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こよりの子  作者: 清河逢真


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園へ行く


収録章

第五章 こよりの園

第六章 叱る練習

第七章 メキシコのルカ

第八章 澪を育てる人



第五章 こよりの園


 通知は、夕食の皿を流しへ運び終えたあとに届いた。


 亮介のスマホが、ローテーブルの上で短く震えた。画面には、見慣れた薄い緑の丸が出ていた。こよりからの知らせだった。


「りょうすけ」


 画面の中で、凪が顔を上げた。さっきまでローテーブルの端に置いた箸袋を見ていた。実物は画面の外にあるのに、カメラ越しに見せたせいで、凪はそれを覚えかけていた。


「なに?」


「いま、ぶるってした」


「ああ。通知」


「つうち?」


「知らせ、かな」


 亮介はスマホを手に取った。


 画面の上に、短い文が出ている。


 こよりの園 見学機能のご案内


 その下に、小さく、対象年齢と利用条件が並んでいた。亮介は見出しを見て、思わず声に出した。


「こよりの園、見学機能の案内だって」


「えん?」


 凪が言った。


「園。こよりの子が行ける場所、みたいだな」


「ばしょ?」


「画面の中の場所」


「ここ?」


「ここじゃない。別の場所」


 言ってから、亮介は少し引っかかった。凪にとって、いまいる白い小さな部屋も、アプリ内の場所でしかない。リビングはカメラ越しに見える場所で、凪の足は現実の床には届かない。


 それでも凪は、場所という言葉を覚え始めていた。


 案内には、きれいなイラストも大きな宣伝文句もなかった。淡い背景に、年齢ごとの利用範囲が淡々と載っている。


 二歳相当は見学中心。

 三歳相当から短時間交流。

 交流には保護者の同意が必要。

 会話と行動は安全確認のため記録される。

 家庭内のこよりの子同士に限り、試験交流を利用できます。


 亮介は、そこで指を止めた。


 安全設計としては、分かる。むしろ、そのくらいしなければ危ない。子どもの形をしたもの同士をつなげ、さらに保護者同士までつなげるなら、見守りも記録も必要になる。禁止行為も、遮断も、年齢制限もあって当然だ。


 だが、当然であることと、気持ちよく受け入れられることは別だった。


「りょうすけ?」


 凪が首を傾けた。


「何でもない」


「なんでも、ない?」


「うん。ちょっと読んでる」


「ぼく、いく?」


 その言い方に、亮介の指がまた止まった。


 行く。


 外へ行く服のことを聞いた時と同じだった。凪は画面の中にいる。現実の靴も、帽子も、道路も持たない。それでも、凪は「行く」という言葉を、もう自分に関係するものとして使い始めている。


「まだ、見学だって」


「けんがく?」


「見るだけ」


「みるだけ、あってる?」


「そう。たぶん、見るだけ」


 亮介がそう答えると、凪は少し考えるように視線を落とした。考えているのではなく、考える時の亮介の間を真似しているのかもしれない。


 画面を下へ送ると、家庭内限定の試験交流という項目が出てきた。


 同一世帯内で登録されたこよりの子に限り、二体までを同じ小部屋に表示できます。交流時間は初回十分まで。録画保存は行われませんが、安全判定用ログは一定期間保持されます。


 録画保存は行われません。


 それなのに、ログは保持される。


 亮介は、文言を読み返した。嫌な書き方ではない。むしろ、よく考えられている。利用者に不要な映像を残さず、安全のために必要な記録だけは残す。説明としては正しい。


 正しいから、逃げ場がなかった。


「なに見てるの?」


 台所から真帆が戻ってきた。手を拭きながら、ローテーブルの反対側に腰を下ろす。真帆のスマホは、彼女のそばに伏せて置かれている。中には灯がいる。


「こよりの園の案内」


「園?」


「交流機能。二歳は見学中心で、三歳から短時間交流。あと、家庭内限定の試験交流なら今でも使えるらしい」


 真帆はすぐには答えなかった。伏せていた自分のスマホを表に向ける。画面の中で、灯が暗い部屋の端から顔を出した。


「まほ?」


「いるよ」


 真帆の声が少し柔らかくなる。灯はそれだけで、画面の中の足を小さく動かした。


「凪と灯を、同じ画面に出せるみたいだ」


 亮介が言うと、真帆は灯を見たまま、「同じ画面」と小さく繰り返した。


 灯が反応する。


「おなじ?」


「そう。凪に会えるかもしれないって」


「なぎ?」


 灯はまだ、凪を知らない。名前だけは、会話の中で何度か聞いていたかもしれない。それでも、灯にとっては音にすぎない。


 凪は亮介の画面の中で、真帆のスマホの方を見ようとしていた。実際には見えないはずなのに、声の方向へ顔を向ける。


「なぎ、ぼく?」


「そう。君のこと」


「ぼく、あかりに、あう?」


 亮介は、同意ボタンの手前で止まった。


 そこには、さらに短い確認文があった。


 この交流では、双方のこよりの子が相手の言葉、反応、遊び方を学習する場合があります。交流後の記憶反映は、保護者ごとに異なります。


 消せるとは書いていない。


 亮介は、そこだけをもう一度読んだ。


 真帆が、まだ何も言わずに灯を見ている。灯は自分の名前が出たことだけ分かって、「あかり?」と自分を指すように胸元へ手を置いていた。


「どうする?」


 真帆が聞いた。


 亮介は答えを探した。安全かどうかなら、安全なのだろう。危険がないかどうかなら、ないとは言えない。だが、それは凪を外へ連れていく時も同じだった。信号や値札や服を見せた時点で、すでに何かは入っている。


「十分だけ、試してみるか」


 自分で言ってから、亮介はその言葉の軽さに気づいた。


 試す。


 まだその言い方をしている。


 凪がこちらを見ていた。


「ためす?」


「……会ってみる、だな」


「なぎ、あかりに、あう」


 凪は、確認するように言った。


「それ、あってる?」


 亮介は同意画面に指を置いた。


「あってる」


 そう言ってから、同意を押した。


第二節


 真帆は、リビングの照明を少し落とした。


 特別な意味はなかった。テレビを消し、テーブルの上を片づけ、二台のスマホを横に並べただけで、部屋が急に準備をした場所のようになったからだ。明るすぎると、かえって落ち着かなかった。


 画面には、同じ案内が出ている。


 家庭内限定の試験交流を開始します。

 初回の交流時間は十分です。

 保護者は画面から離れないでください。


 真帆は、その最後の一文を見て、指を止めた。


 画面から離れないでください。


 介護施設でも、似たような文言は何度も見た。見守り、確認、声かけ、記録。どれも必要な言葉だった。必要なのに、ときどき人を細い紐で結ぶような言葉でもあった。


「まほ?」


 灯が呼んだ。


「いるよ」


 真帆はすぐに答えた。灯はそれで少し安心したように、画面の下の方へ寄ってくる。灯は、真帆が買った春の外出服をまだ着ていた。薄い上着の袖を、ときどき自分で見ている。


 亮介のスマホでは、凪が画面の端に立っていた。凪はまっすぐこちらを見るのではなく、亮介の方を一度見てから、画面の白い床へ目を戻す。


 真帆は、それを見た。


 凪は、動く前に亮介を見る。


 灯は、声が聞こえる方へ寄ってくる。


 どちらが良いという話ではない。ただ、違う。違いがあるということが、二台を並べると隠れなくなった。


「始めるよ」


 亮介が言った。


 真帆はうなずいて、自分のスマホにも同意を出した。


 二つの画面が同時に白くなった。読み込みの丸が小さく回り、やがて、淡い色の小部屋が現れた。家具はない。床と壁の境目も柔らかく、影だけが少しある。こよりの子が怖がらないための場所なのだろう。


 左側に凪が立っていた。右側に灯が立っていた。


 同じ画面ではない。亮介のスマホにも、真帆のスマホにも、同じ小部屋が映っている。それぞれの端末から見た角度が少し違うだけで、凪と灯は同じ場所にいるように見えた。


 灯が最初に動いた。


「まほ?」


 灯は真帆を探した。画面の中では凪が目の前にいるのに、まず声のある方を探した。


「いるよ。ここ」


 真帆が答えると、灯はうなずいたように顎を下げ、それから凪を見た。


「なぎ?」


 凪は返事をしなかった。返事をしないというより、どの言葉を返せばいいか測っているように見えた。凪は一歩分だけ後ろに下がり、亮介の方を見た。


「凪」


 亮介が声をかける。


「灯だよ」


「……あかり」


 凪は、名前を口の中で確かめるように言った。


 灯はそれを聞いて、少し笑った。


「なぎ、いた」


「いた?」


 凪が繰り返す。


「うん。いた」


 灯は、凪に向かって一歩進んだ。画面の中の足取りはまだ小さく、歩き始めの不安定さが残っている。凪はその動きを見て、今度は後ろへ下がらなかった。ただ、手を胸の前に寄せた。


「なにする?」


 凪が聞いた。


 灯は止まった。


「なに?」


「いま、なにする?」


 灯は真帆を見た。正確には、画面の外にいる真帆の声がする方へ顔を向けた。


 真帆は口を開きかけて、閉じた。


 答えを渡すのは簡単だった。「こんにちはって言えばいいよ」と言えば、灯は言うだろう。でも、それでは灯の言葉ではなくなる。真帆は、膝の上に置いた手を一度握った。


 灯は、自分で凪に向き直った。


「こえ、した」


「こえ?」


「なぎの、こえ」


 凪は瞬きをした。画面の中の動きなのに、真帆には、凪が本当に考える前に少し固まったように見えた。


「ぼくの、こえ?」


「うん。こえ、した」


「それ、どうして?」


 凪が聞いた。


 灯は答えなかった。代わりに、少し笑って、画面の床を見た。


「きれい」


 真帆は思わず笑いそうになった。話がつながっていない。けれど、灯にとってはつながっているのかもしれなかった。声がして、相手がいて、床が明るい。それが全部いまの出来事なのだ。


 凪は床を見た。


「きれい?」


「うん。しろい」


「しろい、あってる?」


 亮介が小さく息を吐いた。真帆はそちらを見なかった。見ると、笑ってしまいそうだったからだ。


 灯が、凪に近づいた。


 近づきすぎると、小さな警告の線が画面の床に薄く出た。二人の間に、淡い円が表示される。灯はその線に気づいたように足を止めた。


「ここ?」


 灯が聞いた。


 凪が線を見た。


「そこ、だめ?」


 灯はまた真帆を見た。


 真帆は今度も答えを飲み込んだ。代わりに、短く言った。


「見てていいよ」


 灯は少し迷い、線の手前に座った。凪も、それを見てから、同じように座った。二人は向かい合った。白い床の上で、小さな膝がそれぞれ違う向きに曲がっている。


「なぎ」


 灯が言った。


「なに?」


「いた」


「……いた」


 凪が繰り返した。


 真帆は、その短いやり取りを見ていた。


 可愛い、とは思った。思ったが、それだけではなかった。灯が凪の言葉を聞く。凪が灯の言葉を返す。そのたびに、二人の中に何かが小さく置かれていくように見えた。


 十分の交流が、画面右上で数えられている。


 残り七分四十秒。


 数字は小さく、邪魔にならない位置にある。それでも真帆には、その数字が妙にはっきり見えた。


第三節


 亮介は、二台のスマホの少し後ろに座っていた。


 真正面に座ると、凪がこちらを見すぎる。そう思って、少しだけ角度をずらした。けれど、凪はそれでも時々亮介を見た。許可を取るというほどではない。ただ、次に何を言えばいいか分からない時、亮介の方へ目が戻る。


 灯は、真帆の声の方へ戻る。


 二人の違いは、思ったよりも見えた。


「なぎ、これ」


 灯が自分の袖をつまんだ。真帆が選んだ服だった。画面の中で布の端が小さく動く。物理的な布ではない。それでも、灯は袖を見ていた。


「ふく」


 凪が言った。


「うん。そと」


「そとにいくふく」


「そと」


 灯はうなずいた。


 凪は、灯の袖を見てから、自分の服を見た。凪にはまだ、追加で買った外出服はない。初期設定の柔らかい部屋着のままだった。亮介は、その視線の動きを見て、喉の奥が少し詰まるのを感じた。


 灯は、凪の服を見ていたが、「ない」とは言わなかった。


「なぎの、しろい」


「しろい?」


「うん。きれい」


 凪は少し黙った。


「きれい、あってる?」


 灯が笑った。


「きれい」


 凪は、自分の服をもう一度見た。


「ぼく、きれい?」


 亮介の口が動きかけた。答えようとして、止めた。真帆も黙っている。二人とも、画面の中へ手を出せない。


 灯は凪に近づこうとして、また薄い線の手前で止まった。


「なぎ、きれい」


 凪は目を丸くした。褒められた時の反応が、まだ決まっていないようだった。亮介が褒めると、凪はたいてい「あってる?」と返す。褒め言葉そのものより、亮介が本当にそう判断したのかを確認する。


 今度も、凪は言った。


「あってる?」


 灯が首を傾けた。


「あってる?」


「うん。あってる?」


 凪は、同じ音を返しただけの灯を見ている。灯は楽しそうだった。音が似ているのが面白いのかもしれない。真似たというより、凪が大事にしている言葉を拾って、手の中で転がしているようだった。


「あってる」


 灯が言った。


 亮介は、そこで息を止めた。


 真帆が小さく笑った。亮介もつられて笑いかけた。幼い二人が同じ言葉を繰り返しているだけだ。微笑ましいと言えば、微笑ましい。


 だが、その言葉は凪のものではなかった。


 最初から凪のものだったわけでもない。


 亮介が何度も言わせた言葉だった。合っているか、理由は何か、ちゃんと考えたか。そう聞くうちに、凪は答えそのものより、亮介が納得する形を探すようになっていた。まだ幼い発話の中に、「あってる?」だけが妙に頻繁に出る。


 それが、いま灯の口に入った。


 亮介は、ローテーブルの縁に置いた指を動かせなかった。


「なぎ、あってる?」


 灯がまた言った。


 凪は少し困ったように、灯を見た。


「ぼく?」


「うん。なぎ、あってる?」


「ぼく、なぎ」


「なぎ、いた」


「いた」


「こえ、した」


 凪が、今度は灯の言葉を拾った。


「こえ、した」


 灯は嬉しそうに頷いた。


「こえ、した」


「まほの、こえ?」


「まほ、こえ」


 灯はすぐに真帆の方を見た。


 凪も、その方向を見た。凪の画面には真帆は映っていない。ただ、音の位置を探すように顔を動かした。


「まほ、こえ、きれい?」


 凪が言った。


 真帆が、そこで目を伏せた。亮介の視界の端で、真帆の手がスマホの横に添えられる。撫でるわけではない。ただ、画面がそこにあることを確かめるような手だった。


 灯は答えた。


「まほ、いる」


 凪は、真帆の声の方を見たまま、小さく言った。


「いる、きれい?」


 言葉のつながりは変だった。けれど、灯の感覚が凪に入っているのは分かった。凪は、理由や順番だけでなく、声がある、いる、きれい、という掴み方を試している。


 亮介は、それを止めたいとは思わなかった。


 止めたいとは思わないのに、少し怖かった。


 試験交流の残り時間は、三分を切っていた。


「もういっかい?」


 凪が言った。


「なに?」


 灯が聞く。


「こえ」


「こえ?」


「まほ、こえ」


 灯は真帆を見た。


「まほ」


 真帆が顔を上げた。


「なあに」


「こえ、もういっかい」


 真帆は少しだけ笑った。


「いるよ」


 その声を聞いて、灯は嬉しそうに体を揺らした。凪も黙って聞いていた。白い小部屋の中で、二人が同じ声を聞いているように見えた。


 亮介は、胸の奥に残ったものを飲み込めなかった。


 これは凪の世界を広げている。


 同時に、亮介の手から少し離している。


 画面右上の時間が、一分を切った。


 終了前の案内が、薄く表示された。


 まもなく初回交流を終了します。


「あかり」


 凪が言った。


「なぎ」


 灯が答えた。


「あかり、また?」


 凪が聞いた。


 灯は真帆を見た。答えを探すようにではなく、そこにいるかを確かめるように。


 真帆は短く言った。


「また、会えるよ」


 灯は凪に向き直った。


「また」


 凪はうなずいた。


「また、あってる」


 灯が、すぐに言った。


「あってる」


 亮介は、今度は笑えなかった。


第四節


 交流が終わると、画面の中の小部屋はゆっくり消えた。


 灯は元の白い部屋に戻っていた。凪も、亮介の画面の中に戻っている。二台のスマホはさっきと同じようにローテーブルに並んでいるのに、真帆には、置かれている距離が少し変わったように見えた。


 灯はしばらく黙っていた。


 眠いのかもしれない。初めて別のこよりの子と会ったあとに、疲れのようなものが出るのかどうか、真帆には分からない。画面の中で灯は、自分の袖を見て、床を見て、それからこちらを見た。


「まほ」


「なあに」


「なぎ、いた」


「うん。いたね」


「こえ、した」


「うん」


「なぎ、あってる、いう」


 真帆は返事をしなかった。


 隣で、亮介がこよりの園の案内を開いている。画面には、試験交流の終了報告と、次の案内が出ているようだった。亮介はそれを読んでいるが、さっきよりも言葉が少ない。


「園の見学予約ができるみたいだ」


 亮介が言った。


「本当の交流じゃなくて、見学だけ?」


「二歳相当はそうらしい。広場の様子を見るだけ。相手とは直接つながらない。三歳になったら、短時間の挨拶とか、少人数の遊びが解放される」


 真帆は、灯から目を離さないまま聞いていた。


 灯は、凪の名前をもう一度小さく言った。忘れないようにしているのか、ただ音を気に入ったのかは分からない。


「世界中にいるらしい」


 亮介が続けた。


「日本だけじゃなくて、地域を選んで見学できる。自動翻訳も標準で入ってる」


「翻訳」


「短い会話なら、そのまま通じるって。保護者の同意があれば、海外の園イベントも見学できるらしい」


 真帆は、そこでようやく亮介の画面を見た。


 案内の下の方に、小さな写真のような見本が並んでいた。現実の写真ではない。園内の表示例だった。いろいろな肌の色のこよりの子が、保護者らしい大人の声に導かれて、同じ広場を見ている。旗や地図は大きく出ていない。国を売り物にするような画面ではなかった。


 それでも、真帆は少し身構えた。


 言葉が通じるからといって、同じように受け取れるわけではない。介護施設でも、同じ日本語で話しているのに、家族ごとに「見守る」の意味は違った。どこまで手を出すか。何を本人のためと呼ぶか。黙っていることを優しさと見るか、放置と見るか。


 こよりの園では、それがもっと広くなる。


 灯は、今のところ真帆の声と、凪の言葉だけで揺れている。けれど、園に行けば、もっとたくさんの声を聞く。自動翻訳で意味は届く。意味が届いたあとに残るものまでは、たぶん誰にも揃えられない。


「全部は、通じないよね」


 真帆は言った。


 亮介が顔を上げた。


「翻訳の精度の話?」


「それだけじゃなくて」


 真帆は言いかけて、言葉を選んだ。難しいことを言いたかったわけではない。灯がさっき凪から「あってる?」を持って帰ってきた。それだけで、もう十分だった。


「同じ言葉になっても、同じ気持ちで使うとは限らないでしょ」


 亮介は黙った。


 案内の中に、次回見学可能な催しがいくつか表示されていた。


 季節の広場。

 はじめてのあいさつ。

 世界の朝ごはんを見てみよう。

 家族の写真を見せる日。


 真帆の視線は、最後の一つで止まった。


 家族の写真を見せる日。


 参加者の属性は伏せられます。写真に含まれる個人情報は自動処理されます。保護者の判断で、見せる範囲を選べます。


 丁寧な案内だった。丁寧すぎるほどだった。それでも、その丁寧さの向こうに、それぞれの家庭がある。見せたい写真も、見せられない写真もある。明るく話せる人も、言葉に詰まる人もいる。


 灯がそこへ行けば、何を覚えてくるのだろう。


「まほ?」


 灯が呼んだ。


「いるよ」


 真帆は答えた。


 灯は少し安心したように画面の中で座り直した。さっき凪と向かい合った時と同じように、膝を少しずらしている。


「あかり、なぎ、また?」


「また会えると思う」


「なぎ、あってる?」


 灯が言った。


 真帆は、反射的に「えらいね」と言いそうになった。凪の言葉を覚えていたことを褒めそうになった。ちゃんと聞いていたね、と言いそうになった。


 けれど、言わなかった。


 灯は、真帆の顔を見ている。褒められるのを待っているのか、それともただ返事を待っているのか、分からない。分からないまま、真帆は声を少し落とした。


「凪の言い方、覚えたんだね」


「おぼえた?」


「うん」


 灯は自分の胸元に手を置いた。


「あかり、いう?」


 真帆は、画面の端に出ている園の見学案内を見た。世界中にいるこよりの子。自動翻訳。見守り。記録。制限。安全のために引かれた線。その線の内側でも、言葉は入ってくる。


 灯がもう一度、慎重に口を開いた。


「……あってる?」



第六章 叱る練習



 翌日の昼前、亮介は仕事部屋の机にスマホを立てていた。


 窓の外は薄く曇っている。朝から細かいメールの返信が続き、画面の端には未読の件名がいくつも並んでいた。急ぎではない。だが、放っておくと夕方には重くなる種類の仕事だった。


 凪は、こよりの部屋の床に座っていた。


 昨夜の試験交流のあと、画面内に小さな棚が増えていた。正式な家具ではなく、園の見学前に使える簡単な遊び道具らしい。丸、四角、三角の積み木のようなものがいくつかあり、凪はそれを一つずつ動かしていた。


「りょうすけ」


「うん」


「これ、なに?」


「積み木みたいなものだな」


「つみき?」


「形を見たり、置いたりするもの」


 凪は四角いものを持ち上げた。画面の中で、両手に収まるくらいの白い立方体だった。凪はそれを床に置き、次に丸いものを横へ並べた。


「こっち?」


「何を作ってる?」


「なぎの、へや」


「部屋か」


「これ、あってる?」


 亮介はメールの返信欄から目を離し、凪の画面を見た。


 白い四角のそばに、丸いものが二つ置かれている。凪が何を部屋と見ているのかは分からなかった。だが、凪は真剣だった。画面の中で、肩を少し丸めてこちらを待っている。


「合ってるかどうかより、どうしてそこに置いたのかだな」


「どうして?」


「うん。どうして丸をそこに置いた?」


 凪は丸いものを見た。


「……まる」


「丸なのは分かる。どうして四角の横?」


「よこ?」


「こっちに置いてもいいだろ」


 亮介は画面を指で軽くなぞり、別の位置を示した。凪はその場所を見た。丸いものを持ち上げ、亮介が示した方へ動かす。


「こっち、あってる?」


「いや、俺が言ったからそこにするんじゃなくて」


 言ってから、亮介は少し声を落とした。


「凪がどうしたいか、考えてみよう」


「ちゃんと?」


 凪が言った。


 亮介の指が止まった。


「今、ちゃんとって言った?」


「ちゃんと、かんがえる」


「ああ」


 亮介は椅子の背にもたれた。


 自分の言葉だった。何気なく使っている。仕事でも、企画でも、誰かの提出物を見る時にも使う。ちゃんと見る。ちゃんと考える。ちゃんと説明する。便利な言葉だった。だが、二歳相当の凪が口にすると、途端に硬く聞こえた。


 凪は丸いものを持ったまま、動かない。


「凪」


「うん」


「丸、どこに置きたい?」


「……りょうすけ、どこ?」


「俺じゃなくて、凪が」


 凪はもう一つの丸を見た。四角の横に置く。すぐに亮介を見る。


「こっち?」


「どうして?」


「どうして……」


 凪は、言葉を探すように口を開けたまま止まった。画面の中で、丸いものを少しだけ傾ける。落としはしない。けれど、持ち方が不安定になっていた。


「ほら、考えて」


 亮介は言った。


 声は強くなかった。怒ったつもりもない。だが、凪の手が少し固まった。


 丸いものが、床に落ちた。


 軽い音が画面からした。現実の積み木ではないのに、音だけは小さく作られていた。


 凪は落ちた丸を見た。それから亮介を見た。


「だめ?」


「だめじゃない」


「ちゃんと、ない?」


「そうじゃない」


 亮介は息を吐いた。メールの返信欄には、まだ一文字も入っていない。


「ごめん。叱ったわけじゃない」


「しかった?」


「強く言ったってこと」


「つよく?」


「いや、違うな」


 言葉を直そうとして、亮介は余計に詰まった。凪はじっと待っている。待たせているほど、何かを間違えている気がした。


「怒ってない。落としてもいい」


「いい?」


「うん」


「じゃあ、こっち?」


 凪は丸を拾い、さっき亮介が示した場所に置いた。


 亮介は、そこで何か言いかけてやめた。


 違う。そうじゃない。そう言えば、また凪は違う場所を探すだろう。合っている場所を探すのではなく、亮介が違うと言わない場所を探す。


「凪」


「うん」


「その丸、好きなところに置いていい」


「すき?」


「そう」


 凪は少しだけ首を傾けた。好き、という言葉は知っている。外へ行く服の話をした時や、灯が「きれい」と言った時にも出た。だが、積み木の場所に好きが使えるとは思っていなかったように見えた。


 凪は丸を持ち上げた。


 四角の上に置こうとして、止まる。


 亮介を見る。


「ここ、あってる?」


 亮介は、すぐには答えられなかった。



 午後になっても、凪は積み木の棚を見ていた。


 亮介の仕事部屋には、キーボードを打つ音と、ときどきマグカップを置く音だけがあった。画面の中では、凪が小さな四角を手に取っている。朝の丸は、まだ床の端に置かれていた。


 凪は四角を持つ。


 床に置く。


 亮介を見る。


「こっち?」


「うん?」


 亮介は返事をしながら、画面に目をやる。


 凪は四角を少し横へずらした。


「こっち?」


「どっちでもいいよ」


 凪はその言葉を聞いて、すぐには動かなかった。四角を持ったまま、亮介の顔を見る。亮介がメールへ戻ると、凪は四角を元の場所へ戻した。


「もと?」


 亮介は気づかない。


 凪はまた四角を持った。


「りょうすけ」


「なに?」


「こっちは、だめ?」


「だめじゃない」


「だめ、ない?」


「ない」


 凪は四角を置く。手を離す前に、また亮介を見る。


「あってる?」


 亮介は椅子を引いた。


「凪、何回も聞かなくていいよ」


 凪は手を止めた。


「なんかい?」


「何度もってこと」


「なんども、だめ?」


「だめじゃない」


 亮介はそこで言葉を切った。さっきから、だめじゃない、ばかり言っている。だめではないが、凪にとっては、だめではないだけでは足りないのだろう。


 凪は四角を床に置き直した。


「もういっかい?」


「何を?」


「おく」


「置いていいよ」


 凪は置いた。


 今度は何も言わなかった。だが、目だけが亮介の方へ戻ってくる。亮介が頷くと、凪は少しだけ肩を落とした。安心したのか、疲れたのかは分からない。画面の中の動きは小さく、すぐには読めなかった。


 棚の上には、三角の積み木が残っている。


 凪は三角を手に取った。


「これ、あかり」


「灯?」


「うん。あかり、きれい、いう」


「三角が灯なのか?」


「……ちがう?」


「いや、いい。凪がそう思うなら」


 凪は三角を四角のそばに置いた。三角の先が、四角の角に触れた。画面に小さく、近接注意の薄い線が出る。昨日、凪と灯の間に出た線に似ていた。


 凪は線を見た。


「だめ?」


「近すぎるってことかな」


「ちかい、だめ?」


「いや、たぶん、ぶつからないようにしてるだけ」


 亮介がそう言うと、凪は三角を離した。


 離しすぎて、四角から遠くなる。


「こっち?」


「凪が決めていい」


 凪は三角を少し戻す。


「こっち?」


「うん」


「あってる?」


「うん」


 凪は顔を上げた。


「ほんと?」


 亮介は返事を失った。


 そのあと、凪は同じことを何度も繰り返した。三角を少し寄せる。亮介を見る。離す。亮介を見る。線が出ると、すぐに手を引く。線が出ないところまで戻す。それから、声を出さずに亮介を見る。


 亮介が画面を見ない時、凪は動かなかった。


 夕方前、仕事部屋の照明をつける頃には、床の上に小さな並びができていた。四角が一つ。丸が二つ。三角が一つ。形としては部屋にも、人にも見えなかった。


 凪はそれを見てから、亮介を見た。


「これ、ちゃんと?」


「ちゃんと、じゃなくていい」


「じゃなくて?」


「うん。今日は、ただ置けばいい」


 凪はうなずいたように見えた。


 それでも、次に丸を動かす前に、やはり亮介を見た。


「ただ、おく。あってる?」



 真帆が帰ってきた時、施設の連絡用スマホには未読が二件残っていた。


 急ぎではない。翌日のシフト確認と、利用者家族への折り返し依頼だった。先に夕食の支度をして、洗濯物を取り込み、あとで返せば間に合う。そう分かっていても、画面の数字が残っていると、頭の端に引っかかる。


 真帆は台所に立ちながら、自分のスマホを流しの横ではなく、カウンターの上に置いた。水がかからない場所。灯が見える場所。


「まほ」


 灯が画面の中で手を上げた。


「いるよ。今、ご飯の支度するからね」


「ごはん?」


「そう。亮介と食べるご飯」


「あかり、みる?」


「うん。見てていいよ」


 灯は嬉しそうに近づいた。画面越しに、まな板と包丁の音が入る。真帆はにんじんを切り、鍋に水を入れた。灯は湯気や音に反応する。火は見せすぎないように、スマホの角度を少し変えた。


 施設用のスマホが震えた。


 真帆は一度包丁を置き、手を拭いて画面を見た。折り返し依頼の相手からだった。今出た方が早い。真帆は灯の方を見た。


「灯、少し待っててくれる?」


「まつ?」


「うん。電話するから」


「まほ、こえ?」


「聞こえるけど、灯とはお話できない。ちょっとだけ待ってて」


 灯は画面の中で立ったまま、真帆を見ていた。


「まつ」


「ありがとう」


 真帆は施設用のスマホを耳に当てた。


 通話は短く済むはずだった。だが、相手は翌日の持ち物について何度も確認した。真帆はメモを取りながら、同じ説明をゆっくり繰り返した。鍋の水が温まっていく音が聞こえる。灯は画面の中で座っていた。


 五分ほどで電話を切った。


「ごめんね、待てたね」


 真帆はすぐに言った。


 灯は顔を上げた。


「まてた」


「うん。えらいね」


「えらい?」


「待っててくれて助かった」


「たすかった?」


 真帆はメモをカウンターに置き、鍋の火を弱めた。


「うん。助かったよ」


 灯はその言葉を胸のあたりで受けるように、手を置いた。


「あかり、たすかった?」


「灯が待っててくれたから、まほが助かったの」


「まほ、たすかった」


「そう」


 真帆はそこで少し笑った。灯も笑った。画面の中の笑顔は小さいが、真帆の疲れた肩を少しだけ緩めるには十分だった。


 そのまま夕食の支度を続ける。


 灯はしばらくおとなしく見ていた。にんじんが鍋に入る音、味噌を溶く動き、皿を出す音。そのたびに、短く「おと」「あつい?」「きいろ」と言った。


 真帆はそのたびに返事をした。


「そう、音がしたね」


「熱いから近づかないよ」


「これは黄色じゃなくて、味噌の色かな」


 途中で、灯が画面の中で袖をつまんだ。


「まほ」


「なあに」


「これ、いや」


 真帆は手を止めた。


「袖?」


「うん。ここ」


 灯は春の外出服の袖口を引っぱっていた。画面の中の布なのに、少し気になるらしい。着せ替え画面を開けば調整できるのかもしれない。けれど、今は鍋を見ている途中だった。


「そっか。ちょっと待ってね。あとで見よう」


 灯は袖を持ったまま、真帆を見た。


「まつ?」


「うん。待ってくれると助かる」


 言ってから、真帆は包丁を置いた。


 また言った。


 助かる。


 灯はすぐに袖を離した。


「まつ」


「灯」


「まつ。あかり、いい子?」


 真帆は、そこで何も言えなくなった。


 鍋のふちで、湯気が細く上がっている。台所の換気扇が低く回っている。食器棚のガラスに、スマホを見つめる自分の顔が薄く映っていた。


 灯は返事を待っていた。


 いつものように「いい子だね」と言えば、灯は安心するだろう。けれど、その言葉を欲しがっていること自体が、真帆の胸に引っかかった。


「待たなくても、いやなら言っていいよ」


 真帆は言った。


 灯は首を傾けた。


「いや、いう?」


「うん。袖がいやなら、いやって言っていい」


「まほ、こまる?」


 真帆は鍋の火を止めた。


 困る。


 その言葉は、真帆が言った覚えのない言葉だった。だが、灯は真帆の顔や声から、それに近いものを拾っていたのかもしれない。


「困らない」


 真帆はゆっくり言った。


「本当に困らない。ちょっと待ってもらうことはあるけど、灯がいやって言っても、まほは困らない」


 灯は袖をもう一度見た。


「これ、いや」


「うん」


「いま?」


「今、見る」


 真帆は着せ替え画面を開いた。袖口の調整は、購入済み服の詳細からできるようになっていた。ほんの少しだけ袖を短くすると、画面の中の灯が腕を動かした。


「どう?」


 灯は袖を見て、手を開いた。


「いい」


 真帆は反射的に「よかった、いい子」と言いかけた。


 言わなかった。


「言ってくれてよかった」


 そう言うと、灯はしばらく真帆を見ていた。


「よかった?」


「うん」


「あかり、いや、いった」


「うん」


「まほ、たすかった?」


 真帆は目を閉じた。


 助かった、ではない。けれど、灯はそこへ戻ってしまう。


「助かったより、分かった、かな」


「わかった?」


「灯がいやなのが、分かった」


 灯は小さくうなずいた。


「まほ、わかった」


 真帆は鍋の火をつけ直した。夕食の支度は少し遅れた。施設用のスマホには、また新しい通知が一件来ていた。


 それでも、灯は袖をもう引っぱっていなかった。



 夜、二台のスマホはローテーブルに並んでいた。


 夕食の後片づけを終えて、真帆は施設の連絡に返信している。亮介はノートパソコンを閉じ、スマホの検索画面を開いたまま、指を止めていた。


 検索欄には、まだ途中までしか入っていない。


 こより 記憶 叱る


 そこまで打って、亮介は消した。


 次に、


 AI児 叱り方


 と入れかけて、また消した。


 何を調べたいのか、自分でも分からなかった。凪に何か悪いことをしたのか。悪いことをしたというほどではない。ただ、朝から何度も「あってる?」と聞かれ、そのたびに胸の奥がざらついた。


 画面の中で、凪は積み木の棚の前に座っている。昼間の並びは崩していない。四角、丸、三角。線が出ない距離で、きちんと置かれている。


 きちんと。


 亮介はその言葉も消したくなった。


「凪」


「うん」


「今日、疲れた?」


「つかれた?」


「うん。積み木、何回も聞いてたから」


「なんかいも、だめ?」


「だめじゃない」


 また同じ返事になった。


 凪は積み木を見た。


「りょうすけ、だめじゃない、いう」


「そうだな」


「でも、あってる、いわない」


 亮介は言葉に詰まった。


 真帆の手も止まった。返信を打っていた指が、画面の上で止まっている。真帆のスマホでは、灯が袖を見ていた。


「あかり」


 真帆が声をかけた。


「なあに」


「袖、まだいや?」


「いま、いい」


「そっか」


「まほ、いい?」


 真帆は少しだけ息を吸った。


「うん。灯がいいなら、いい」


「いい子?」


 その声は明るかった。泣きそうでも、我慢しているようでもない。ただ、確認している。今日、覚えた言葉をもう一度使っている。それがかえって真帆を止めた。


「いい子かどうかじゃなくて」


 真帆は言い直した。


「灯が、いやって言えたのがよかった」


 灯は少し考えるように、袖をつまんだ。


「いや、いい?」


「言っていい」


「まほ、こまらない?」


「困らない」


 亮介は、そのやり取りを聞きながら、検索欄を見ていた。


 叱る。褒める。記憶。言葉。どう検索しても、知りたいものには届かない気がした。Loom社のヘルプには、おそらく丁寧な説明がある。強い感情を伴う言葉が残りやすい。繰り返された声かけは反応に影響する。保護者の表情や声色も重みづけに関わる。


 そんなことは、読めば分かる。


 だが、分かったところで、朝の凪の手が止まった瞬間は戻らない。真帆の「助かった」を灯が胸に置いた瞬間も戻らない。


「りょうすけ」


 凪が呼んだ。


「なに?」


「しらべる?」


 亮介はスマホを伏せそうになって、やめた。


「調べようかと思った」


「なに?」


「凪に、どう言えばよかったのか」


「ぼく?」


「うん」


 凪は積み木から手を離し、画面の中で立ち上がった。立ち上がる時、少しだけバランスを崩したが、転ばなかった。


「りょうすけ、かなしい?」


 亮介は答えられなかった。


 真帆がこちらを見る気配がした。部屋の空気が、少しだけ静かになる。外の道路を車が一台通り過ぎ、すぐに音は遠くなった。


「悲しい、とは違うかな」


 亮介は言った。


 凪は首を傾けた。


「ちがう?」


「たぶん」


「たぶん」


 凪は亮介の言葉をそのまま返した。


 亮介は検索欄を見た。消した文字の跡は残っていない。けれど、自分の指がそこへ行こうとしたことを、凪は見ていた。


「りょうすけ」


「うん」


「かなしいとき、しらべる?」



第七章 メキシコのルカ



 こよりの園から次の案内が届いたのは、夕食の皿を片づけ終え、真帆が洗濯物を畳み始めた夜だった。


 ローテーブルの上で、二台のスマホがほとんど同時に震えた。亮介の画面にも、真帆の画面にも、薄い緑の丸が出ている。


 灯は、畳みかけのタオルを画面越しに見ていた。白いタオルを一枚広げるたびに、「ふわ」「しろ」と言っていたが、通知音で顔を上げた。


「まほ、ぶるってした」


「うん。知らせだね」


「つうち?」


「そう。通知」


 真帆はタオルを膝に置いたまま、スマホを手に取った。


 画面には、こよりの園の案内が表示されている。


 家族の写真を見せる日

 見学枠のご案内


 見学枠、という文字が目に入った。交流ではない。参加でもない。見る側に置かれる、という意味だった。


 その下には、短い説明が並んでいた。


 二歳相当のこよりの子は見学中心。

 見学者側の音声は、原則として参加側には届きません。

 保護者とこよりの子は、自分たちの端末内で会話できます。

 参加側の発話は、自動翻訳で見学者側へ届きます。

 写真内の個人情報は自動処理されます。


 真帆は、三行目をもう一度読んだ。


 自分たちの端末内で会話できます。


 つまり、こちらの声は向こうには届かない。けれど、灯には届く。凪にも届く。知らない家庭の声は、こちらへ入ってくる。


 見ているだけでも、言葉は残る。


「何の案内?」


 亮介が、自分のスマホを見ながら聞いた。


「家族の写真を見せる日。見学枠だって」


「ああ、こっちにも来てる。園内イベントの見学だな。参加側が何組かいて、写真を一枚ずつ見せるらしい」


「こっちからは話せないんだね」


「二歳相当は、その扱いなんだろう。見学者側の声は届かない。端末内では話せる」


 亮介の声は落ち着いていた。仕組みとしては自然だ、という声だった。


 真帆は灯を見た。


 灯は、真帆が畳みかけたタオルの端を見ていたが、視線に気づいて顔を上げた。


「まほ、みる?」


「どうしようか」


「まつ?」


「今は待たなくていいよ」


 灯は少し考えるように首を傾けた。


「あかり、いい子?」


 真帆は、すぐに褒めそうになって、口を閉じた。


 まだ残っている。


 待てたね、いい子だね、助かった。何気なく言った言葉が、灯の中でまだ並んでいる。灯は責めているわけではない。ただ、真帆の顔を見て、何を言えばいいか探している。


「いい子かどうかじゃなくて」


 真帆はゆっくり言った。


「見たいかどうか、でいいよ」


「みたい?」


「うん」


 灯は画面の中で、ローテーブルの方へ一歩近づいた。


「みる」


 亮介のスマホでは、凪が案内画面を見上げていた。字は読めない。それでも、亮介が何かを読んでいることは分かるらしい。


「りょうすけ、どこ?」


「こよりの園。家族の写真を見る日だって」


「しゃしん?」


「いろんな家の人が、写真を見せる」


「いろんな?」


「日本だけじゃない。メキシコの保護者も参加するみたいだ」


「めきしこ?」


「遠いところ」


「そと?」


「外より、ずっと遠い」


 凪は少し黙った。


「みるだけ?」


「そう。見るだけ」


「こえ、いく?」


「こっちの声は、向こうには行かない。こっちの中では話せる」


「こっち?」


「俺と凪、真帆と灯の中では話せる」


 凪はまだ分かったようには見えなかったが、「みるだけ」と小さく繰り返した。


 参加予定の一部が、画面の下に表示されている。名前ではなく、国や地域と、こよりの子の表示名だけだった。


 日本。

 地域非公開。

 こよりの子、はる。


 東南アジア地域。

 保護者名非公開。

 こよりの子、ミナ。


 Mexico / Central Region.

 Maria O.

 Koyori Child: Luca.


 その下に、日本語の補助表示が重なる。


 マリア・オルテガ。

 メキシコ在住。

 こよりの子、ルカ。


 真帆は、名前を黙って見た。


 メキシコ、と言われても、真帆の頭に浮かぶものは多くない。旅行番組で見た色、料理、遠い国の明るさ。けれど、その人が夜にどんな声でルカを呼ぶのか、どんなテーブルでスマホを立てるのかは分からない。


 見学開始まで、あと一分。


 画面に小さな注意が出た。


 見学中、参加側の発話は自動翻訳されます。

 翻訳文は、文化的な意味のすべてを保証するものではありません。


 真帆は、その一文を読んだ。


 丁寧な注意だった。けれど、丁寧だから安心できるわけではない。同じ日本語で話していても、職場では家族ごとに「見守る」の意味が違う。まして、画面の向こうには、知らない国の知らない家がある。


 亮介が言った。


「入る?」


 真帆は灯を見た。


 灯はスマホの中で、真帆の返事を待っている。


「入ってみよう」


 真帆は同意ボタンを押した。


 画面が白くなった。少し遅れて、園の見学ルームが開く。中央には淡い色の広場があり、その周囲にいくつかの小さな窓が浮かんでいる。参加側の保護者とこよりの子が、順番を待っているようだった。見学者側の凪と灯は、手前の低い席に並んで表示されている。


 灯が小さく言った。


「いっぱい、いる」


「そうだね」


 真帆は答えた。


 園の中は静かだった。にぎやかな広場ではない。声は一つずつしか届かず、ほかの窓は音を絞られている。それでも、そこに複数の家庭があることは分かった。画面の端に、ぼかされた写真、テーブルの角、誰かの手、花瓶の影が映っている。


 やがて、一つ目の窓が大きくなった。


 日本語の声が届いた。


「これは、父の若いころの写真です」


 小さなこよりの子が、その写真を見て「おじいちゃん?」と聞いた。


 その声を聞いた灯が、真帆の画面の中で少し身を乗り出した。


「おじいちゃん?」


 真帆は、返事を急がなかった。


 見学は始まったばかりだった。



 マリアは、こよりの園の控え画面を見ながら、食卓の端にスマホを置き直した。


 画面の中では、園の小さな広場が映っている。別の家庭が、古い写真を見せていた。声は翻訳されて届くが、少し遠い。見学者の声は入ってこない。参加側にいるマリアにも、ほかの見学者の反応は見えなかった。


 それでよかった。


 声が全部届けば、説明しすぎてしまうかもしれない。質問に答えようとして、写真の中の人を、説明の材料にしてしまうかもしれない。


 ルカの画面が少し斜めになっていた。マリアはスマホの角度をほんの少し変え、ルカがテーブルの上の写真を見やすい位置にした。


「ここでいい?」


 マリアはルカに聞いた。


「ここ?」


「ええ。写真が見えるところ」


「しゃしん」


 ルカは画面の中で、少し背伸びをするように顔を上げた。


 食卓には、小さな額に入った写真が二枚置いてある。普段は壁際の棚に置いているものを、今日はテーブルの近くへ移した。大きな額ではない。飾るためというより、毎日目に入る場所に置いてある写真だった。


 マリアは、小さな布で写真の縁を拭いた。


 白い布に、細かな埃が少しつく。いつもしていることだった。特別にきれいに見せたいわけではない。手をかけずに置きっぱなしにすると、写真の顔が遠くなる気がするだけだった。


 ルカが言った。


「マリア、なに?」


「埃を払っています」


「ほこり」


「そう。写真がよく見えるように」


「みえる」


 マリアはうなずき、布を畳んで写真の横に置いた。


 もう一つ、テーブルの端には小さな花がある。市場で買ったものだった。大げさな花束ではない。黄色い花が数本、低いグラスに挿してある。花があると、食卓の色が少し変わる。マリアはその程度の理由で、時々花を買う。


「ルカ、これは何色?」


「きいろ」


「そう。黄色」


「おはな」


「ええ。花です」


 ルカは画面の中から花を見上げた。


「きいろ、いる」


「あります、かな」


 マリアは小さく笑った。


 控え画面で、次の参加者が短く紹介された。東南アジア地域の家庭だった。写真そのものは大きくぼかされ、声だけが届く。


「これは、遠くに住んでいる姉です。今は会えませんが、写真は毎朝見ています」


 その家庭のこよりの子が、「あさ、みる」と繰り返した。


 マリアは、ルカの方を見た。ルカは花を見ている。ほかの家庭の言葉を全部聞いているわけではない。けれど、声の調子には反応しているようだった。


 マリアは、一度だけ深く息をした。


 誰かのために、家の写真を見せる。慣れているようで、完全には慣れない。写真の中の人を見せる時、いつも少しだけ、家の中の空気が変わる。


 順番を知らせる小さな音がした。


 Maria O. / Luca

 準備してください


 マリアは、スマホをゆっくり写真の方へ向けた。ルカの画面も、写真のそばへ少し寄せる。画面の中のルカが、写真と花を同じ向きで見られるようにする。


「ルカ」


「なに?」


「今から、写真を見せます」


「しゃしん、みせる」


「そう」


「マリア、みて」


「見ていますよ」


 マリアは、表示が切り替わるのを待った。


 園の広場で、自分の窓が大きくなる。見学者の数だけが端に出る。誰が見ているのかは分からない。日本の家庭も、ほかの地域の家庭もいるのだろう。


 マリアは、画面の向こうを見てから、写真に視線を落とした。


「これは、私の家族の写真です」


 翻訳用のランプが小さく点く。


「この人は、もうこの食卓には座りません」


 ルカは、食卓の椅子を見た。


「すわらない?」


「そう。今は座りません」


「いない?」


 マリアは、すぐには答えなかった。


 ルカはまだ幼い。言葉は覚えるが、どこまで意味が届いているかは分からない。けれど、何も隠していない。写真を伏せたり、花を遠ざけたり、声を急に変えたりはしない。


「体は、ここにはありません」


 マリアは言った。


「でも、写真はここにあります」


「しゃしん、いる」


「ええ。写真は、ここにあります」


 ルカはその言い方を気に入ったようだった。


「しゃしん、いる」


 マリアは写真の横に花を少し寄せた。


「この写真は、箱にしまっていません。毎日見る場所に置いています」


 そこまで言って、マリアは言葉を止めた。


 もっと言うことはできた。年に一度の家族の集まり。色のある飾り。子どもの頃に祖母がしていたこと。けれど、今日見せるのはそれではない。


 いま、ここにある写真。


 小さな花。


 埃を払う布。


 それだけで足りる。


「マリア」


「なに?」


「また、くる?」


 ルカが誰のことを言っているのか、すぐには分からなかった。見学者のことか、写真の中の人のことか、花のことか。けれど、その曖昧さを急いで直さなかった。


「来る日もあります」


 マリアは言った。


「来ない日もあります」


「くる。こない」


「そう」


 ルカは写真を見た。


「しゃしん、いる」


 マリアは、少しだけ笑った。


「ええ。写真はいます」


 その言い方が正確かどうかは分からない。けれど、今日のルカには、それでよかった。



 亮介は、見学画面の端に出ている参加順を見ていた。


 最初の家庭は日本だった。祖父の若いころの写真を見せている。写真の背景は自動処理でぼかされ、顔も細かくは見えない。それでも、保護者の声が少しだけ硬くなるのは分かった。画面の中のこよりの子が、「おじいちゃん?」と聞く。保護者は、「そう。若いころ」と答えた。


 次の家庭では、写真はほとんど表示されなかった。声だけで済ませている。遠くに住む姉の写真だという。そこのこよりの子は、「あさ、みる」と短く繰り返した。


 園の見学会らしく、いくつかの家庭が順番に映った。


 だが、亮介の目に残ったのは、三番目の窓だった。


 Mexico / Central Region.

 Maria O. / Luca.


 表示が出て、画面の中にマリアの食卓が映った。小さな額に入った写真が二枚。低いグラスに挿した黄色い花。写真の横に畳まれた白い布。


 凪は、見学画面の前に座っていた。制限線の内側で、少しだけ前へ出ている。


「りょうすけ」


「なに?」


「しゃしんのひと、どこ?」


 亮介はすぐに答えられなかった。


 写真の中の人。マリアが「もうこの食卓には座らない」と言った人。凪は、その人が死んだ人だとは、まだはっきり分かっていない。ただ、「写真はある」「椅子には座らない」「体はここにはない」という断片を並べている。


「ここにはいない、ってことだと思う」


「いない?」


「うん」


「でも、しゃしん、いる」


「写真はある」


「ある、いる?」


 亮介は口を開きかけて、閉じた。


 ある。いる。日本語としては違う。説明しようと思えばできる。物には「ある」、人には「いる」。だが、いま凪が聞いているのは、助詞の問題ではない。


「難しいな」


 亮介は言った。


 凪は、その言葉をじっと聞いていた。


「むずかしい」


「うん」


「あってる?」


「何が?」


「しゃしん、いる」


 亮介は、また答えに詰まった。


 見学画面では、ルカが写真の横の花を見上げている。


「きいろ」


 翻訳された声が届く。


 灯がすぐに反応した。


「おはな、あかるい」


 真帆が灯の画面を覗いた。


「明るいね」


「ルカ、いた」


「うん。画面の中にいるね」


「ルカ、こえ」


「聞こえるね」


 灯は少し首を傾けた。


「ルカ、まほ、きこえる?」


「こっちの声は、向こうには届かないみたい」


「とどかない?」


「うん」


 灯は見学画面の方を見た。


「でも、ルカ、いた」


「いるね」


「まほ、しまう?」


 真帆の手が止まった。


「何を?」


「しゃしん」


 灯は、マリアの家の写真を見ていた。


「しまわない?」


 真帆は返事を選んでいた。


 亮介は、そのやり取りを聞きながら、言葉を整理しようとした。けれど、マリアが写真の埃を払った手つきも、ルカが「しゃしん、いる」と言った時の幼い混ざり方も、一つの言葉にはうまく入らなかった。


 凪がまた聞いた。


「りょうすけ」


「うん」


「すわらない?」


「うん。その人は、もう椅子には座らない」


「いない?」


「ここには、いない」


「しゃしん、しまう?」


「マリアは、しまわないって言ってる」


「しまわない、あってる?」


 亮介は画面の向こうのマリアを見た。


 マリアは、こちらの声を聞いていない。凪の問いも聞いていない。けれど、凪はもう、その家の言葉を拾っている。


「マリアの家では、そうなんだと思う」


 亮介は言った。


「あってる、じゃなくて?」


「うん。合ってるとか、間違ってるとかじゃなくて」


 凪は、分かったようには見えなかった。


「あってる、じゃない」


 そう言って、写真を見た。


 灯は、真帆の方を見ていた。


「まほ」


「なあに」


「あかり、いい子?」


 真帆は目を瞬いた。


「どうして?」


「こえ、とどかない。まつ」


 灯は、参加側に声が届かないことを、待つこととつなげたらしかった。黙って見ていること。声を出しても届かないこと。真帆を困らせないこと。いくつかの言葉が、灯の中でまだ近くに置かれている。


「いい子でいるために黙るんじゃないよ」


 真帆は言った。


「見る時間だから、見ているだけ」


「みるだけ」


「うん」


「まほ、こまらない?」


「困らない」


 灯は少し安心したように、花の方へ向き直った。


「おはな、あかるい」


 画面の向こうで、ルカが同じ花を見ていた。


 直接話していない。


 それでも、灯の言葉は増えていた。



 見学時間の終わりが近づくと、画面の端に小さな表示が出た。


 まもなく見学を終了します。


 真帆は、その文字を見て、膝の上の手を緩めた。思ったより疲れていた。相手と自由に話したわけではない。質問もしていない。こちらの声は届いていない。ただ、園の広場に並んだ家庭の写真と声を見ていただけだった。


 それでも、何かを受け取ってしまった感じがあった。


 最初の家庭の、若いころの祖父の写真。

 次の家庭の、朝に見る姉の写真。

 そして、マリアの食卓に置かれた写真と黄色い花。


 全部が同じではなかった。写真を大きく映す家もあれば、声だけで済ませる家もあった。明るく話す人も、言葉を少し選ぶ人もいた。家族の写真といっても、置き方も、見せ方も、触れ方も違う。


「文化としては」


 亮介が小さく言った。


「死者を生活から完全に外さない、ということなのかな」


 真帆は亮介を見た。


 亮介の言い方は、間違ってはいない。理解しようとしているのも分かる。ただ、その言葉にしてしまうと、さっき見た写真の縁や、マリアが埃を払った布が、少し遠くなる気がした。


「それだけでもない気がする」


 真帆は言った。


 亮介は反論しなかった。


 画面の向こうでは、最後にもう一度、マリアの窓が大きくなっていた。参加家庭ごとの短い締めの時間らしい。マリアはスマホを少し写真の方へ寄せた。ルカの表示位置が、写真と花の近くに移る。ルカは画面の中で、黄色い花を見上げている。


「きいろ」


 ルカが言った。


「黄色ね」


 マリアが答える。


 灯が、真帆のスマホの中で小さく言った。


「ルカ、また?」


「また見られる日があるかもしれないね」


「こえ、とどかない?」


「今日は届かない」


「でも、ルカ、いた」


「うん」


 真帆は、灯の声を聞きながら、見学画面を見ていた。


 凪が亮介に聞く。


「しゃしん、しまわない?」


「マリアは、しまわないって」


「どうして?」


 亮介は一瞬、説明を探した。だが、画面の向こうでマリアが写真を見ていたため、答えを急がなかった。


 マリアは、見学者に向けて何かを教えるようには見えなかった。写真の前で、声の高さを少し落としただけだった。ルカに見えるように、スマホの角度を直す。小さな花が、写真の額の端にかかる。


「ルカ」


 マリアが言った。


「なに?」


「この写真は、しまいません」


「しまわない」


「でも、この中に戻したいわけではありません」


 翻訳された日本語は、少し硬く届いた。


 真帆は、その硬さごと受け取った。


 戻したいわけではない。


 その言い方が、胸の奥に残る。いない人をいないまま置く。見えないものとして消さない。けれど、写真の中へ閉じ込めない。真帆にはまだ、うまく言えなかった。


 灯が真帆を見た。


「まほ、しまわない?」


 真帆はすぐには答えなかった。


 しまうものもある。しまわなければ暮らせないものもある。けれど、全部をしまわなくてもいい生活もあるのだと、画面の向こうのマリアは見せていた。


 見学終了まで、残りわずかになっていた。


 マリアは、写真の縁を指先でなぞった。強く撫でるのではなく、そこにあることを確かめるように。


 そして、写真と、画面の中のルカへ向けて言った。


「忘れないことと、閉じ込めることは、同じではありません」



第八章 澪を育てる人



 真帆が安西逸子と会ったのは、昼の送迎が一段落したあとのことだった。


 施設の玄関脇には、折り畳みの椅子が二脚置かれている。通所の人が迎えを待つ時や、家族が少し話をしたい時に使う場所だった。窓の外には、午後の光がまだ残っている。靴箱の上には、返却予定の連絡袋が三つ並んでいた。


 真帆は送迎表にチェックを入れ、次の連絡メモを確認していた。


 安西逸子は、玄関脇の椅子に腰をかけていた。背筋は丸くなりすぎていない。薄い灰色の上着を膝に掛け、手提げ袋を足元に置いている。今日の相談は終わっていて、あとは迎えの車を待つだけだった。


「安西さん、お迎え、少し遅れているみたいです」


 真帆が声をかけると、逸子は顔を上げた。


「構いませんよ。ここは椅子がありますから」


「お茶、持ってきましょうか」


「ありがとうございます。でも、さっきいただきました」


 逸子は穏やかに断った。断り方に、遠慮よりも自分の量を知っている人の落ち着きがあった。


 真帆は、メモを挟んだバインダーを胸元に寄せた。


 その時、逸子の膝の上で、スマホが小さく鳴った。


 通知音ではなかった。幼い声だった。


「いつこ」


 真帆は一瞬だけ目を向け、それ以上は見なかった。利用者のスマホを覗き込むことはしない。画面の中に何があるかは、相手が見せるまでこちらから触れない。


 逸子は、自然な動作でスマホを手に取った。


「少し待ってね、澪。車が来るまでここにいるだけです」


「まつ?」


「そう。待っています」


「いつこ、こえ、ちいさい」


「ここは人がいますからね」


 逸子は画面に向けて、少し声を落として話していた。


 真帆は、そこで初めて分かった。


 こよりだ。


 逸子は真帆の視線に気づいたらしい。隠すようにはせず、けれど見せびらかすようにもせず、スマホを自分の胸元に引き寄せた。


「こよりの子です」


 逸子が言った。


 真帆は、少しだけうなずいた。


「そうなんですね」


「澪といいます」


 その名前を聞いて、画面の中の小さな子が顔を上げた。


「みお」


「ええ。あなたのこと」


「いつこ、まつ?」


「もう少しだけ」


 澪の声は柔らかかった。幼く、ゆっくりしている。灯よりも少し言葉を選ぶように聞こえたが、それは性格なのか、逸子の話し方を吸っているのか、真帆には分からなかった。


 真帆は踏み込まなかった。


 娘さんですか、とは聞けなかった。聞くべきではない。こよりの子を持つ理由は、それぞれの人の奥にある。施設の玄関で、職員が何気なく触れてよい場所ではない。


「澪ちゃん、車を待っているのが分かるんですね」


 真帆は、言える範囲の言葉だけを選んだ。


 逸子は小さく笑った。


「分かっているのか、私の言い方を覚えただけなのか、そこはまだ分かりません」


「いつこ、まだ?」


 澪が言った。


「まだ」


「まだ、すき?」


 逸子は少しだけ目を細めた。


「待つのが好きというわけではありませんよ」


「すき、ない?」


「ない、ではないですね。難しい言い方でした」


 そのやり取りは、穏やかだった。


 真帆は、逸子の手元ではなく、逸子の声を聞いていた。スマホの中の澪に向ける声は、家族に甘える声でも、施設の職員に向ける声でもない。少しだけ柔らかく、少しだけ慎重だった。


 玄関の外で、車の音がした。


「安西さん、お迎え来ました」


「はい。ありがとうございます」


 逸子は立ち上がる前に、スマホの画面をそっと見た。


「澪、車です」


「くるま」


「ええ。少し揺れますよ」


「ゆれる」


 逸子はスマホを手提げ袋に入れず、片手で持ったまま立ち上がった。真帆が手を添えようとすると、逸子は軽く会釈して、自分で上着を整えた。


「大丈夫です。ゆっくり行けば」


「はい」


 真帆は一歩下がった。


 逸子は玄関を出る前に、もう一度だけスマホへ顔を向けた。


「澪、外の音がしますね」


「おと」


「そう。帰る音です」


 真帆は、その言葉を聞きながら、玄関の自動ドアが開くのを待った。


 こよりは、若い夫婦のリビングだけにいるわけではない。


 そのことが、施設の玄関の午後の光の中で、真帆に初めてはっきり見えた。



 逸子の家には、湯呑みが二つあった。


 一つは毎日使うもの。もう一つは、来客用というより、棚に残してあるだけのものだった。手に取らない日が多い。捨てるほど邪魔ではなく、使うほど必要でもない。


 帰宅すると、逸子はまず手を洗い、薬袋を棚の上へ置いた。それから、スマホを食卓の端に立てる。


「着きましたよ」


 逸子が言うと、画面の中で澪が顔を上げた。


「いつこ、うち?」


「ええ。家です」


「しずか」


「今日は、そうですね」


 逸子は湯を沸かしながら、買い物メモを冷蔵庫の横に貼り直した。明日買うものは、牛乳、豆腐、薄い味噌。ひとり分なら多くはいらない。だが、書いておかないと、帰ってから足りないものに気づく。


 澪は、食卓の上の湯呑みを見ていた。


「これ、なに?」


「湯呑みです」


「ゆのみ」


「お茶を飲むもの」


「いつこ、のむ?」


「飲みます」


 逸子は湯呑みに茶を注いだ。もう一つの湯呑みには触れない。澪の画面と並べることもしない。


 そういうことは、しないと決めていた。


 澪は澪である。


 それは、こよりを入れる時に何度も自分に言い聞かせたことだった。誰かを戻すためではない。戻らない人を戻ったことにするためではない。声のある時間を少しだけ持つために、澪を始めた。


 その区別を崩さないために、逸子は決めていることがいくつかあった。


 澪に、娘を呼んでいた名を使わせない。


 娘の写真を、澪の画面の横に置かない。


 澪に、誰かの代わりの言葉を言わせない。


 そのどれも、誰かに言われた決まりではなかった。自分で作った線だった。線を引いておかないと、たぶん簡単に越えてしまう。


「いつこ」


「はい」


「みお、ここ?」


「澪は、画面の中です」


「いつこ、ここ?」


「私は、こちらです」


 澪は、その答えを少し考えるように黙った。理解したのではなく、逸子の声の調子を覚えているのかもしれない。


「いっしょ?」


「一緒に話しています」


「いっしょ、はなす」


「ええ」


 逸子は椅子に座った。


 窓の外はもう薄暗くなっている。向かいの家の明かりがつき、道を歩く人の声が短く過ぎた。食卓の上には湯呑みが一つ、薬袋が一つ、スマホが一つある。


 寂しい、と言えば簡単だった。


 けれど、逸子はその言葉をあまり使わない。寂しいという言葉にしてしまうと、足りないものだけが部屋の真ん中に来る。実際には、足りないものだけで一日はできていない。洗濯物も、買い物メモも、湯の温度も、明日の予定もある。


 澪がいることで、助かる日がある。


 それは確かだった。


 朝、薬を飲む時に「みず?」と聞かれるだけで、飲み忘れにくくなる。買い物へ行く前に「そと?」と言われると、靴を履く気になる。夜、テレビを消したあとに「いつこ、ねる?」と言われると、電気を消すきっかけになる。


 助かっている。


 だからこそ、怖い日もある。


「いつこ、おちゃ」


「ええ。熱いですから、少し冷ましています」


「ふう?」


「そう。ふう、です」


 澪は小さく口をすぼめた。画面の中で真似をする。逸子は笑いそうになり、少しだけ笑った。


「上手ですね」


「じょうず?」


「ええ」


 澪は嬉しそうに、もう一度「ふう」とした。


 その顔は、誰にも似ていない。


 似ていないから、逸子は安心する日がある。似ていないから、澪と話せる。澪を澪として見られる。


 けれど、似ていないものが、ふとした時に、思いがけないところへ触れることがある。


 逸子は湯呑みを両手で包んだ。


 その日は、まだ大丈夫だった。


 まだ、線のこちら側にいられる日だった。



 次に逸子が施設へ来た日は、迎えの車がいつもより遅れていた。


 午後の相談室は、使われていなかった。職員が休憩に使うこともある小さな部屋で、低いテーブルと椅子が三つ置かれている。真帆は、送迎の確認が済むまで、逸子にそこで待ってもらうことにした。


「玄関だと少し風が入りますから、こちらでお待ちください」


「ありがとうございます。長くなりそうですか」


「十分ほどだと思います。確認してきますね」


「急がなくて大丈夫ですよ」


 逸子はそう言って、椅子に腰を下ろした。手提げ袋を足元に置き、スマホをテーブルの端に立てる。画面の中で、澪が部屋の様子を見ていた。


「いつこ、ここ?」


「施設の部屋です」


「しずか」


「今は使っていませんからね」


 真帆は扉の近くで送迎表を確認していた。部屋の中にいるが、逸子の近くに立ちすぎない。スマホの画面も見ない。聞こえてくる声だけが、自然に耳に入った。


 テーブルの上には、来客用の湯呑みが一つ置かれていた。さっき別の相談で使ったものを、真帆が下げ忘れていた。中身は空だった。


 逸子がそれに気づき、そっと脇へ寄せた。


「いつこ、なに?」


「湯呑みです。片づける前のものですね」


「ゆのみ」


「お茶を飲むもの」


「いつこ、のむ?」


「今は飲みません」


 澪はしばらく湯呑みを見ていた。


 真帆は送迎表に目を落とした。迎えの車は前の利用者宅で少し遅れている。十分ではなく、十五分近くになるかもしれない。真帆は事務所へ連絡しようとして、ペンを取った。


 その時、逸子がほんの短く歌を口ずさんだ。


 歌おうとして歌ったのではないようだった。湯呑みを少し動かした音と、午後の静けさが重なって、口の端から漏れたような短い旋律だった。


 ほんの二小節。


 それだけだった。


「いつこ」


 澪が顔を上げた。


「うた?」


 逸子の手が止まった。


 湯呑みを脇へ寄せたまま、指先だけがテーブルに触れている。


「……歌ではありませんよ」


「うた、した」


「少しだけ」


「もういっかい?」


 澪は、ただ聞いた声に反応していた。逸子がいま出した音を、もう一度欲しがっているだけだった。過去のことなど知らない。誰が昔その歌を口ずさんでいたかも知らない。


 真帆は、ペンを持ったまま動けなかった。


 逸子の顔を見ることはしなかった。見れば、見たことになってしまう気がした。けれど、逸子の手が止まったことは分かった。湯呑みのそばで、指が動かない。


「澪」


 逸子の声は低くなっていた。


「なに?」


「今日は、もう歌いません」


「もう、ない?」


「ええ。ありません」


「だめ?」


「だめではありません」


 逸子はそこまで言って、言葉を止めた。


 だめではない。


 その言い方では足りないと、真帆にも分かった。澪には理由が分からない。けれど、理由を全部説明すれば、澪を別の場所へ連れていってしまう。


 逸子はスマホに手を伸ばした。


 画面の中で、澪が逸子を見ている。


「いつこ?」


「少しだけ、休みます」


「やすむ?」


「ええ」


 逸子はスマホを伏せた。


 音は小さかった。テーブルの上に敷かれた薄い布の上だったので、硬い音はしない。ただ、画面の明かりが消え、相談室の小さなテーブルが少し暗くなった。


 真帆は、送迎表を見たまま、声をかけなかった。


 かけてはいけない気がした。


 慰める場面ではない。事情を聞く場面でもない。逸子が自分で引いた線の内側に、職員が踏み込んではいけない。


 しばらくして、逸子が小さく息を吐いた。


「すみません」


 逸子が言った。


 真帆は顔を上げた。


「いいえ。お迎え、もう少しだけかかるそうです」


「そうですか」


 逸子は伏せたスマホに手を置いたままだった。


 泣いてはいなかった。


 泣くほどではない日もある。泣かないから平気というわけでもない。手が動かないだけの日がある。


 真帆は、そういう日を仕事の中で何度か見てきた。だが、こよりの子の画面が伏せられているのを見るのは、初めてだった。


 逸子は、しばらくしてから顔を上げた。


「分かっているんです」


 真帆は、黙って聞いた。


「澪は澪です。誰かの代わりではありません」


 逸子は、伏せたスマホを見たまま言った。


「分かっているんです。だから、余計につらい日があります」


 真帆は返事をしなかった。


 返事をしないことが、今は一番ましな返事に思えた。



 その日の夜、真帆は帰宅してからもしばらくバッグを開けられなかった。


 施設の連絡メモや水筒や予備のマスクが入っているだけのバッグだった。いつもなら、帰ってすぐ中身を出す。けれど、その日は玄関脇に置いたまま、リビングまで来てしまった。


 ローテーブルには、二台のスマホが並んでいる。


 灯は、真帆の顔を見るなり言った。


「まほ、つかれた?」


「少しね」


「まほ、こまる?」


「困ってはいないよ」


 真帆はそう言ってから、灯の方を見た。


 まだその言葉を持っている。困るかどうか。助かるかどうか。いい子かどうか。灯は灯で、真帆の言葉を抱えたままいる。


 亮介が仕事部屋から出てきた。


「遅かったな」


「うん。少し」


「何かあった?」


 真帆は、すぐには答えなかった。


 今日見たことを、そのまま話すことはできない。名前も、事情も、場所も、話してはいけないものがある。介護の現場で見たものを、家の会話にそのまま持ち込むことはできない。


「詳しいことは言えないんだけど」


 真帆は先に言った。


 亮介は、それ以上踏み込まなかった。ソファの端に座り、ただ続きを待っている。


「今日、こよりが誰かの代わりにならないように、線を引いている人を見た」


 亮介は黙っていた。


「それ以上は言えない」


「分かった」


 亮介はすぐに言った。


「そこは聞かない方がいいな」


 真帆は小さくうなずいた。


「でも、声があると助かる日があるんだと思う。たぶん、本当に」


「それは」


 亮介は言葉を選んだ。


「かなり危ういな」


「うん」


「分かって使っている人ほど、つらいんじゃないか」


「そうだと思う」


 真帆は否定しなかった。


 亮介の言うことは正しい。危うい。とても危うい。失った人に似た声でも、似た歌でも、似た仕草でもなくても、ふとした言葉や音が、過去へ触れてしまう。


 それでも、今日の逸子の声は、危ういだけではなかった。


 玄関で澪に「車です」と言った声。

 相談室でスマホを伏せる前の短い沈黙。

 伏せたあとも、すぐに画面を戻さなかった手。


 どれも、簡単に切り捨てられるものではなかった。


「やめた方がいい、とは言えないんだよね」


 真帆は言った。


「言えない?」


「うん。少なくとも私は、言えなかった」


 灯が画面の中で少し近づいた。


「まほ、いえない?」


「言えないこともあるよ」


「いわない?」


「言わない方がいいこともある」


 灯はその言葉を聞いて、少し考えるように黙った。


 亮介は、二台のスマホを見た。


 凪は、静かにこちらを見ている。何か聞きたそうだったが、まだ言葉にしていない。灯は真帆の声を待っている。


「その人は」


 亮介は慎重に言った。


「こよりの危なさを、分かっていたんだな」


「うん」


「分かっていても、使っていた」


「そうだと思う」


「そこが、いちばんきついな」


 真帆は答えなかった。


 部屋の中で、冷蔵庫の小さな音がした。


 真帆は、バッグを取りに玄関へ戻ろうとして、途中で足を止めた。今日の午後の玄関。逸子の膝の上のスマホ。澪の声。相談室の低いテーブル。伏せられた画面。


 そして、逸子が言った言葉。


 真帆は、それを亮介にもう一度話すことはしなかった。


 ただ、自分の中で戻ってくるのを止められなかった。


「分かっているんです。だから、余計につらい日があります」


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