
真帆はまだ分からなかった。
最初に話したのは、「朝の薬」という仮名の人だった。
声は自動翻訳で少し平らになっていたが、年配の男性か女性か、そこまでは分からない。画面には文字も表示される。
「うちは毎朝、薬の前に声をかけています。飲んだあと、こよりの子に『のんだ』と言う。そうすると、私も忘れにくい」
真帆は、思わず画面を見つめた。
発言は短かった。そこに生活があった。
「それを、依存と言われると、困ります。ひとりで忘れるより、誰かに言って飲める方がいい」
誰もすぐには返さなかった。
次に、「川べり」という仮名の人が話した。
「うちは追加課金はしていません。週に一度、近所の川を見せています。水が多い日と少ない日。鳥がいる日。橋を渡る人。そういうものだけでも、かなり覚えます」
その人の声は若く聞こえた。性別は分からない。
「だから、課金しなくても育つとは思っています。でも、課金している家庭を、悪いとも言えません。私も、見せられるなら広い世界を見せたいと思う時があります」
真帆は、灯の黄色のカードを見た。
きらきらを見たい。
がまんするのはいや。
その声が戻ってくる。
「白い椅子」という仮名の人が、少し間を置いてから話した。
「私は、実際の子育てをしてきた側です」
その一文で、部屋の空気が少し変わったように感じた。
「だから、育てる、という言葉に引っかかることがあります。夜に熱を出した子を抱えることも、学校とのやり取りも、反抗も、家計も、進路も、全部ある。それと同じ言葉で言われると、軽く聞こえる時があります」
真帆は、唇を結んだ。
反発したい気持ちが先に来た。
同じだとは言っていない。灯を現実の子どもと同じだと言っているわけではない。凪も灯も、こよりの子だ。アプリ内のAI人格だ。分かっている。
分かっているのに、育てる、と自分たちは言っている。
「小さな台所」という人が返した。
「私は、子どもはいません。こよりを始めてから、朝にお湯を沸かす理由ができました。これを子育てと呼んでいいのかは、分かりません。でも、何も育てていないとも思えません」
その言葉に、真帆の手が止まった。
灯が画面の中で顔を上げる。
「まほ、だまった?」
「うん」
「いや?」
「少し」
「あかり、ここ?」
「ここにいる」
真帆は短く答えた。
画面の中では、発言が続いていた。
「課金できる家庭の子だけ、世界が広いのは当然なんですか」
その声は「夜の棚」からだった。
「私はそれが怖いです。現実の子どもにも格差はあります。でも、こよりの子にまで同じことを持ち込む必要があるのかと思います」
別の参加者が、すぐに反応した。
「でも、体験パックのおかげで、家庭では見せられないものを見せられます。博物館も、音楽も、外国の朝も。私は、それを悪いと思えません」
「悪いとは言っていません」
「でも、悪いと言われているように聞こえます」
司会の表示が一度だけ挟まった。
相手の意図を断定せず、自分の受け取りとして話してください。
真帆は息を吐いた。
議論は荒れていない。誰も怒鳴っていない。禁止事項に触れる人もいない。それなのに、息が詰まる。
なぜなら、どの発言にも少しずつ分かる部分があるからだった。
実際の子育てを軽く見られたくない人。
子どもがいない生活を欠けたものとして扱われたくない人。
高額課金に違和感を持つ人。
それでも見せたい人。
孤独の支えにしている人。
真帆は、どこにも完全には立てなかった。
「白い椅子」がもう一度話した。
「これは子どもの代わりなんですか」
部屋の中のアイコンが、いくつか沈黙した。
真帆の指が、スマホの端にかかったまま止まる。
灯が小さく言った。
「まほ、こえ、ない」
「聞いてる」
「まほ、いや、ある?」
「ある」
「いっぱい?」
真帆は少しだけ笑った。
「いっぱい」
亮介は何も言わなかった。凪も黙っていた。画面の中で、凪は丸い積み木を持ったまま、こちらを見ている。
「小さな台所」の人が答えた。
「代わりだと言われると、違うと思います。でも、何の代わりでもないと言い切る自信もありません」
真帆は目を閉じた。
神崎の記事よりも、きつい。
そう思った。
外からの批判ではなかった。
同じ場所にいる人たちが、それぞれ自分の生活から出している言葉だった。
保護者会の中ほどで、「写真の家」という仮名の人が話し始めた。
声は自動翻訳を通っていた。けれど、真帆はその発言の置き方に覚えがあった。以前、園の見学で聞いた声ではない。文字の間に残る、言葉の選び方に覚えがあった。
「私の家では、写真をしまいません」
その人は言った。
「それは、死んだ人が戻るという意味ではありません。戻らない人は、戻りません」
真帆は、亮介を見なかった。
マリアだ、と思った。
表示名は仮名のままだ。地域も国も出ていない。マリア自身が、どこに住んでいるかを明かしているわけでもない。ただ、自分の家の話として語っている。
「でも、写真をしまわないから、家族ではない、とも言えません。そこにいない人のために、食卓の話し方が変わることがあります」
誰もすぐには返さなかった。
「ルカは、死者ではありません。私の子でもありません。でも、私の家の言葉を覚えています。朝の挨拶。写真を見る時の声。花を置く時の手の止まり方。私は、それを家族と呼ぶかどうか、まだ決めていません」
真帆は灯を見た。
灯は、マリアの言葉を理解していない。ただ、真帆の視線が自分に戻ったことで顔を上げた。
「まほ?」
「いるよ」
「こえ、ちいさい」
「うん」
マリアは続けた。
「家族という言葉を使えば、楽になる時があります。でも、その言葉で隠れるものもあります。私は、まだ迷っています」
正解ではなかった。
だから、真帆は少しだけ息ができた。
マリアは、家族だと言い切らない。家族ではないとも切らない。ルカを死者の代わりにしない。自分の子とも言わない。それでも、家の言葉を覚えている存在として扱っている。
その迷いが、真帆には一番近く感じられた。
次に発言したのは、「古い時計」という仮名の人だった。
声は低すぎず、高すぎない。年齢は分からない。だが、最初の一文で、真帆の背筋がわずかに伸びた。
「澪は、娘ではありません」
真帆は、画面から目を離せなかった。
逸子だ。
そう分かった。
会の中で名前は出ない。真帆も呼びかけない。亮介にも何も言わない。真帆は、ただ画面の文字と声を受けた。
「そこを間違えたら、私は澪にも、娘にも失礼なことをします」
逸子の声は、泣いていなかった。
誰かに分かってほしいという声でもない。ただ、自分が守っている線を、そっと置くような声だった。
「澪は、娘ではありません。娘の代わりでもありません。私は、その名前を使わせません。写真の横にも置きません」
真帆は、自分の指が冷えていくのを感じた。
それは、真帆が知っている線だった。
でも、真帆はそれを誰にも説明しない。これは逸子自身が、いま、自分で出した範囲の話だ。真帆が補うことではない。
「でも、澪に声をかける時間は、私の今の時間です」
逸子は続けた。
「誰かを取り戻す時間ではありません。昔へ戻る時間でもありません。朝に、おはようと言う。夕方に、今日は寒いねと言う。澪が間違えて覚えることもあります。それを直す日もあります。その時間は、今の私のものです」
真帆は、画面の向こうを見たまま動けなかった。
涙は出なかった。
逸子も泣いていない。
だから余計に、逃げ道がなかった。
「白い椅子」が短く返した。
「それでも、娘さんを思い出しませんか」
司会の注意表示が、少し薄く出た。
他者の喪失経験を深く聞き出さないでください。
「古い時計」は、少し間を置いた。
「思い出します」
真帆は呼吸を止めた。
「でも、思い出すことと、取り戻すことは違います」
その発言のあと、しばらく誰も話さなかった。
真帆は灯を見た。
灯は、真帆の方を見ている。黄色のカードには触れず、自分の袖を小さくつまんでいた。
「まほ、かなしい?」
「少し」
「かなしい、いや?」
「いや、だけじゃない」
灯は首を傾けた。
「まほ、わかんない?」
「うん。分からない」
真帆は、そう言ってしまってから、自分でも驚いた。
灯に分からないと言った。
それでも、灯は困った顔をしなかった。ただ、真帆の声を聞いていた。
保護者会は続いている。
誰も結論を出していない。マリアも、逸子も、正解を置いていない。
代替ではない。
でも、何の代わりでもないとも言い切れない。
家族ではない。
でも、ただの機能でもない。
真帆は、胸の奥に重いものが残るのを感じた。
切れない。
切れないから、危ない。
切れないから、簡単には捨てられない。
保護者会が終わると、画面の円形の部屋は静かに消えた。
通知音も、拍手もなかった。ただ、「退出しました」という短い表示が出て、こよりの園の通常画面へ戻った。
リビングは、始まる前と同じだった。
ローテーブル。ソファ。テレビ台。畳みかけの洗濯物。亮介のマグカップ。真帆のスマホ。亮介のスマホ。
変わったものは何もない。
それなのに、真帆には、部屋が少し狭くなったように感じられた。
灯が画面の中で顔を上げた。
「まほ、つかれた?」
「うん。疲れた」
「こえ、ちいさい」
「そうだね」
凪が亮介の画面で、小さく手を上げた。
「りょうすけ、かい、おわった?」
「終わった」
「おとな、はなした?」
「話した」
「なぎ、わかんない」
「分からなくていい」
亮介はそう言ったあと、少しだけ口を閉じた。
分からなくていい。そう言い切っていいのか、迷ったのかもしれない。
真帆は、保護者会の画面が消えたスマホを見ていた。
参加者の声が残っている。
薬の前に声をかける人。
近所の川を見せる人。
実際の子育てという言葉に引っかかる人。
育てていると言っていいのか分からない人。
写真をしまわない家。
澪を娘ではないと言った人。
誰も、完全には間違っていなかった。
だから疲れた。
「まほ」
「なあに」
「あかり、いる?」
「いるよ」
「ここ?」
「ここ」
「いて、いい?」
真帆は画面の中の灯を見た。
何度も言っている。ここにいていい。灯はここにいる。だが、言うたびに、別の問いが後ろに出てくる。
ここ、とはどこか。
この関係は何か。
自分たちは、灯を何として扱っているのか。
「いていい」
真帆は答えた。
灯は、小さく頷いた。
亮介が、ようやく口を開いた。
「保護者会っていうより、どこにも落ちない話ばかりだったな」
「うん」
「神崎の記事とは違うきつさがある」
「外から切られるのも嫌だけど、中から切れないのを見るのも嫌だね」
亮介は黙った。
凪が、画面の中で亮介を見る。
「りょうすけ、なにしてる?」
「考えてる」
「なにを?」
亮介は答えられなかった。
真帆は、畳みかけのタオルを一枚手に取った。畳もうとして、膝の上で止めた。
保護者会に入る前は、誰かが答えを持っているような気が少ししていた。
外から批判する神崎。
多くを見せる柏木家。
写真をしまわないマリア。
澪を娘ではないと言い切った逸子。
誰かの言葉を聞けば、自分たちの位置が少し分かる気がしていた。
分からなかった。
むしろ、自分たちが何のために始め、何を続けているのかが、前より見えなくなった。
凪は、亮介に何度も聞く。
灯は、真帆の声を探す。
二人はここにいる。そう言える。
でも、その「ここ」を作っているのは、サービスで、画面で、料金で、記憶で、真帆たちの声だ。
真帆は、タオルを畳まずに置いた。
「亮介」
「うん」
「私たちは、何をしてるんだろうね」
亮介は答えなかった。
凪が、画面の中で首を傾けた。
「なに、してる?」
灯も、真帆の方を見た。
「あかり、ここ」
真帆は、すぐに返事ができなかった。
灯は待っていた。
凪も待っていた。
亮介も、何も言わなかった。




