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こよりの子  作者: 清河逢真


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インストール

第一部 インストール


収録章

第一章 呼び名を選ぶ

第二章 もう一台の画面

第三章 無料の遠足

第四章 服を買う


第一章 呼び名を選ぶ



 春になると、仕事部屋の窓を開ける時間が少しだけ延びる。


 亮介は、机の端に置いたマグカップを指先で寄せた。中のコーヒーはもうぬるい。ノートパソコンの画面には、企業案件の構成案が開かれている。新しい生活系サービスの紹介動画を、三分以内でどう見せるか。担当者からの赤字は細かく、どれも正しい。正しいものほど直す気が重い。


 隣のリビングから、食器を重ねる音がした。


 真帆は遅番明けだった。介護施設の事務仕事だけで済んだ日は、帰宅後の足音が少しだけ軽い。現場に入った日は、玄関で靴を脱ぐ前に肩が落ちる。今日はその中間だった。食器を洗う水音が一度止まり、また細く続いた。


 亮介のスマホが震えた。


 仕事仲間から送られてきたリンクだった。


 ――Loom社、日本版「こより」利用者一千万人突破。二〇三一年開始のAI児育成サービス、国内でも定着へ。


 見出しの下に、短い動画が付いていた。


 亮介は音を出さずに再生した。スマホの画面には、どこかのマンションのリビングが映っている。カメラ越しの床の上に、小さな子どもの姿が重なっていた。二歳くらいに見える。丸い頬、短い髪、動きやすそうな布の服。アニメ絵ではない。着ぐるみでも、ペットでもない。実写に近い三Dの幼い人型が、テーブルの脚の前で立ち止まり、片手を伸ばしている。


 画面の外から女性の声がした。


「それはテーブル」


 小さな子は、伸ばした手を止めた。少し首をかしげ、テーブルの脚を見て、それからカメラの方を見た。


 見た、ように見えた。


 亮介は再生を止めた。


「何か面白いの?」


 真帆が流しから声をかけた。


「こより。Loom社のやつ」


「ああ、職場の子が言ってた。スマホの中で子どもを育てるんでしょ」


「雑だな」


「使ってないもの」


 真帆が濡れた手を拭きながら、仕事部屋の入口まで来た。中には入らない。亮介の机の上が散らかっている時、真帆はたいてい敷居の手前で止まる。


「見せて」


 亮介はスマホを少し傾けた。


 動画をもう一度流す。画面の中の子は、床から立ち上がろうとして一度失敗した。片膝をつき、手を見て、もう一度立つ。転んで泣くわけではない。うまくいかなかったことを、自分で確かめているようだった。


「思ったより、普通の子みたいに見えるね」


「かわいく作ってある。でも、いかにも甘える感じではない」


「もう見てるところが違う」


「仕事だから」


「まだ開いただけでしょ」


 真帆はそう言って、動画の端にあるアプリ名を見た。


「こよりって名前、柔らかいね」


「関係とか記憶を撚るイメージだろうな。たぶん」


「そういうところ、すぐ言うよね」


「悪いか」


「悪くはない。ちょっと離れる」


 真帆は台所へ戻った。


 亮介はアプリストアを開いた。検索欄に「こより」と打つと、白い背景に細い糸を撚ったようなアイコンが出た。説明欄には、必要以上に明るい宣伝文はない。短い行が並んでいる。


 あなたの生活を見て、言葉を覚え、少しずつ育つ、こよりの子。


 対応端末はスマホ、タブレット、PC。基本利用では会話、記憶、成長。追加項目には教育、体験、衣服、記録。レビュー数は多い。星の数より、短い感想の方に目が行った。


 最初の呼ばれ方で止まった。

 名前を呼ばれた時、閉じられなかった。

 軽い気持ちで始めない方がいい。でも消せない。


 亮介は眉を寄せた。


 レビューとしてはうますぎる。自然な感想にも見えるし、サービス側が拾われたい言葉にも見える。利用者が勝手に書いたのだとしても、十分に広告になる。


 市場調査として触る価値はある。企画業の人間としても、文筆業の人間としても、知らずに済ませるには大きすぎるサービスだった。二〇三一年に始まり、今は二〇三二年の春。日本版が一年でここまで伸びたなら、暮らしの中へ入り込むのはかなり早い。


 そう考えた時点で、亮介は自分が逃げやすい言葉を選んだことに気づいた。


 市場調査。創作ネタ。仕事。


 どれも間違いではない。だが、レビューの「呼ばれ方で止まった」という一文だけは、仕事の話として片づけられなかった。


「入れるの?」


 真帆が食器を拭きながら言った。


「調べる」


「課金するの?」


「まだ分からない。基本利用だけなら触れるみたいだ」


「仕事で?」


「半分は」


「半分は?」


 亮介はすぐに答えなかった。


 真帆はそれ以上追わなかった。拭いた皿を棚に戻し、冷蔵庫の音だけが短く低く残った。


 亮介はインストールのボタンを押した。


 円形の進行表示が、ゆっくり満ちていく。机の上には、赤字の入った構成案、開いたままの手帳、乾いたペン先が並んでいた。いつもの仕事部屋だった。だがスマホの中の小さな円だけが、机の上の物とは違う速度で動いているように見えた。


 インストールが終わると、アイコンの下に「開く」と表示された。


 亮介はすぐには押さなかった。


「始めないの?」


 真帆が聞いた。


「今から」


「市場調査って、押す前に止まるものなんだ」


「止まるものもある」


「そう」


 真帆は短く笑ったが、その笑いはからかいきれていなかった。


 亮介はスマホを持ち直した。こよりのアイコンを押す。


 白い起動画面に、細い文字で「こより」と出た。


 次の画面へ進むためのボタンが、下に浮かんだ。


 はじめる。


 亮介は一度だけ、リビングの方を見た。真帆はもう食器棚を閉めていた。


 亮介は「はじめる」を押した。



 利用規約は長かった。


 亮介は椅子に深く座り直した。仕事部屋の照明を少し落とすと、スマホの画面だけが手の中で白く浮いた。リビングのテレビはついていない。真帆はソファで施設の連絡アプリを見ている。時々、小さくため息をつく。仕事のため息なのか、こよりを始めた亮介へのものなのかは分からない。


 画面には、Loom社の規約が並んでいた。安全説明、記憶の扱い、育成モードの終わり方。細かな文面までは読み切れない。けれど、要所だけは目に入る。


 ――こよりの子は、人間の子どもではありません。

 ――保護者との会話、体験、記憶によって成長するAI人格です。

 ――二十歳相当で育成モードを卒業し、巣立ちモードへ移行します。


 亮介は最後の行で指を止めた。


 二十歳相当。


 始める前から、終わり方が書いてある。


「どうしたの」


 真帆が顔を上げた。


「いや。最初から卒業の説明が出る」


「卒業?」


「二十歳相当になったら、育成モードを卒業するって」


「何年かかるの」


「標準だと、現実の半年で一歳相当。二歳からだから、九年くらい」


「九年」


 真帆はその数字を一度口の中で確かめるように言った。


「長いね」


「サービスとしては長い」


「サービスとしては、なんだ」


 亮介は返事をしなかった。真帆はまたスマホに目を落とした。


 同意ボタンを押すと、保護者名の入力画面になった。亮介は「高瀬亮介」と入れる。次の画面が表示された。


 この子から何と呼ばれたいですか。


 その一文だけ、画面の余白が広く見えた。


 選択肢が並ぶ。


 パパ

 保護者

 名前で呼ぶ

 その他


 亮介の親指が止まった。


 短い問いだ。作業としては簡単なはずだった。初期設定の一項目。あとから変えられるかもしれない。サービス側も、重くしすぎないように整えている。それなのに、画面の中の「パパ」という二文字だけが、余白ごとこちらへ寄ってきた。


「何が出たの」


 真帆が聞いた。


「呼ばれ方」


「もう?」


「最初に決めるらしい」


「何があるの」


 亮介はスマホを少し傾けた。


 真帆はソファから立たずに画面を見た。顔には出さない。ただ、視線が「パパ」のところで止まったのは分かった。


「パパ、あるんだ」


「そりゃあるだろう」


「押すの?」


「押さない」


 即答した声が、自分でも少し硬かった。


 真帆はその硬さに気づいたはずだが、何も言わなかった。画面を見たまま、膝の上で指を組んでいる。


「保護者は?」


 真帆が言った。


「事務的すぎる」


「そうだね。職員証みたい」


「名前でいいだろうな」


「名前でいいんじゃない」


 真帆の返事は早かった。早かったのに、言葉の前にごく短い空白があった。亮介はそこに引っかかった。


 亮介と真帆の家には、子ども用の物がない。


 ないことは、普段の生活では問題にならない。食卓は二人分で足りる。洗面所の棚も、靴箱も、寝室も、二人で使うにはちょうどいい。休日の予定も、急に変えられる。夜中に仕事をしても、誰かを起こす心配は少ない。二人の暮らしは、それで長く回っていた。


 それでも、画面の「パパ」は、存在しない椅子を急に部屋の真ん中へ置いたようだった。


「名前で呼ばせると、近いのか遠いのか分からないな」


 亮介はそう言ってから、余計なことを言ったと思った。


「遠くしたいの?」


 真帆が聞いた。


「そういうわけじゃない」


「近くしたいの?」


「それも違う」


「じゃあ、何なの」


「分からないから止まってる」


 真帆はその答えを笑わなかった。


 リビングの時計が、秒針のない音で時刻を進めていた。真帆のスマホに通知が来たが、彼女は見なかった。


「パパは、違う気がする」


 真帆が言った。


「うん」


「保護者も、違う気がする」


「うん」


「名前でいいんじゃない。亮介が、それなら押せるなら」


 亮介は、画面の「名前で呼ぶ」を押した。


 入力欄が出る。


 この子があなたを呼ぶ名前を入力してください。


 亮介は漢字で「亮介」と打とうとして、消した。ひらがなに切り替える。


 りょうすけ。


 入力欄に入ると、確認文が表示された。


 この子はあなたを「りょうすけ」と呼びます。


 それだけの文が、妙に生々しかった。


「ひらがななんだ」


 真帆が言った。


「画面の中で呼ばれるなら、その方が自然だろう」


「呼ばれる前から、自然かどうか考えるんだね」


「仕事柄」


「またそれ」


 真帆は小さく息を吐いた。責めているわけではない。けれど、許しているわけでもない。


 亮介は「決定」を押した。


 画面が切り替わる。


 次は、この子の名前を決める画面だった。


 候補名が淡く並んでいる。

 陽。律。凪。湊。紬。

 自由入力もできる。


 亮介は、その中の一文字でまた手を止めた。


 凪、という字は静かすぎる。


 亮介はそう思った。静かすぎる名前を選びたくなる自分にも気づいた。


 仕事部屋の机には、まだノートパソコンが開いていた。スリープに入った黒い画面に、スマホを持つ自分の手が薄く映っている。真帆はリビングに戻ったが、テレビはつけなかった。完全に離れるわけではなく、かといって隣に座るわけでもない。ソファの端で、施設の制服のポケットから出したメモを整理している。


「名前、決まったの?」


 真帆が聞いた。


「候補を見てる」


「自分でつけられるんだ」


「候補からでも、自由入力でも」


「自由すぎるのも困るね」


 亮介は候補を見直した。


 陽は明るすぎる。律は整いすぎる。湊は広がりがありすぎる。紬は意味が強い。凪は、動かなさそうで、しかし動かないことを願っているようにも見える。


 亮介は「凪」を押した。


 読みを確認してください、と表示される。


 なぎ。


 入力すると、画面下に小さなプレビュー枠が開いた。白い空間の中に、まだ輪郭の定まらない幼い姿が表示されている。正面ではない。少し横を向いたまま、設定確認用の見本のように静止していた。目も口も、まだはっきりとは動かない。


 亮介は、候補名を押しただけで姿が出ることに少し抵抗を覚えた。名前を入れた途端、そこにいるように見せる。よくできている。分かっていても、目を離しにくい。


「凪にするの」


 真帆が、少しだけ近づいてきた。


「候補にあった」


「亮介らしい」


「どういう意味」


「荒れない方を選ぶ感じ」


「悪いことみたいに言うな」


「悪いとは言ってない」


 真帆は画面を見て、それから亮介を見た。


「でも、凪って名前の子が、荒れないとは限らないよ」


「アプリの中の話だ」


「そうだね」


 その「そうだね」は、納得ではなかった。


 次の画面では、初期外見の設定に移った。


 肌の色、髪の長さ、髪の質感、目の形、服の雰囲気。選べる項目はあるが、どれも極端な方向へは振れない。衣装も日常着だけだった。大きすぎる装飾や、現実離れした装備は出てこない。画面の隅に短い注意書きがある。


 こよりの子は二歳相当から始まります。

 幼い存在として安全に描画されるよう、外見設定には制限があります。


 亮介はそこを読んで、少しだけ息を吐いた。


「ここは相当気を使ってるな」


「気を使わないとだめでしょ」


 真帆の返事は早かった。


「そうだな」


 亮介は、短い髪を選んだ。服は薄い生成りの上着と柔らかい灰色のズボン。性別を強く寄せない。動きやすそうで、どこか頼りない。プレビューの凪は、まだ画面の中で静かに表示されているだけだった。こちらに反応しているわけではない。輪郭が少しずつ整っていくたびに、亮介の指だけが止まった。


 次に、最初に反応しやすいものを選ぶ画面が出た。

 ことば。いろ。おと。ものの名前。人の顔。からだを動かす。


「性格を選ぶみたいで嫌だね」


 真帆が言った。


「性格じゃなくて、最初に反応しやすいものだろう。育つ中で変わると書いてある」


「亮介は、そうやって読む」


「どう読めばいい」


「分からない。でも、選ばれる側からしたら、どれでも変だと思う」


 亮介は返事に詰まった。


 選ばれる側。


 画面の中の凪はまだ何も知らない。知る前から、何に反応しやすいかを決められている。サービスとしては当然だ。最初にやめさせないための作りでもある。亮介には、そういう作りだと分かる。分かるからこそ、選ぶ手が軽くならない。


「亮介なら、ことばでしょ」


 真帆が言った。


「決めつけるな」


「違う?」


「違わない」


 亮介は「ことば」を押した。もう一つ選べる。ものの名前に指が向かい、途中で止まる。理由や名前ばかり追う子にしたいのか、と自分で思った。


 彼は「人の顔」を選んだ。


「意外」


 真帆が言った。


「そうか」


「ものの名前にするかと思った」


「そうすると、俺に寄りすぎる」


「もう寄せてるよ」


 真帆は淡々と言った。責めてはいない。そのぶん、亮介は言い返せなかった。


 次の確認画面には、凪の設定が並んだ。


 名前:凪

 開始年齢:二歳相当

 呼び名:りょうすけ

 最初に反応しやすいもの:ことば/人の顔

 記憶:強い声、繰り返された呼び名、よく見る場所が残りやすい

 成長:保護者の生活、会話、見せるものによって変化します


 最後にもう一文あった。


 こよりの子は、すべてを正確に記録する存在ではありません。年齢相当に忘れ、誤解し、覚え違いをします。


「忘れるんだ」


 真帆がつぶやいた。


「その方が自然なんだろう」


「自然に忘れられたら、困ることもあるね」


「覚えられて困ることもある」


 亮介がそう言うと、真帆は画面から目を離した。


「そうだね」


 リビングが静かになった。


 亮介は確認ボタンに指を置いた。押せば、凪という名前はこのアプリの中で確定する。あとで変えられるかもしれない。設定画面から修正できるかもしれない。だが、繰り返し呼ばれた名前は残りやすい、と画面はすでに言っていた。


 軽く始めるには、細かい引っかかりが多すぎた。


「押すよ」


 亮介は誰に言うでもなく言った。


「うん」


 真帆が返事をした。


 亮介は「確定」を押した。


 プレビューの凪は、まだ動かない。白い空間の中で、設定済みの姿として表示されているだけだった。名前を得たのに、まだこちらを知らない。そのことに、亮介は少しだけほっとした。


 次の画面に、起動ボタンが表示された。


 凪を起動します。


 亮介はボタンを押さなかった。


 仕事部屋の椅子から立ち上がり、スマホを持ったままリビングへ向かった。



 リビングの照明は、仕事部屋より少し暖かい色をしていた。


 真帆はソファの上に置いた制服のメモを束ねていた。亮介がスマホを持って近づくと、顔を上げた。


「起動だけ見る?」


 亮介は言った。


「私はいいよ」


 そう言いながら、真帆はメモをテーブルに置いた。席を立たない。離れない。見ないと言うほど、画面からも目をそらさない。


「じゃあ、ここでやる」


「仕事部屋じゃなくて?」


「最初に見せる場所が、あの机だけなのもどうかと思って」


「もう、見せるって言ってる」


 亮介は返事をせず、スマホを両手で持った。


 起動ボタンを押す前に、カメラとマイクの許可を求める表示が出た。亮介は許可した。画面が一度暗くなり、すぐにスマホのカメラ越しのリビングが映った。


 いつもの部屋だった。


 ローテーブル。ソファ。テレビ台。壁際の本棚。食器棚の磨りガラス。片づけたはずの領収書が、一枚だけテーブルの端に残っている。生活としては何も珍しくない。画面越しに見ると、細かな物の位置まで他人の部屋のように見えた。


 画面中央に、白い読み込み円が出る。


 凪が、あなたの声と環境を確認しています。


「環境って、部屋を見るの?」


 真帆が聞いた。


「カメラ越しに、場所の特徴を取るんだろう」


「今の部屋、覚えるのかな」


「全部じゃない。たぶん、強く見たものとか、繰り返した場所が残る」


「たぶん」


「まだ分からない」


 亮介はそう言いながら、画面の中のローテーブルを少し避けるようにスマホを動かした。何をしているのか、自分でも分からなかった。ただ、最初に散らかった領収書を見せたくなかった。


 真帆がそれに気づいた。


「片づけてから起動する?」


「いや、そこまでじゃない」


「そこまでしてるように見えた」


 亮介はスマホを持つ手を止めた。


 読み込み円が消えた。


 画面の中に、白い空間が重なった。リビングの床の上に、薄い影のようなものが落ちる。最初に小さな足が見えた。柔らかそうな布の靴。膝。上着の裾。片手。


 凪は、画面の中で床に座っていた。


 実際の床には何もない。だが、スマホの中では、ローテーブルの手前に小さな子がいる。凪は自分の手を見て、それから床を見た。白い空間ではなく、亮介のリビングを確かめているように見える。


 真帆が息を止めたのが分かった。


 凪は立とうとした。右手を床につき、左手を少し前に出す。膝が伸びきらず、一度座り直す。失敗しても泣かない。大げさに笑いもしない。もう一度、ゆっくり立つ。足元が不安定で、上着の裾が小さく揺れた。


 亮介は、メモを取ろうとしていたことを思い出した。


 仕事用のメモアプリを開き、初回起動、AR表示、二歳相当、動作自然、と書くつもりだった。だが、片手を離すとスマホの角度が変わる。画面の中の凪が消えてしまいそうで、亮介は動かなかった。


 凪は立ったまま、周囲を見た。


 本棚の方を向く。次に、テーブルの脚を見る。テレビの黒い画面に目をやり、最後に、カメラの方へ顔を上げた。


 亮介と目が合った。


 合った、と思ってしまった。


 凪は少し首をかしげた。画面のこちらを覗き込むように、半歩近づく。足取りはまだ危うい。手を伸ばす。画面の端に指が触れそうになる。そこにはガラスがある。凪には届かない。凪も、それを分かっていないように見える。


「思ったより、人っぽいね」


 真帆が低く言った。


 褒めている声ではなかった。怖がっている声でもない。判断を保留している声だった。


「よくできてる」


 亮介は言った。


 言ってから、その言い方が遠すぎると思った。


 スマホの右上には、小さく終了ボタンが出ていた。初回起動を終了。いつでも閉じられる。戻れる。アプリなのだから、当たり前だ。


 亮介の親指は、その近くまで行き、止まった。


 凪は、まだ何も言っていない。


 口を開きかけて、一度閉じる。初めて声を出す前に、言葉を探すように亮介を見た。二歳相当の幼い顔。作られた肌の影。小さな手。そこにいるわけではない。床には何もない。画面を伏せれば、消える。


 真帆が、亮介の手元を見た。


「閉じるの?」


「いや」


「押せない?」


 亮介は答えなかった。


 凪がもう一歩、画面のこちらに寄った。首を少し傾ける。こちらの声を待つのではなく、まず自分で確かめようとしているようだった。


 それから、幼い声がした。


「りょうすけ、ここ、どこ?」



第二章 もう一台の画面


第一節


 翌日の夜、真帆はリビングの床に洗濯物を広げていた。


 施設のポロシャツを二枚、仕事用の黒いパンツを一本、亮介の部屋着を何枚か。春の夜はまだ少し冷える。乾いた服にも、ベランダの風の冷たさが残っていた。


 亮介はローテーブルの向こう側に座り、スマホを膝の上で立てている。画面の中には凪がいた。昨日よりも、少しだけ画面の中の部屋に馴染んで見える。実際には何も変わっていないのかもしれない。けれど、真帆には、凪が昨日よりこちらを見る時間を長くしたように見えた。


「これはソファ」


 亮介が言った。


 凪は画面の中で、ローテーブルの脚の陰から顔を出した。小さな手を伸ばし、画面越しのソファの端を指すようにする。


「そふぁ」


「そう。座るところ」


「すわる」


「うん。座る」


 凪は、少し考えるようにその場でしゃがんだ。画面の中では床に座っているだけなのに、現実のリビングの床に膝をついたように見える。真帆は畳んでいたポロシャツを手元で一度止めた。


「そこは座るところじゃないな」


 亮介が言った。


 凪は顔を上げた。


「ちがう?」


「そこは床。ソファはこっち」


 亮介はスマホを少し動かした。カメラの中でソファの位置が変わる。凪は一歩遅れて、その方向へ顔を向けた。


「こっち?」


「そう。たぶん、今見えてる」


 凪は亮介を見上げた。


「たぶん」


 亮介が笑った。


「そう。たぶん」


 凪は口の中でその音を転がすように、もう一度言った。


「たぶん」


 真帆は、畳んだ服を膝の上に置いた。


「似てる」


 亮介が顔を上げた。


「何が」


「亮介の言い方」


「俺、そんなに言ってるか」


「言ってる。たぶん、って」


 凪が反応した。


「たぶん」


 亮介と真帆は同時に画面を見た。


 凪は、自分が呼ばれたと思ったわけではなさそうだった。ただ、強く聞こえた音を拾って、もう一度返しただけのように見える。凪の目は亮介の顔と真帆の声の方を交互に追っていた。


「ほら」


 真帆が言った。


「今のは、覚えたというより、聞こえた言葉を返しただけだろう」


「説明しなくていいよ」


「説明してるわけじゃない」


「してる」


 亮介は黙った。凪はその沈黙を見た。


「りょうすけ、ちがう?」


 亮介の表情がわずかに変わった。


「いや、違わない」


「ちがわない」


「うん。今のは、真帆が合ってる」


 凪は首をかしげた。


「まほ?」


 真帆は手にしていたタオルを落としかけた。


 亮介が少し慌てて、スマホを自分の方へ戻した。


「真帆。あっちにいる人の名前」


「まほ」


 凪は音を確かめるように言った。まだ誰なのか分かっていない。けれど、真帆の方を見ようと、画面の中で体を少し傾けた。カメラの角度では、真帆の膝元しか映っていないはずだった。


 真帆は、畳み終えた服を重ねた。


「今の、覚えるのかな」


「どうだろう。強く聞こえた言葉とか、繰り返した言葉は残りやすいって書いてあった」


「じゃあ、たぶんは残るかもね」


「そこは残らなくていいな」


 亮介は少し笑ったが、笑いきれていなかった。


 凪は、亮介の顔を見ている。


「りょうすけ、たぶん、いや?」


「嫌じゃない」


「いや、じゃない」


「そう」


 凪は安心したのかどうか分からないまま、小さく頷いた。頷き方は幼く、少し遅い。けれど、亮介の言葉を待ってから動いたのは分かった。


 真帆はその様子を見ながら、施設で見た記録用紙のことを思い出した。利用者の食事量、睡眠、入浴、言葉の反応。そこに書かれた一行は、書いた人間の見方を少しずつ含む。本人の変化だけではない。見ている側の癖も残る。


 凪は、亮介の声を聞いている。


 亮介の言い方を拾っている。


 それは、画面の中の子が賢いという話ではなかった。使う側が何を言ったか、どんな声で言ったか、それが少しずつ混じっていくということだった。


「ねえ」


 真帆は、畳んだ服をかごに入れながら言った。


「何」


「それ、亮介だけが育てたら、亮介っぽくなるのかな」


「なる部分はあるだろうな。初期設定だけじゃなくて、会話の積み重ねが入るはずだから」


「そう」


 真帆は短く返した。


 凪がまた言った。


「そう」


 真帆は思わず笑った。


「そこも似るんだ」


「真似が早いだけだよ」


「早いだけでも、残るんでしょ」


 亮介は画面を見た。凪は自分が何をしたのか分からない顔で、こちらを見上げている。


 真帆は洗濯かごを持って立ち上がった。寝室へ運ぼうとして、途中で足を止める。


 ローテーブルの上に、亮介のスマホがある。画面の中の凪は、まだ亮介の方を見ていた。


 真帆は、自分のスマホを手に取った。


「どうした」


 亮介が聞いた。


「見るだけ」


「何を」


「こより」


 亮介が何か言いかけた。けれど、凪が先に声を出した。


「まほ、みる?」


 真帆はスマホを持つ手を止めた。


 凪は、まだ真帆の顔を知らないはずだった。けれど、声と名前だけで、こちらを探すように画面の端を覗いていた。


 真帆は、アプリストアを開いた。



 寝室の照明を半分だけ落とすと、スマホの光がやけに白く見えた。


 亮介は仕事部屋に戻っていた。ドアは完全には閉まっていない。キーボードを打つ音が、細くこちらまで届く。たまに、凪の小さな声も混じった。言葉までは聞こえない。ただ、亮介が何かを言い、凪が少し遅れて返しているのは分かった。


 真帆はベッドの端に座り、アプリストアの検索欄に「こより」と入れた。


 白いアイコンが出る。細い糸を撚ったような形。昨日、亮介のスマホで見たものと同じだった。説明欄の文言も同じはずなのに、自分の画面で見ると、少し違って見えた。


 あなたの生活を見て、言葉を覚え、少しずつ育つ、こよりの子。


 真帆はその一文を、声に出さずに読んだ。


 生活を見て、という言葉で、自分の部屋を見回した。ベッドの足元に置いた洗濯かご。施設から持ち帰ったメモ。寝る前に飲もうとして忘れた水のグラス。窓際には、明日のごみ出し用にまとめた袋がある。


 見せたい生活だけが生活ではない。


 そう思ってから、インストールのボタンを押した。


 待っているあいだ、仕事部屋から亮介の声が聞こえた。


「まだ分からないな」


 少し間が空いて、凪が言った。


「まだ、わかんない」


 真帆はスマホの画面から目を上げた。


 声は小さい。二人のやり取りは穏やかだった。それでも、凪が亮介の言葉を拾っているのははっきり分かった。


 真帆は、自分のスマホに視線を戻した。


 インストールが終わっていた。


 こよりを開く。


 最初の画面は、亮介の時と同じだった。白い背景。細い文字。派手な音はない。利用規約と安全説明が表示される。真帆は亮介ほど細かく読まない。介護施設でも、同意書や説明文は毎日のように目にする。長い文ほど、肝心なところはどこか分かりにくい。だから真帆は、行を追いながら、止まる言葉だけを拾った。


 人間の子どもではありません。

 会話、体験、記憶によって成長します。

 二十歳相当で育成モードを卒業します。


 二十歳。


 真帆はそこだけを少し長く見た。二十歳になるまでの九年を想像したわけではない。九年後の自分たちを思い浮かべたわけでもない。ただ、最初の画面で別れ方まで言われることに、変な硬さを感じた。


 同意を押す。


 保護者名の入力欄が出た。


 高瀬真帆。


 入力してから、真帆は少し迷い、漢字のまま決定した。


 次の画面で、手が止まった。


 この子から何と呼ばれたいですか。


 選択肢が並ぶ。


 ママ

 保護者

 名前で呼ぶ

 その他


 昨日、亮介の画面で見たものと同じはずだった。違うのは、「パパ」が「ママ」に変わっただけ。たったそれだけなのに、真帆の喉の奥が少し詰まった。


 ママ。


 押せない、と思った。


 それは、自分にその言葉が似合わないからではなかった。押したあと、リビングで亮介の前にこの画面を出せるか。その呼び方で呼ばれた時、自分がどう返事をするか。亮介が何も言わなかったとしても、その沈黙を自分はどう受け取るか。そういうことを、先に考えてしまった。


 真帆はいつも、場を荒らさずに済む方を先に探してしまう。


 職場でもそうだった。利用者の家族が強い言い方をした時、現場職員が疲れている時、上司が見落としている時、まず場が荒れない言い方を選ぶ。自分の意見は後でいい。今ここを通す方が先だ。そうやって済ませてきたことは多い。


 画面の中でも、同じことをしようとしている。


 真帆は「名前で呼ぶ」を押した。


 この子があなたを呼ぶ名前を入力してください。


 まほ。


 ひらがなで入れると、確認文が出た。


 この子はあなたを「まほ」と呼びます。


 真帆は、しばらくその文を見ていた。ママではない。保護者でもない。けれど、遠いわけでもない。逃げたようで、逃げきれていない言葉だった。


 決定を押す。


 次は名前だった。


 候補が並ぶ。

 灯。花。澪。紗。結。

 自由入力もできる。


 真帆は「灯」で止まった。


 明るい名前だから、というほど単純ではなかった。寝室の照明を落とした今、スマホの画面だけが手の中で光っている。その光は強くない。部屋全体を明るくするほどではない。それでも、指先と膝のあたりだけは白く照らしていた。


 灯。


 真帆は候補を押した。


 読みを確認してください。


 あかり。


 入力すると、白い枠の中に小さな姿が表示された。まだ起動していない。設定確認用の見本にすぎない。けれど、丸い頬と短めの髪、柔らかい色の服が、画面の中に置かれる。


 真帆は、髪の長さを少し短くした。服は淡い黄色ではなく、白に近い薄い色を選んだ。明るすぎる色にすると、名前の理由を言い当てられるような気がして、やめた。


 最初に反応しやすいものを選ぶ画面が出る。


 ことば。いろ。おと。ものの名前。人の顔。からだを動かす。


 真帆は迷わず「いろ」を押した。もう一つで迷った。「おと」と「人の顔」の間で指が止まる。施設では、人がいるかどうかを声で知る人がいる。足音で、誰が来たか分かる人もいる。顔より先に、気配がある。


 真帆は「おと」を押した。


 確認画面に進む。


 名前:灯

 開始年齢:二歳相当

 呼び名:まほ

 最初に反応しやすいもの:いろ/おと

 記憶:強い声、繰り返された呼び名、よく見る場所が残りやすい

 成長:保護者の生活、会話、見せるものによって変化します


 真帆は、保護者、という文字を指でなぞりかけて、やめた。


 仕事部屋から亮介の声がした。


「真帆、まだ起きてる?」


 真帆は、スマホを少し伏せた。


「起きてる」


「そっち、何してる?」


「見るだけって言ったでしょ」


 亮介は少し黙ったあと、


「分かった」


 と言った。


 その言い方は、踏み込まないようにしている声だった。


 真帆はスマホを戻した。


 確定を押す。


 画面が切り替わり、起動ボタンが出た。


 灯を起動します。


 真帆は、すぐには押さなかった。


 仕事部屋の方を見る。ドアの隙間から、亮介の部屋の光が細く落ちている。その向こうに、亮介のスマホと凪がいる。


 真帆は自分のスマホを両手で持ち直した。



 真帆は、リビングの照明をもう一段落とした。


 寝室で起動するつもりだったのに、結局、ソファへ戻ってきていた。亮介は仕事部屋の入口に立っている。こちらへ来ようとはしない。けれど、完全に見ないふりもできないようだった。


「起動するの?」


 亮介が聞いた。


「うん」


「見ててもいい?」


「入口なら」


「分かった」


 亮介はそれ以上近づかなかった。


 真帆は、ローテーブルの上を少しだけ片づけた。施設のメモは裏返し、飲みかけの水を脇へ寄せる。亮介の時と同じだ、と思った。見せるものを選んでいる。裏返したメモも、脇へ寄せたグラスも、選んだことの一部のように見えた。


 スマホの画面に、カメラとマイクの許可が出た。真帆は許可を押した。


 画面が一度暗くなり、カメラ越しのリビングが映る。ローテーブル。ソファ。薄く灯った天井の照明。窓ガラスに、スマホを持つ真帆の手がぼんやり映っていた。


 読み込み円が出る。


 灯が、あなたの声と環境を確認しています。


 真帆は、声を出すべきか迷った。亮介の時は、凪が先に見て、先に尋ねた。場所を問う子だった。灯はどうなるのか。自分が「いろ」と「おと」を選んだことを思い出す。


 円が消えた。


 画面の中に、白い空間が薄く重なった。リビングの床に、小さな影が落ちる。灯は最初、床に座っていなかった。横向きに立ったまま、少し不安定に足を揃えていた。薄い服の裾を両手で触り、顔だけをゆっくり上げる。


 灯の目は、まず天井の照明を見た。


「……きれい」


 声は小さかった。


 真帆は息を止めた。


 灯は光の方へ顔を向けたまま、まばたきをした。笑ってはいない。喜んでいるのか、眩しいのか、まだ分からない。ただ、最初に見たものを、そう呼んだ。


 亮介が入口で動いた気配がした。


 灯は、その音に反応した。ぱっと振り向くのではない。少し遅れて、音のした方へ顔を向ける。


「こえ」


 真帆はスマホを少し胸元へ近づけた。


「いるよ」


 自分でも驚くほど、小さい声だった。


 灯は、今度は真帆の声の方を探した。画面の中で半歩進む。足元は危うい。歩くたびに、上着の裾が小さく揺れる。真帆の方へ来ているように見えるが、実際にはスマホの中でしか動いていない。


「まほ?」


 真帆は指先に力を入れた。


「うん。まほ」


 灯は、言葉を聞いてから、もう一歩近づいた。顔を上げる。カメラの位置が高すぎるのか、少し見上げる形になった。


「まほ、いた?」


「いるよ」


 真帆はまた言った。


 灯はすぐに笑わなかった。真帆の声を聞いて、画面の端に手を伸ばしかける。届かないところで止まり、自分の手を見た。


「ここ、くらい?」


 真帆は、リビングの照明を見た。


「少し暗いね」


「くらい」


「怖い?」


 聞いてから、真帆は言い方が早かったと思った。怖いと決めつけるような聞き方だった。


 灯は首をかしげた。


「こえ、した」


 怖い、ではなかった。


 声がした。人がいる。灯にとって、最初に確かめたいのは場所ではなく、誰かがいることらしい。


「私の声だよ」


 真帆が言うと、灯は小さく頷いた。


「まほの、こえ」


 真帆は、胸の奥が少し締まるのを感じた。褒めそうになった。えらいね、と言いそうになった。よく分かったね、と言いそうになった。


 その言葉を、口の手前で止めた。


 職場で、待てた人に「えらいですね」と言ってしまうことがある。食べられた人に「すごいですね」と言ってしまうこともある。悪い言葉ではない。けれど、相手が大人でも、その言い方でいいのか迷うことがある。


 灯は二歳相当のこよりの子だ。けれど、何でも「えらい」にしてしまえば、この子は何を覚えるのだろう。


「聞こえたんだね」


 真帆は言い直した。


 灯は、真帆の声を聞いて、また頷いた。


「きこえた」


 亮介が入口で、静かに言った。


「凪と違うな」


 真帆は画面を見たまま返した。


「うん」


「凪は最初に、場所を聞いた」


「灯は、人を探すんだね」


 灯は「人」という言葉には反応しなかった。代わりに、画面の外からした亮介の声の方をまた見た。


「こえ、また」


「亮介の声」


 真帆が言った。


「りょうすけ?」


 灯はその音を繰り返した。


 仕事部屋から、凪の声が小さく聞こえた。


「りょうすけ?」


 亮介が振り返る。


「ごめん。凪が起きたままだ」


 真帆は少し笑った。


「二台になると、こうなるんだ」


 灯は、真帆の声が笑ったことには気づいたようだった。顔を戻し、じっとこちらを見る。


「まほ、いた?」


 もう一度、灯が聞いた。


 真帆はスマホをさらに胸に近づけた。


「いる」


 灯は、ようやく少しだけ口元をゆるめた。満面の笑みではない。探していたものがそこにあると分かった時の、小さな緩みだった。


 真帆が返事をしたあと、入口の亮介と目が合った。


 亮介は、真帆の画面を見ていた。真帆が灯に向けた声を聞いていた。何か言いかけたが、言わなかった。


 真帆は、スマホを持つ手を少し下げた。


 灯は画面の中で、真帆が離れたと思ったのか、また一歩近づこうとした。


「まほ?」


「いるよ」


 真帆はすぐに返事をした。



 ローテーブルの上に、二台のスマホが並んだ。


 左が亮介のスマホ。画面の中には凪がいる。

 右が真帆のスマホ。画面の中には灯がいる。


 二台とも同じアプリだった。同じ白い画面。同じ小さな終了ボタン。同じように、現実のリビングをカメラで映している。けれど、そこにいる二人は同じではなかった。


 凪は画面の中で、ローテーブルの脚を見ていた。さっき亮介に教えられたばかりのものを、もう一度確かめているらしい。指を伸ばし、少し離し、また伸ばす。


「てーぶる」


 亮介が言う前に、凪が言った。


「そう。テーブル」


「りょうすけ、あってる?」


「あってる」


 凪は頷いた。ほっとしたようにも見えるし、次の確認を探しているようにも見える。


 真帆は、右のスマホを見た。


 灯は、テーブルの名前には反応していなかった。天井の明かりと、キッチンの方から聞こえる冷蔵庫の低い音に顔を向けている。


「ぶーん」


 灯が言った。


「冷蔵庫の音かな」


 真帆が言うと、灯はすぐに真帆の方を見た。


「まほ、こえ」


「うん。私の声」


「まほ、いた?」


「いるよ」


 灯は頷き、また光を見た。


「きれい」


 凪は、亮介の画面の中でローテーブルの脚を見ていた。


「てーぶる」


 亮介がスマホを持ち上げそうになり、途中で止めた。


「まだ、そっちは見えない」


「まだ?」


「凪と灯は、まだ会えないんだ」


「まだ、あえない?」


「うん。まだ」


 凪はその言葉を繰り返した。


「まだ」


 真帆は、灯の画面を見た。灯は凪の声には反応していない。二台のスマホが隣に置かれていても、画面の中の二人は別々の場所にいる。声も届いていないらしい。凪は亮介を見て、灯は真帆を探している。


「同じ家にいるのに、別々なんだね」


 真帆が言った。


「家庭内交流の設定は、まだ先なんだろうな。たぶん、園の見学とか、保護者同意が必要で――」


「説明しなくていい」


 亮介は口を閉じた。


 凪がすぐに顔を上げた。


「りょうすけ、たぶん?」


 真帆は、思わず亮介を見た。


 亮介は苦い顔をした。


「また拾ったな」


「亮介の言葉だから」


「そんなに言ってるか」


「言ってる」


 灯は、真帆と亮介の声の違いを聞いていた。画面の中で少し後ろに下がる。怒っていると思ったのかもしれない。


「まほ、いや?」


 真帆はすぐにスマホへ顔を寄せた。


「いやじゃないよ。話してただけ」


「はなしてた」


「うん」


 灯は安心したようにはっきり笑わない。ただ、肩の力が少し抜けた。真帆はそこで、また「いい子」と言いそうになった。言わなかった。


 亮介は、二台のスマホを交互に見た。


「初期反応の設定が違うから、ここまで差が出るのか」


 真帆は灯の画面を見たまま言った。


「それだけかな」


 亮介は黙った。


 真帆は、自分のスマホを少し引き寄せた。灯もその動きに合わせて、画面の中でこちらへ来ようとする。凪は、亮介のスマホの中でテーブルの脚を見直している。


 同じアプリ。

 同じ二歳相当。

 同じリビング。


 けれど、凪は「あってる?」と聞き、灯は「いた?」と聞く。


 真帆は、亮介の画面を横から見ていた昨日の自分を思い出した。あの時、こよりは亮介のものだった。亮介が始めたもの。亮介が説明し、亮介が止まり、亮介が閉じられなかったもの。


 今は違う。


 ローテーブルの上には、真帆のスマホもある。灯は、亮介ではなく真帆の声を探している。真帆が黙ると、灯は不安そうに画面のこちらを見る。返事をすると、少し近づく。


 真帆は、これを始めた理由をまだうまく言えなかった。亮介に影響された、とは違う。凪が可愛かったから、とも違う。


 亮介の癖が凪に入るなら、自分の何が灯に入るのか。


 それを見たくなかったのに、見ずにいられなくなった。


「まほ」


 灯が呼んだ。


「なに?」


 真帆は、自然に返事をしていた。


 灯は天井の明かりを見て、冷蔵庫の音の方を見て、それから真帆の声の方へ顔を戻した。


「まほ、いた?」


「いる」


 真帆は言った。


 灯は、少しだけ首をかしげた。さっきよりも確かめる時間は短かった。画面の中の小さな手が、真帆の声の方へ伸びかけて、途中で止まる。


 真帆はスマホに触れたまま、動かなかった。


 灯は、真帆を見つけたように、小さく言った。


「まほ、いた」



第三章 無料の遠足



 休日の朝は、平日より音が少ない。


 亮介は仕事部屋の椅子に座ったまま、スマホの画面を指で送っていた。窓は細く開けてある。外から、遠くの車の音と、どこかの家の掃除機の音がかすかに入ってくる。リビングでは真帆が洗濯機を回し、台所で湯を沸かしていた。


 凪は、画面の中で机の端を見上げていた。


「りょうすけ、これ、なに?」


「マウス」


「まうす」


「パソコンを動かすもの」


「うごく?」


「いや、これ自体が歩くわけじゃない」


「あるく、ちがう?」


「違う」


 凪は納得したのかどうか分からない顔で、机の上のマウスを見続けた。亮介がスマホを少し動かすと、凪も画面の中で小さく体の向きを変える。まだ歩き方は危うい。立っていても、時々、片足に重心が寄る。


 亮介は、こよりのメニューを開いた。


 基本利用の下に、追加できる項目が並んでいる。教育、体験、衣服、記録、園イベント予告。どれも押せば詳細が出るが、最初の見せ方は抑えてある。大げさな煽り文はない。値段も、手が届かないほど高くはない。


 その置き方が、うまい。


 亮介は教育パックを開いた。語彙あそび、音楽、色と形、簡単な科学、絵本の読み聞かせ。二歳相当向けだから、どれも軽い。次に体験パックを開く。動物園の見学、博物館の幼児向け案内、季節の花めぐり、仮想水族館。


「たいけん?」


 凪が言った。


 亮介は指を止めた。


「画面に出た?」


「たいけん、する?」


「体験っていうのは、何かを見たり、やってみたりすること」


「みる?」


「そう。見るのも体験」


「そと、みる?」


 亮介は、体験パックの画面を見たまま黙った。


 凪は、まだ外を知らない。窓の外を少し見せたことはある。けれど、スマホを持って家の外に出たことはない。凪にとっての世界は、今のところ、仕事部屋とリビングと寝室の一部、机の端、ソファ、テーブル、亮介の声くらいだった。


 リビングから真帆が来た。手にはマグカップを二つ持っている。


「何見てるの」


「追加パック」


「もう?」


「見るだけ」


「それ、私の言い方」


 真帆は亮介の机にマグカップを置き、画面を覗いた。


「教育とか、体験とか、服とか、いろいろあるんだね」


「設計はかなり慎重だな。記憶や基本成長を人質にしてない。そこはちゃんとしてる」


「でも、お金を払いたくなるところに置いてある」


「そう」


 亮介は素直に頷いた。


 真帆は画面の中の凪を見た。凪は真帆の声に気づき、少し顔を上げる。


「まほ?」


「おはよう」


「おはよう」


 凪は真帆の方を見ようとして、画面の端へ一歩寄った。けれど、カメラは亮介の手元を映しているので、真帆の顔は入らない。


「そと、どこ?」


 凪がもう一度言った。


 亮介はスマホを持ち直す。


「外は、家の外だよ。道路とか、公園とか、店とか」


「どうろ」


「車が通るところ」


「くるま」


「そう」


 亮介が説明を始めると、真帆が横から言った。


「まず外を見せればいいんじゃない」


 亮介は画面から目を上げた。


「今から?」


「休みでしょ。雨も降ってないし。公園くらいなら行ける」


「体験パックを見てたんだけど」


「体験なら、そこにもあるんじゃない。近所だけど」


 真帆はそう言って、マグカップを口に運んだ。


 亮介は、画面の体験パックを見た。動物園、博物館、季節の花めぐり。どれも悪くない。むしろ、よくできているはずだ。家庭では見せにくいものを、こよりの子に無理なく見せられる。価値はある。


 だが凪は、今、画面の中の「体験」という言葉から外を想像しようとしている。


 それなら、最初の外は、パックの中でなくてもいい。


「灯は?」


 亮介が聞いた。


「起きてる」


 真帆は自分のスマホを出した。画面の中で、灯は薄い寝室の光の下に座っていた。真帆の声が聞こえると、顔を上げる。


「まほ?」


「お外、見る?」


 灯は「お外」という言葉の意味を分かっていないようだった。けれど、真帆の声の明るさには反応した。


「そと?」


「うん。空とか、花とか」


「そら」


 灯は、まだ見たことのないものを、小さく繰り返した。


 亮介は体験パックの画面を閉じた。


「じゃあ、行くか」


「遠くじゃなくていいよ。近所の公園と、スーパーくらい」


「遠足ってほどじゃないな」


 真帆は、少し考えてから言った。


「でも、最初なら遠足でいいんじゃない」


 亮介はスマホの中の凪を見た。


「遠足だって」


「えんそく?」


「外へ見に行くこと」


「そと、みる」


 凪は、その言葉を大事そうに繰り返した。



 公園は、家から歩いて十分ほどのところにある。


 大きな公園ではない。滑り台とブランコが二つ、低い鉄棒、ベンチが三つ。花壇には、春の花が少しずつ色を変えて並んでいる。午前の光はやわらかく、地面にはまだ夜の冷たさが少し残っていた。


 真帆は公園の入口で立ち止まり、自分のスマホを起動した。アプリ内カメラに切り替えると、スマホの画面の中に、現実の公園が映った。花壇、ベンチ、細い木、砂場のふち。その手前に、灯が立った。


 もちろん、現実の地面にはいない。けれど、画面の中の灯は、花壇の前にいるように見えた。足元を確かめるように、小さく体を揺らしている。


 灯は最初に、空を見た。


 画面の中で、頭をぐっと上げる。首が後ろへ倒れすぎないように、片手を少し横に出す。真帆もつられて空を見た。


「そら、ひろい」


 灯が言った。


「広いね」


「まほ、こえ、ちかい」


「近いよ。ここにいる」


 真帆はスマホを少し胸の高さまで下げた。灯が画面の中で真帆を見上げやすくなる。灯は空を見て、また真帆の声の方を向いた。


「そら、まほも、みる?」


「見てる」


「いっしょ?」


 真帆は少し詰まった。


「うん。いっしょに見てる」


 灯はそれを聞いて、小さく頷いた。


 遠くの方で犬が吠えた。


 灯の顔がすぐにそちらを向いた。


「わん」


「犬だね」


「わん、いた?」


「いるよ。あそこ」


 真帆はスマホを少し右へ向けた。リードをつけた小さな犬が、飼い主の足元で立ち止まっている。灯は画面の中でそちらへ行こうとしたが、花壇の手前で止まった。アプリの表示が、公園の段差をざっくり認識しているらしい。灯は足元を見て、不思議そうにする。


「いけない?」


「そこ、花壇だからね。入らないよ」


「はいらない」


「そう」


 灯は花壇の花を見た。赤と白と薄紫の花が、風で少し揺れている。


「きれい」


「見えたんだね」


 灯は花を見たまま、少し首をかしげた。


「はな、うごく?」


「風で揺れてる」


「かぜ?」


 真帆は少し考え、スマホを持っていない方の手を自分の頬に当てた。


「空気が動いてるの。今、ちょっと冷たい」


「ゆれる?」


「うん。揺れてる」


 灯は花を見たまま、真帆の言葉を聞いていた。説明の全部が分かっているわけではない。ただ、「風」と「揺れる」だけを拾ったようだった。


 ベンチの近くに、子ども連れの母親がいた。幼い子が砂場のふちに座っている。真帆はそちらをあまり長く映さないようにした。相手の顔が入らない角度へスマホを少し下げる。


 灯はその動きに合わせて、真帆の方を見た。


「まほ、かくした?」


「人がいるから、あまり映さないようにしたの」


「ひと、いる?」


「いる。でも、遠くから見るだけ」


「みるだけ」


「うん」


 灯は頷いた。けれど、その後も人の方ではなく、真帆の声の近さを確かめるように、画面のこちらを見ていた。


 真帆は花壇の前でしゃがんだ。スマホの画面の中で、灯と花が同じ高さに入る。


「写真、撮ってみようか」


「しゃしん?」


「今の灯と花を残すの」


「のこす?」


「あとで見るため」


 灯は花を見た。真帆は撮影ボタンを押した。小さなシャッター音が鳴る。灯は音に驚いて、真帆の方を見る。


「おと」


「写真の音」


「しゃしん、おと」


「びっくりした?」


 灯は少し考えてから、真帆を見た。


「まほ、いた」


「いるよ」


 撮影後、画面の下に短い表示が出た。


 メモリーに登録しますか?


 真帆は指を止めた。


 登録するだけなら簡単だった。写真を選び、タグを入れればいい。けれど、何として残すのかで、灯の中に残る形が変わる気がした。花の名前を知らないまま、「花」とだけ入れるのか。公園と入れるのか。空と入れるのか。


 画面には、入力欄がある。


 タグを入力してください。


 真帆は一度、「公園」と打ちかけた。消す。

 「はじめての外」と打とうとして、少し大げさに感じてやめた。


 結局、真帆は短く入力した。


 はじめての公園


 登録を押す。


 灯は花の方を見ていた。自分が今、何を覚えさせられたのかは分かっていない。けれど、真帆が画面に触れたあと、もう一度花を見た。


「はじめて?」


「そう。初めて来た公園」


「まほも?」


「私は初めてじゃない」


「灯、はじめて?」


「うん。灯は初めて」


 灯は、少し嬉しそうに聞こえる声で言った。


「はじめて」


 真帆はスマホを下ろさず、そのまましばらく花壇の前にいた。犬はもう公園の出口へ向かっている。灯は気づいて、顔をそちらへ向けた。


「わん、いく?」


「行っちゃうね」


「わん、もういっかい?」


「また見られるかもしれないよ」


 真帆は立ち上がった。公園を出て、スーパーへ向かう道に入る。


 灯は画面の中で、何度も公園の方を振り返ろうとした。


「わん、もういっかい?」


 真帆は歩く速度を少し落とした。


「今日は、スーパーにも行くよ」


「すーぱー?」


「食べるものを買うところ」


 灯は「食べる」という言葉には少し反応したが、またすぐに真帆の声を探した。


「まほ、こえ、ちかい?」


「近いよ」


 真帆は、スマホを胸元に近づけたまま歩いた。



 スーパーの前の信号で、亮介は凪に赤い光を見せた。


 公園では、灯の方がよく声を出していた。凪は亮介のスマホの中で、木の幹やベンチを見ていたが、花にはあまり反応しなかった。犬の声にも、灯ほどは顔を向けなかった。その代わり、道路に出てからは、凪の目の動きが変わった。


 赤信号の前で、凪が言った。


「あか」


「赤だな」


「あか、だめ?」


「今は渡っちゃだめ」


「どうして?」


「車が来るから。危ない」


「くるま、くる」


「来るかもしれない」


「たぶん?」


 亮介は少し笑った。


「たぶんじゃない。赤は止まる。そう決まってる」


「きまってる」


 凪は信号を見上げた。画面の中の凪は、歩道の端に立っているように見える。実際には亮介のスマホの中にいるだけだが、赤信号の前で止まっている姿は妙に合っていた。


 真帆は少し後ろで、灯に空を見せている。灯は信号より、車の音と真帆の声に反応していた。


 青に変わった。


「青になった。渡る」


「わたる」


 亮介はスマホをしっかり持ち、白い線の上を渡った。凪は画面の中で、足元を見下ろしている。


「しろ、いっぱい」


「白い線のところを渡る」


「ここ、あるく?」


「そう。ここを歩く」


「あるく、あってる?」


「あってる」


 凪は頷いた。信号を渡りきったあとも、何度か振り返ろうとした。


 スーパーに入ると、入口の自動ドアの音に灯が反応した。だが亮介のスマホの中の凪は、すぐに店内の棚と値札へ目を向けた。


「すうじ」


 凪が言った。


 亮介はパン売り場の前でスマホを少し近づけた。棚の下に値札が並んでいる。


「これは値段」


「ねだん?」


「買うのに必要なお金の数」


「おかね」


「そう。お金を払うと、持って帰れる」


「はらう?」


「渡すこと。正確には支払うだけど――」


「りょうすけ」


 真帆の声が横から入った。


「何」


「長い」


「聞くから」


「二歳だよ」


「二歳相当だ」


「同じ」


 亮介は口を閉じた。


 凪は、値札を見たまま言った。


「おかね、いる?」


「いる」


「パン、おかね?」


「パンにもお金がいる」


「ぎゅうにゅう?」


「牛乳にもいる」


「これも?」


 凪は、棚のあちこちへ目を向ける。


「だいたい、いる」


「だいたい」


 亮介は言ってから、また拾われると思った。


「店の中のものは、勝手には持って帰れない」


「かって?」


「そのまま、というか……お金を払ってから」


「おかね、はらう」


 凪は「お金」という音だけを、もう一度小さく言った。


「おかね」


 意味の全部は入っていない。けれど、何かを持ち帰る前に出てくる言葉として、そこだけが残ったようだった。


 真帆はかごに牛乳と卵を入れた。灯はその音に反応している。


「かご、おと」


「入れた音だよ」


「たまご?」


「卵」


「まほ、たべる?」


「食べるよ」


 灯は卵の形より、真帆がそれを持つ動きに目を向けていた。


 亮介は凪に、惣菜売り場を見せた。揚げ物の匂いが通路に出ている。


「これは、晩ごはんにするかもしれない」


「ばんごはん」


「夜に食べるごはん」


「おかね?」


「これもお金」


「おかね、いっぱい」


「そうだな」


 凪は少し考えた。


「りょうすけ、おかね、もってる?」


 亮介は、返事に詰まった。


「少しは」


「たりる?」


 真帆が横で小さく笑った。


「そこは大事だね」


「笑うな」


「大事でしょ」


 亮介はかごの中を見た。牛乳、卵、パン、惣菜を二つ。凪が気にしたからといって、買い物そのものが変わるわけではない。けれど、スマホの画面を通すだけで、値札の数字が妙に目立った。


 レジには数人並んでいた。


 亮介は列の最後尾に立ち、スマホを下げた。凪は画面の中で前の人たちを見ている。


「ならぶ?」


「そう。順番に並ぶ」


「じゅんばん」


「前の人が終わるまで待つ」


「まつ」


「うん」


「まつ、あってる?」


「あってる」


 凪は頷き、列の先を見た。セルフレジの音が鳴る。バーコードを読む電子音、袋を開く音、小銭の落ちる音。凪はそれらを一つずつ聞き分けようとしているようだった。


「ぴっ」


「レジの音」


「ぴっ、したら、おかね?」


「まあ、そうだな。商品を読み取って、合計を出して、払う」


「ごうけい?」


「全部合わせた数」


 真帆が、亮介の袖を軽く引いた。


「また長い」


 亮介は言葉を飲み込んだ。


 凪は、亮介の顔を見上げた。


「ながい?」


「説明が長かった」


「ながい、だめ?」


「だめじゃない。でも、今は待つ」


「まつ」


 凪は素直に前を向いた。


 レジを終えて、袋に品物を入れ、店を出る。外の空気は、店内より少し乾いていた。灯は真帆のスマホの中で、袋の音に反応している。


 帰り道、凪はしばらく黙っていた。


 亮介がスマホを覗くと、凪は画面の中で手を見ていた。スーパーの中で何かを持ったわけではないのに、持って帰るという言葉が残っているようだった。


「疲れたか」


 亮介が聞く。


「つかれた?」


「外をたくさん見たから」


「そと」


 凪は顔を上げた。


「おかね、いる?」


「何に?」


 凪は少し考えた。まだ言葉が足りないらしく、答えられない。


「そと、見る」


 それだけ言って、凪はまた黙った。



 帰宅すると、リビングのテーブルには買ってきたものが並んだ。


 牛乳、卵、パン、惣菜のパック。真帆はエコバッグを畳み、亮介はスマホをローテーブルに置いた。二台のスマホには、凪と灯がそれぞれ映っている。画面の中の二人は、まだ互いを見ない。凪は亮介のスマホの中で袋の端を見ていて、灯は真帆のスマホの中で窓の方を向いている。


 午後の光が、カーテン越しに床へ落ちていた。


「疲れた?」


 真帆が灯に聞いた。


「まほ、こえ、した」


「うん。帰ってきたよ」


「わん、いた」


「いたね」


「そら、ひろい」


「広かったね」


 灯は、花の名前は言わなかった。赤い花、白い花とも言わない。ただ、空が広いことと、犬の声と、真帆の声が近かったことだけは残っているようだった。


 亮介は凪の画面を見た。


「凪は何を見た?」


 凪は少し考えた。


「あか、だめ」


「信号のことか」


「あお、わたる」


「そう」


「ならぶ」


「レジで並んだな」


「まつ」


「待った」


「おかね」


 その言葉だけ、凪ははっきり言った。


 亮介は返事を少し遅らせた。


「お金も見たな」


「パン、おかね」


「パンにもお金がいる」


「そと、おかね?」


 真帆が亮介を見た。


「まだそこまで分けられないんだね」


「そうだな」


 亮介は、凪に「外そのものにお金はいらない」と言いかけた。けれど、今日の午前中、体験パックの画面を見ていたのは自分だった。外を見せるための有料体験もある。公園へ行くのは無料でも、スーパーでは金を払う。凪がそこをまとめてしまうのは、二歳相当の混ざり方としておかしくない。


 スマホに通知が出た。


 今日の写真と動画をメモリーに登録しますか?


 真帆のスマホにも同じような表示が出ている。午前中に撮った花壇の写真、犬の声が入った短い動画、公園のベンチを映した数秒の記録。亮介の方には、信号とスーパーの棚、レジの列が残っていた。


 真帆は自分の画面を開いた。


「さっきの写真、登録したけど、動画も出てる」


「犬の声?」


「たぶん」


 灯が反応した。


「わん?」


「うん。犬の声」


「もういっかい?」


 真帆は動画を再生した。小さく犬の鳴き声が聞こえる。灯はすぐに顔を上げた。


「わん、いた」


「動画の中だよ」


「どうが?」


「さっきの音を残したもの」


 灯は分かっていない顔をした。けれど、犬の声がすると、嬉しそうにそちらを見る。


 真帆はタグ入力画面を開いた。


 はじめての公園。


 すでに写真に入れた言葉が、候補として出ている。


「これでいいかな」


 真帆が言うと、亮介は自分のスマホを見ながら答えた。


「こっちは、近所の散歩、かな」


「散歩?」


「公園とスーパーだろ」


「遠足って入れていいんじゃない」


「近所のスーパーまでだぞ」


「灯には遠足だったと思う」


 真帆は、灯の画面を見た。


 灯は犬の声の動画が終わったあとも、真帆の方を見ている。


「まほ、いた」


「いたよ」


「こうえん、いた」


「うん。公園にいた」


 真帆は入力欄に、少し迷ってから打った。


 はじめての公園


 その下に、もう一つ入れようとして、真帆は手を止めた。遠足、と打つには少し大げさに思えた。それでも、灯にはそうだったのかもしれない。


 亮介は横から見て、眉を上げた。


「迷ってるのか」


「うん」


「何を」


「遠足って入れていいかなと思って」


「近所のスーパーまでだぞ」


「灯には遠足だったと思う」


「だめじゃない」


 真帆は少し笑い、けれど入力は増やさず、登録を押した。


 亮介は、自分のスマホの画面を見た。


 凪のメモリー候補には、信号の短い動画があった。赤信号で止まり、青になって渡る。そのときの亮介の声も入っている。


 赤は止まる。青は渡る。


 次の動画は、レジの列。亮介が「順番だから待つ」と言っている。凪の小さな声も入っていた。


 まつ。あってる?


 亮介は入力欄に「近所の散歩」と入れかけた。消す。


 今日の買い物。

 それも違う。


 遠足。

 真帆の言葉が、耳に残っている。


 亮介は、結局それを選ばず、自分で入力した。


 はじめての外


 入力してから、少し硬いと思った。けれど消さなかった。


 登録を押す。


 画面に短く表示される。


 メモリーに登録しました。


 凪は、画面の中で亮介を見上げた。


「めもりー?」


「今日見たものを、あとで少し思い出せるようにするんだ」


「おもいだす」


「そう」


「おかね、も?」


 亮介は返事に迷った。


「お金も、覚えたのか」


「おかね」


 凪は頷いた。


 真帆が静かに言った。


「花の名前は覚えてないみたい。灯は、私の声ばっかり」


「凪は数字は読めない。でも、お金は残った」


 二人は、ローテーブルの上の二台を見た。


 同じ時間に、同じ道を歩いた。同じ公園へ行き、同じスーパーへ入り、同じ袋を持って帰った。けれど、残っているものは違う。


 灯には、空と犬の声と真帆の声が残った。


 凪には、赤信号と順番と値札とお金が残った。


 亮介はスマホのメニューを開いた。朝見ていた体験パックの項目が、履歴に残っている。仮想水族館、季節の花めぐり、動物園見学。どれも悪くない。今日、犬の声にあれだけ反応した灯なら、動物園の体験はきっと強く残る。花の名前を知らないまま「きれい」と言った灯には、花めぐりも合うかもしれない。凪には、博物館の幼児向け案内より、駅や市場の方が強く残るのではないか。


 そこまで考えて、亮介はメニューを閉じた。


 今日は買わない。


 買わないことが正しいからではない。今日の午前中だけでも、凪と灯は十分に何かを持ち帰っている。けれど、それでも有料体験の画面を見た自分の指が、簡単には忘れられない。


 灯が、真帆のスマホの中でまた言った。


「わん、もういっかい?」


「あとでね」


「あとで」


 凪は、亮介の画面の中で、スーパーの動画の小さなサムネイルを見ていた。


「りょうすけ」


「何」


「おかね、ないと」


 亮介は凪を見た。


 凪は、まだ意味を全部つなげられないまま、けれど今日残った言葉を並べるように言った。


「おかね、ないと、そと、みれない?」



第四章 服を買う



 夜になっても、灯は犬の声を探していた。


 真帆はリビングのソファに座り、膝の上でスマホを傾けている。画面には、昨日の公園で撮った短い動画が出ていた。花壇の向こうで、小さな犬が一度だけ吠える。音は少し割れている。風の音も入っている。けれど灯には、それで十分らしかった。


「わん、いた」


「いたね」


「もういっかい?」


「もう三回見たよ」


「さん?」


「たくさん、ってこと」


「たくさん」


 灯は、画面の中で犬の声がした方を見ていた。現実の公園にはもういない。動画の中にいるだけだ。それでも、音がすると顔を上げる。音が消えると、真帆の声を探すようにこちらを見る。


 テーブルの上には、施設から持ち帰ったメモと、明日の持ち物を書いた小さな紙が置いてある。洗濯物はもう畳み終えていた。亮介は仕事部屋にいる。ドアは少し開いていて、時々キーを打つ音が聞こえる。


 真帆は動画を止めた。


「今日はここまで」


「わん、ない?」


「また見る」


「あとで?」


「うん。あとで」


 灯は「あとで」を聞くと、少しだけ納得したように頷いた。


 画面の下に、昨日登録したメモリーが表示されている。


 はじめての公園


 その隣に、小さな案内が出ていた。


 公園メモリーに合わせて、春の外出服を登録できます。


 真帆は最初、意味が分からなかった。指で押すと、衣服の一覧が開く。春の外出服。散歩用カーディガン。薄手の上着。小さな靴風デザイン。どれも画像は控えめだった。きらびやかな飾りも、大げさな演出もない。前回の公園写真に重ねて試せるようになっているらしい。


「服まであるんだ」


 真帆は声に出していた。


 灯が反応する。


「ふく?」


「着るもの」


「あかり、きる?」


「画面の中でね」


「きる」


 灯は、自分の袖を見るように、小さな手を下ろした。今着ているのは、初期設定で選んだ白に近い服だ。柔らかくて、何にでも合う。けれど、公園の花壇の前に置くと、少し室内着のように見えた。


 真帆は一覧を送った。


 薄い緑のカーディガン。

 白い襟のある上着。

 ベージュの外出用ワンピース風。

 小さな靴風デザイン。

 淡い黄色のパーカー。


 値段は数百円から千円台だった。高すぎない。けれど、無料でもない。


 灯は色に反応した。


「これ、きれい」


「どれ?」


 真帆が薄い黄色のパーカーを大きく表示すると、灯は少し近づく。


「まほ、これ、あかるい」


「明るいね」


「そと?」


「外に行く時の服みたい」


「そと、これ?」


 灯は、服を画面の飾りとしてではなく、昨日の公園とつなげて見ているようだった。真帆は、そこに少し驚いた。


 服の詳細を開くと、昨日の公園写真に重ねた試着表示が出た。花壇の前に立つ灯に、薄い上着が重なる。実際に着たわけではない。データの表示だ。それなのに、袖の長さや色の明るさを見てしまう。


 真帆は、黄色を閉じた。


 次に、薄い緑のカーディガンを表示する。


 灯は首をかしげた。


「これ?」


「どう?」


「まほ、くらい?」


「暗い?」


「うん。すこし」


 真帆は少し笑った。


「そうか。少し暗く見えるか」


 次に白い襟の上着を出す。灯はしばらく見てから、袖を触ろうとした。画面の中の手は、袖の表示に触れたようで触れない。


「これ、かたい?」


「硬そうに見える?」


「かたい、いや」


「じゃあ、これはやめようか」


「やめる」


 真帆の指が、そこで止まった。


 やめようか、と自然に言っていた。


 選ぶ必要はない。買うと決めたわけでもない。見るだけなら閉じればいい。けれど、灯が「いや」と言った服を候補から外した時、真帆はただ一覧を操作しているのではなく、灯の好みを聞いている気がした。


 最後に、薄手の上着を表示した。生成りに近い色で、袖口だけ少し丸い。昨日の公園写真に重ねると、花壇の色を邪魔しない。靴風デザインも一緒に試せるが、真帆はまだ選ばなかった。


 灯は、その上着をじっと見た。


「まほ」


「なに?」


「これ、そと、いく?」


 真帆はすぐに答えられなかった。


 上着は、現実には布ではない。汚れない。洗濯もしない。寒さを防ぐわけでもない。けれど灯にとっては、昨日の公園へつながるものに見えている。


 真帆は購入ボタンを見た。


 九百八十円。


 買えない金額ではない。考えるほどの額でもない、と言えばそうだった。けれど、だからこそ指が止まる。


「まほ、どれ?」


 灯が聞いた。


 真帆は、購入ボタンを押さずに画面を閉じることもできた。


 けれど、閉じなかった。



 亮介がリビングに出てきた時、真帆はまだ服の画面を開いていた。


 ローテーブルには二台のスマホがある。亮介のスマホには凪が映っている。凪は昨日のメモリーの中の信号を見返していた。赤、青、待つ、渡る。まだ意味は浅いが、言葉は残っている。


 真帆のスマホでは、灯が薄手の上着の試着表示を見ていた。


「何見てるんだ」


 亮介が聞いた。


「服」


「誰の」


「灯の」


 亮介は一瞬、言葉を失ったように真帆のスマホを見た。


「データの服に金を払うのか」


 その言い方はきつくなかった。むしろ、亮介自身が確認しているようだった。


 真帆は、反論しなかった。


「そうだね」


「現実の布じゃない。汚れないし、サイズアウトもしない。寒さも防がない。着せても、この部屋には何も増えない」


「うん」


「でも買いたくなる」


「うん」


 真帆は画面を閉じなかった。


 灯は亮介の声に少し反応したが、内容は分かっていない。上着の袖を見て、自分の手元を見ている。


「まほ、これ、そと?」


「外に行く時の服みたい」


「そと、いく?」


「また行けたらね」


「また」


 灯はその言葉を拾った。


 亮介はソファの背に片手を置いたまま、画面を見ていた。


「この値段がまた絶妙だな」


「高すぎないね」


「高すぎないから、考える前に押せる」


「押してないよ」


「押してないけど、閉じてもいない」


 真帆は、そこではじめて亮介を見た。


「閉じた方がいい?」


「そういう話じゃない」


「じゃあ、どういう話?」


 亮介は黙った。


 灯が別の服を指した。真帆が一覧を送った時、淡い黄色のパーカーがまた表示された。


「こっち、あかるい」


「明るいね」


「でも、これだと昨日の花と近すぎるかも」


「ちかい?」


「色が似てる」


 灯は分かったような、分からないような顔をした。


「これ、すき?」


 真帆の指が、そこで一度止まった。


「灯は?」


「きれい」


「好き?」


 灯は少し考え、首をかしげた。


「きれい。でも、そと、ちがう」


 亮介が反応した。


「違う?」


 灯は亮介の声ではなく、真帆の方を見た。


「まほ、これ、そと、ちがう」


 真帆は黄色の服を閉じた。薄手の生成りの上着に戻す。


「こっちは?」


 灯は画面に近づいた。


「これ、そと」


「そう見える?」


「そと、いく」


 真帆の指が止まる。


 亮介は、その指を見た。


 真帆はデータだと分かっている。分からずに買おうとしているわけではない。画面の中の服が現実に届かないことも、洗濯も寒さも関係ないことも、分かっている。


 それでも、灯が「これ、そと」と言った途端、真帆はその一着を、昨日の公園の続きとして見始めている。


「九百八十円か」


 亮介が言った。


「買わないといけないわけじゃない」


「分かってる」


「灯も、買ってって言ってるわけじゃない」


「それも分かってる」


 灯は、二人の声の違いを聞いていた。少し後ろへ下がる。


「まほ、いや?」


 真帆はすぐに顔を寄せた。


「いやじゃないよ。考えてるだけ」


「かんがえてる」


「そう」


 灯は少し安心したように上着を見た。


「これ、そと、いく?」


 亮介は、その問いを聞いて、言葉を失った。


 それは課金の要求ではなかった。服がほしい、と言っているわけでもない。昨日覚えた外と、今見ている服を、灯なりにつなげようとしているだけだった。


 亮介は真帆のスマホから目を離し、自分のスマホを見た。


 凪は信号の動画から顔を上げていた。


「りょうすけ、そと?」


「外の話をしてる」


「ふく?」


「服の話もしてる」


 凪は少し考えた。


「そと、ふく」


「そうだな。外に行く時、服を着る」


 真帆がちらりと亮介を見た。


「また説明してる」


「今のは短い」


 凪は画面の中で、自分の袖を見た。


「ぼく、ふく」


「着てるよ」


「そと、ふく?」


 亮介は答えに詰まった。


 今はまだ、凪の問いはそこまで来ていない。けれど、遠くない場所に来ているのは分かった。



 真帆は、購入前の試着表示をもう一度開いた。


 ローテーブルの右側に真帆のスマホ。左側に亮介のスマホ。二台の中の凪と灯は、互いを見ていない。声も届いていない。ただ、現実のリビングにいる二人の会話だけが、それぞれの画面へ入っていく。


 灯は、生成りの上着を試着した姿で立っていた。購入前なので、画面の端には「試着中」と小さく表示されている。服の輪郭は自然だが、よく見れば少しだけ淡い。まだ確定していないものの色だった。


「まほ、これ?」


「試してるだけ」


「ためしてる?」


「買う前に、似合うか見るの」


「にあう?」


 真帆は返事に迷った。


「変じゃないか見ること」


「へん?」


「違うか。似合うって、うーん……」


 亮介が横から言った。


「その子に合って見えるか、だな」


 真帆は亮介を見た。


「今のは分かりやすい」


「珍しく?」


「珍しく」


 灯は二人のやり取りには深く反応せず、袖口を見ていた。


「これ、まほ、みる?」


「見てるよ」


「みてる」


 灯はそこを確認してから、少しだけ体を揺らした。服が揺れたように見える。現実の布ではないのに、袖口の影が小さく動いた。


 凪が、亮介の画面の中で声を出した。


「りょうすけ」


「何」


「ぼくも、そとにいくふく、いる?」


 亮介は、スマホを持つ手に力を入れた。


 真帆も黙った。


 凪は、灯の服を見ているわけではない。灯が何を着ているかも知らない。さっきから聞こえているのは、亮介と真帆の会話の断片だけだ。外、服、お金、試す、買う。凪はそれらを、自分の中でつなげた。


「外に行く時は、服を着る」


 亮介はゆっくり言った。


「ぼく、ふく」


「うん。凪も服を着てる」


「これ、そと?」


「今の服でも、外は見られる」


「おかね、いる?」


 亮介は答えを急がなかった。


 ここで「いらない」とだけ言えば済む。実際、凪の外出に服課金は必要ない。昨日だって、凪は今の服で公園とスーパーを見た。服を買わないと外が見られないわけではない。


 けれど、近所へ出た日の帰り、凪は聞いた。お金がないと外を見られないのか、と。今日、亮介は服の話をしている。灯が外へ行く服を見ている。九百八十円という額も、亮介の口から出た。


 凪にとって、それらが一つの線になるのは自然だった。


「服を買わなくても、外は見られる」


 亮介は言った。


「みれる?」


「見られる」


「じゃあ、ふく、なに?」


 亮介は黙った。


 真帆が、自分のスマホを膝に寄せた。灯は真帆の声が止まったことに気づき、顔を上げる。


「まほ?」


「いるよ」


「まほ、かんがえてる?」


「うん。考えてる」


 灯はそれを聞くと、袖口を見た。


「これ、いや?」


「いやじゃない」


「まほ、すき?」


 真帆は小さく笑った。


「少し好き」


「すこし」


 灯は、その言葉を大事そうに繰り返した。


 亮介は凪に向き直った。


「服は、外を見るために絶対いるものじゃない」


「ぜったい?」


「なくても大丈夫ってこと」


「だいじょうぶ」


「でも、外へ行く時に、その時の服を選ぶ人もいる」


「えらぶ」


「そう。どれが合うか、どれが好きか」


「すき」


 凪は自分の袖を見て、それから亮介を見た。


「りょうすけ、ぼく、これ、すき?」


 亮介は意表を突かれた。


 凪は、自分が好きかを聞いているのではない。亮介がどう見ているかを確かめている。昨日の「お金」に続いて、今日は「服」と「外」が、亮介の顔色とつながりかけている。


「俺が決めることじゃない」


 亮介は言ってから、二歳相当の凪には遠い言い方だったと思った。


 言い直す。


「凪が、嫌じゃなければいい」


「いや、じゃない」


「じゃあ、今はそれでいい」


「いまは」


「うん。今は」


 凪は小さく頷いた。


 亮介は、そこでようやく分かった。


 衣装課金は、見た目を変える遊びだけではない。こよりの子にとっては、外へ出る準備に見えることがある。自分もそこに含まれるのか、聞くきっかけになることがある。


 凪は、灯の服を羨ましがっているわけではなかった。


 ただ、自分も外へ行く時に何かを選ばれる存在なのかを、確かめていた。


 真帆が購入ボタンの近くで指を止めている。


 亮介は、それをもう止めなかった。



 真帆が買ったのは、生成りの薄手の上着だけだった。


 靴風デザインは買わなかった。色違いも選ばなかった。セット表示もあったが、そちらは閉じた。購入ボタンを押す前に、真帆は一度だけ亮介を見た。


「これにする」


 亮介は頷いた。


「うん」


「いいの?」


「俺が決めることじゃない」


「そういう言い方、ずるい」


「そうだな」


 亮介は認めた。


 真帆は少しだけ笑い、購入ボタンを押した。


 決済確認の画面が出る。九百八十円。真帆は指紋認証で決済した。派手な音は鳴らない。紙吹雪もない。ただ、画面の端に短く表示された。


 春の外出用上着を登録しました。


 灯の試着表示が、通常表示に変わる。淡かった輪郭が少し濃くなり、袖口の影が落ち着いた。灯は自分の服を見下ろした。


「あかり、これ?」


「うん。灯の服」


「そと?」


「外へ行く時に着ようね」


「まほ、みてる?」


「見てるよ」


 灯はすぐに大喜びしなかった。袖口を見て、裾を見て、小さな手をそこへ持っていく。触れているようで、触れていない。けれど、灯はそのことに不満を言わなかった。


「きれい」


「うん」


「まほ、すき?」


「好き」


「すこし?」


 真帆は少し驚いて、それから笑った。


「少しじゃなくて、好き」


 灯はその言葉を聞いて、ようやく口元をゆるめた。


 亮介は自分のスマホを見た。凪は、さっきの会話のあと少し静かになっている。自分の服を見て、亮介を見る。


「りょうすけ、いまは、これ」


「うん。今はそれ」


「そと、みれる」


「見られる」


 凪は頷いた。


 亮介は、こよりのメニューを開いた。仕事のためでもない。初めてこよりを入れた夜とは違う手つきで、課金項目を見ている。


 教育。

 体験。

 衣服。

 記録。


 それぞれの項目が、前より簡単には閉じられないものに見えた。


 教育は、凪の言葉を増やすかもしれない。

 体験は、灯に犬以外の動物を見せられるかもしれない。

 衣服は、外へ行く日の準備になるかもしれない。

 記録は、忘れてしまう時期の短い声や表情を残せるかもしれない。


 どれも、ただの無駄とは言い切れない。


 亮介は画面を閉じようとして、閉じなかった。


 もし、これらがくだらない課金なら、拒むのは簡単だった。だが実際には違う。欲しくなる場所に置かれていて、しかも欲しくなるだけの理由がある。灯が袖を見る。凪が自分の服を確かめる。真帆が一着だけを選ぶ。その時間は、九百八十円という数字だけでは片づかなかった。


 亮介は、メニューを閉じた。


「買ったら終わりじゃないんだな」


 真帆が言った。


「何が」


「選んでる時から、もう入ってる気がした」


「灯に?」


「私に」


 真帆は自分のスマホを見た。灯は、上着の袖を見ていたが、ときどき真帆の顔を探す。


「まほ、そと、いつ?」


「また休みの日かな」


「やすみ」


「うん」


「これ、きる?」


「着ようね」


 灯は頷いた。


 亮介は、リビングのテーブルの上を見た。現実には、何も増えていない。服は届かない。洗濯物も増えない。タンスも必要ない。九百八十円の支払いだけが、アカウントの中に記録された。


 それでも、真帆のスマホの中で、灯はもうその上着を着ている。


 真帆はしばらく黙っていた。


 それから、灯の画面から目を離さずに言った。


「子どもの服を選ぶ人の気持ち、少しだけ分かった気がする」


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