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こよりの子  作者: 清河逢真


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巣立ちの約束


収録章

第十七章 旅のない旅行

第十八章 違う育ち方

第十九章 巣立つもの

第二十章 こよりの子



第十七章 旅のない旅行


 こよりの園の広場は、まだ閉じていた。


 完全に使えないわけではない。凪と灯は、それぞれの部屋で話せる。家庭内の短い交流も、保護者同席ならできる。ただ、外の広場や見学機能には、薄い灰色の表示がかかっていた。


 安全確認中です。


 再開時期は、あらためてお知らせします。


 それだけだった。


 亮介はローテーブルにスマホを置き、画面を見下ろしていた。凪は白い部屋の床に座り、小さな積み木を二つ並べている。いつものように遊んでいるように見える。けれど、時々、部屋の端の方を見た。


「りょうすけ」


「うん」


「えん、まだ?」


「まだだな」


 凪は少しだけ頷いた。納得したというより、亮介がそう言ったから一度置いた、という感じだった。


「安全確認。みんなが傷つかないように、運営が確認してる」


「あんぜん?」


 凪は積み木から手を離し、顔を上げた。


「なぎ、なにかした?」


 少し前、灯が真帆に向かって「いい子にするから、園へ行けるか」と言ったことを思い出した。凪はそれを直接聞いたわけではない。だが、夫婦の会話の中で、似た不安を拾ったのだろう。


 亮介は答えを遅らせた。


「違う。凪が何かしたわけじゃない」


 テーブルの反対側で、真帆が洗濯物を畳んでいる。真帆のスマホはその横にあり、画面の中の灯は、真帆の手元を見ていた。タオルが重ねられるたび、顔を少し動かす。


「まほ、それ、ふわ?」


「タオル。ふわふわだね」


「ふわ、あかりも?」


「画面の中からは触れないけど、見るのはできるよ」


 灯は少し考えてから、タオルを見つめた。


「ふわ、みる」


 真帆は、畳んだタオルを一枚、スマホのカメラに近づけた。灯は嬉しそうに身を乗り出したが、すぐに真帆の顔を見た。


「まほ、こえ、ちかい」


「近いよ」


 亮介は、こよりのメニューを開いた。


 園の広場が使えない間、家庭内でできる体験の案内がいくつか表示されている。仮想博物館、季節の遠足、世界の朝ごはん、昔の写真を見せる。どれも悪くない。むしろ、よく考えられていた。園の外部交流が止まっている利用者へ、家の中でできることを提示する。課金の項目もあったが、基本利用でできるものも混じっている。


 亮介の指は、「仮想旅行」のところで止まった。


 海辺の街を歩く。


 山の朝を見に行く。


 昔の街道をたどる。


 見出しは短い。派手な宣伝ではない。けれど、画面の中の小さな写真はどれも整っていた。雨も、濡れた靴も、閉まった店も、機嫌の悪い沈黙もなさそうだった。


「旅行パック?」


 真帆が聞いた。


「体験コンテンツだな。課金のものもあるけど、無料のお試しもある」


「見せるの?」


「園が閉じてる間に、外っぽいものを見せるにはいいのかもしれない」


「外っぽいもの」


 真帆はその言葉を繰り返した。


 亮介は画面を見たまま、返事をしなかった。


 凪が反応した。


「そと、ぽい?」


「外に似てる、ってこと」


「ほんとの、そと?」


「本当の外ではない」


「じゃあ、なに?」


 亮介は答えられなかった。


 正確に言えば、答えはいくつもあった。仮想体験。教育コンテンツ。映像と対話による外界学習。だが、どれも凪に渡すには硬すぎた。


 真帆が、畳んだタオルをかごに入れた。


「昔の写真、見せれば?」


「昔の?」


「旅行の写真。あるでしょ。古いスマホに」


 亮介は顔を上げた。


「旅行ってほどのもの、そんなにあったか」


「あるよ。失敗したやつばっかり」


 真帆は立ち上がり、寝室へ向かった。灯が画面の中で追いかけるように顔を向ける。


「まほ?」


「すぐ戻るよ」


「すぐ?」


「うん」


 真帆の足音が廊下へ消えた。


 亮介は、仮想旅行の画面を閉じなかった。凪は画面の端から、亮介のスマホを見上げている。


「りょうすけ、りょこう?」


「旅行は、遠くへ行くこと」


「なぎ、いく?」


「今日は行かない」


「じゃあ、みる?」


「たぶん、見る」


「たぶん」


 凪はその言葉を小さく返した。


 真帆が戻ってきた。手には、古いスマホがあった。今使っているものより少し厚く、ケースの角が擦れている。


「まだ充電できるかな」


 真帆はケーブルを差し、電源を長押しした。少し時間がかかってから、画面に古いロゴが出た。亮介はそれを見て、妙な気分になった。昔の機械は、ただの機械なのに、起動に時間がかかるだけで過去のものに見える。


 真帆は写真フォルダを開いた。


 最初に出たのは、雨でぼやけた駅前だった。


 看板も人の顔も、細かい字は読み取れない。傘の端に水滴がつき、画面の右側に亮介の指が少し入り込んでいる。駅前のロータリーらしい場所に、濡れた舗装が光っていた。


「これ、どこだっけ」


 真帆が言った。


「結婚してすぐの時だろ。電車を一本逃したやつ」


「そうだ。あと、お昼を食べる予定の店が閉まってた」


「定休日を見落とした」


「亮介が」


「二人で見落とした」


「私は見てない。亮介が調べてた」


 真帆の言い方は責めていなかった。けれど、昔の小さな不満の形だけは残っていた。


 凪が、画面の中で顔を上げた。


「しらべた?」


「うん。調べた」


「でも、しまった?」


「閉まってた」


「しらべたのに?」


 亮介は言葉に詰まった。


 真帆が少し笑った。


「そう。調べたのに閉まってた」


 凪はしばらく考えるように、白い床を見た。


「りょうすけ、まちがえた?」


「まあ、間違えたな」


「まよった?」


「迷ったのは、そのあとだ」


 真帆が、次の写真を開いた。


 地図アプリのスクリーンショットだった。青い線が曲がり、途中で変な方向へ折れている。現在地の丸だけが、道から少し外れている。


 凪は画面の中で身を乗り出した。


「これ、なに?」


「地図」


「ちず」


「行き方を見るもの」


「ここ、あってる?」


 凪は、地図の文字ではなく、青い線の曲がりを見ているようだった。


 亮介は説明しようとして、口を止めた。乗り換え、路線、駅からの距離。話そうと思えば、いくらでも話せる。だが、凪が見ているのはそこではない。


「合ってなかった」


「だめ?」


「だめではない。でも、困った」


「りょうすけ、こまった?」


「困った」


「まほも?」


 真帆は、古いスマホの画面を見たまま言った。


「困ったよ。寒かったし、靴が濡れてた」


 灯が反応した。


「まほ、さむい?」


「昔ね」


「むかし?」


「うん。ずっと前」


 灯は、その言葉をゆっくり繰り返した。


「まほの、むかし」


 真帆の指が写真の上で止まった。


 亮介は、それを見た。仮想旅行の画面は、まだ自分のスマホの裏側に隠れている。きれいな海も、山の朝も、昔の街道も、そこにはある。


 だが、凪はいま、閉まった店と迷った地図を見ている。


「りょうすけ」


「うん」


「りょうすけ、まよったの?」



 真帆は、写真を一枚飛ばそうとした。


 親指が画面の上を滑る前に、灯が声を出した。


「まほ、いまの?」


「今の?」


「すぐ、いった」


 真帆は指を止めた。


 古いスマホには、小さな部屋の写真が出ていた。安い宿の一室だった。ベッドが二つぎりぎりに置かれ、通路は狭い。窓際に小さなテーブルがあり、その上にコンビニの袋と紙コップが置かれている。カーテンは半分だけ閉まり、外の光はほとんど入っていない。


 いい写真ではない。


 人が写っているわけでもない。きれいな景色でもない。旅行らしいものは何もない。真帆は、だから飛ばそうとした。


「これ、見なくていいかなって」


「どうして」


 亮介が聞いた。


「暗いし、狭いし。楽しい写真じゃない」


「でも、覚えてるだろ」


 真帆は返事をしなかった。


 覚えている。


 その部屋に入った時の、湿った壁紙の匂い。暖房が強すぎて、窓を少し開けたこと。夕飯に行く予定だった店が閉まって、コンビニでおにぎりと温かいスープを買ったこと。亮介がスマホで翌日の予定を調べ続け、真帆が「もういい」と言ったこと。


 もういい。


 あの時は、旅行そのものに言ったわけではない。亮介に言ったわけでもない。けれど、亮介にはそう聞こえたはずだった。


 灯は、真帆の声を待っていた。


「まほ?」


「この部屋ね、狭かったの」


「せまい?」


「うん。二人で歩くと、ぶつかりそうなくらい」


「ぶつかる?」


「そう。あと、雨で靴が濡れてて、気持ち悪かった」


「くつ、ぬれた」


「うん」


 灯は、自分の足元を見た。画面の中の灯の靴は濡れていない。いつもの白い床の上に、小さく揃っている。


「まほ、いた?」


「いたよ」


「りょうすけも?」


「いた」


 亮介が答えた。


 灯は、写真の中の狭い部屋を見ていた。正確には、真帆がスマホのカメラに近づけた古いスマホの画面を見ている。灯にとって、その部屋は写真の中にしかない。匂いも、湿り気も、靴の気持ち悪さも、本当には届かない。


 だから真帆は、言葉で渡している。


「このあと、私、ちょっと怒った」


 亮介が真帆を見た。


「ちょっとか?」


「そこは、ちょっとでいいでしょ」


「まあ」


 凪が顔を上げた。


「まほ、怒った?」


「怒ったというか、嫌になった」


 真帆は言ってから止まった。


 その言葉を、今の灯にそのまま渡していいのか分からなかった。


 嘘に変えてもいけない。けれど、強すぎる形で残したくもなかった。


「疲れてたの」


 真帆は言い直した。


「くつ、ぬれて、さむくて、店が閉まってて、部屋が狭くて。もう予定はいいから、休みたいって思った」


「まほ、いい子、した?」


 灯の声は小さかった。


 真帆の背中が少し硬くなった。


 亮介は口を開きかけたが、何も言わなかった。これは亮介が説明することではない。真帆自身が答えるべきことだった。


「してないと思う」


「いい子、ない?」


「うん。あの時は、いい子じゃなかった」


 灯は不安そうに真帆を見た。


「まほ、だめ?」


「だめじゃない」


 真帆は、すぐに答えた。


「疲れたら、黙ったり、機嫌が悪くなったりすることもある」


「まほも?」


「私も」


 灯はその言葉を受け取りきれないように、袖を指でつまんだ。真帆が選んだ春の外出服。何度も見てきた袖だった。


「まほ、こまった?」


「困った」


「りょうすけ、こまった?」


「困った」


 亮介が答えた。


 凪は地図の写真から離れられないようだった。古いスマホの画面を、亮介が自分のスマホのカメラに向けると、凪は青い線をじっと見た。


「こっち、いった?」


「その線どおりには行けなかった」


「じゃあ、どこ?」


「道を間違えて、一本向こうの通りに出た」


「いっぽん?」


 亮介は指で空中に線を描きかけて、やめた。


「遠回りした」


「とおまわり」


「そう」


「とおまわり、だめ?」


「だめではない」


「でも、まほ、さむい」


 亮介は黙った。


 凪は、地図の正しさではなく、遠回りしたことで真帆が寒かったことをつないだ。亮介が説明したわけではない。写真と、真帆の言葉と、さっきの会話が凪の中でつながった。


 真帆は、次の写真を開いた。


 駅前の屋根の下で、コンビニの袋を持った亮介の手だけが写っている。顔はない。袋の口から、白いスープの容器とおにぎりが少し見えている。たぶん真帆が撮ったのだ。


 写真だけでは分からないが、真帆は、その時だけ袋の中に残っていた温かさを覚えていた。


「これ、私が撮ったんだ」


「覚えてるのか」


「覚えてる。亮介が『せめて温かいものにしよう』って言った」


「そんなこと言ったか」


「言ったよ」


「覚えてない」


「私は覚えてる」


 真帆は、自分の声が少し柔らかくなったのを感じた。


 きれいな記憶ではない。あの日に戻りたいわけでもない。だが、コンビニの袋に残っていた温かさだけは、今でもはっきり覚えている。


 灯が写真を見ながら言った。


「あったかい?」


「うん。温かかった」


「まほ、あったかい?」


「少しね」


「りょうすけ、あったかい、した?」


 真帆は亮介を見た。


 亮介は、少しだけ目を逸らした。


「たぶん」


 真帆は笑った。


「たぶんじゃないよ。あれは助かった」


 凪がすぐに拾った。


「たすかった?」


「うん。助かった」


「まほ、こまって、りょうすけ、あったかい?」


「そうだね」


 真帆は、そう言ってから、胸の奥が少し静かになるのを感じた。


 灯は、写真の中に真帆が写っていないのに、真帆を探すように画面の端を見ていた。


「まほのむかし、あめ?」


 真帆は、すぐには返事ができなかった。



 亮介は、古いスマホの写真を自分のパソコンへ送ろうとして、やめた。


 仕事部屋の机には、ノートパソコンが開いている。画面には、こよりの保護者向けメニューが表示されていた。園の広場が制限されている間、保護者同士が短いメモリーを共有できる機能が、一時的に目立つ位置へ出ている。


 過去の写真をみせる。


 その見出しを見て、亮介は少し眉を寄せた。


 うまい。うますぎる。園へ行けないこよりの子たちに、家庭内の記憶を見せる。体験パックへ誘導しすぎず、保護者の昔話を促す。倫理的にも、商売としても、よくできている。


 そう思った時点で、亮介は自分がまた構造の方へ逃げたことに気づいた。


 凪はスマホの中で、さっき見た地図の線を覚えているらしく、積み木を細く並べていた。まっすぐではない。途中で曲がり、また戻る。


「それ、道?」


 亮介が聞いた。


「とおまわり」


「遠回りか」


「まほ、さむい」


「そうだな」


 凪は積み木を一つ動かした。


「りょうすけ、あったかい、した」


「そこも覚えたのか」


「おぼえた?」


「うん」


 凪は、その言葉自体をまだうまく持てないようだった。けれど、遠回りと、寒さと、温かいものだけはつながっている。


 亮介は、保護者向けメニューを閉じようとした。


 画面下に、保護者限定の共有欄が残っていた。


 そこに、「古い時計」という表示名の投稿が一つだけ上がっていた。公開範囲は、以前やり取りのあった保護者に限られている。亮介には、それが誰なのか分からなかった。


 ただ、リビングに戻って真帆へ画面を向けると、真帆の指が、その表示名のところで一度だけ止まった。


「これ」


 亮介が言った。


「限定公開みたいだ」


 真帆は短くうなずいた。


 添えられていたのは、駅のホームの写真と、短い一文だけだった。


 昔行けなかった場所の写真を、澪に一枚だけ見せました。


 駅のホームだった。古い写真をさらに撮ったものらしく、少し斜めになっている。人の顔は写っていない。ホームの端と、曇った空と、ベンチの背だけがある。


 亮介は、投稿文を凪には読ませなかった。


 代わりに、写真だけをカメラへ向けた。


「これ、駅の写真だって」


 凪は写真を見た。


「えき?」


「うん。電車を待つ場所」


「ここ、いった?」


「行けなかった場所だって」


「いけなかった?」


「うん」


「だめ?」


「だめじゃない。行くはずだったけど、行けなかった」


 凪は、白い床に置いた積み木を見た。


「とおまわり?」


「遠回りでもない。行けなかった」


「じゃあ、どこ?」


 亮介は答えられなかった。


 その人が誰とそこへ行くはずだったのか、亮介は知らない。知っていたとしても、凪に渡す言葉ではなかった。写真の中のホームは静かで、そこに行けなかったという事実だけが残っている。


 亮介は、メモを開きかけた。


 未達成記憶。AI児への共有。保護者限定投稿。


 そこまで頭の中で言葉が組み上がって、手が止まった。


 違う。


 それでは、「古い時計」という誰かの記憶を素材にしてしまう。


 亮介はメモアプリを閉じた。


「りょうすけ?」


「何でもない」


「なんでも、ない?」


「うん。今のは、書かない」


「かかない?」


「書かない」


 凪はその言葉を確かめるように、小さく繰り返した。


「かかない」


 真帆が、自分のスマホを見て言った。


「マリアの投稿もある」


 亮介は、真帆の隣へ少し寄った。


 真帆のスマホには、マリアが限定公開した短い音声メッセージと写真が表示されていた。写真は、台所のような場所だった。明るい色の布がかかったテーブルと、壁際に置かれた小さな飾り。大きな祭りや名所ではない。誰かの家の一角だった。


 真帆は再生ボタンを押す前に、灯を見た。


「聞く?」


「まほ、こえ?」


「これは、マリアの声」


「まりあ」


 灯は、その名前を覚えていた。ルカと一緒に出会った、遠い場所にいる保護者。


 音声が流れた。


 自動翻訳の音声ではなく、マリア本人の声の後に、日本語の短い翻訳が添えられていた。


「ルカには、市場より、母の台所の音を話しました。旅行ではありません。でも、私が小さい時に、遠くへ行く前の朝は、いつもここから始まりました」


 それだけだった。


 真帆は音声を止めた。


 灯は写真を見ていた。色のある布。窓から入る光。テーブルの上の皿。意味は分からないはずだったが、明るさには反応した。


「きれい」


「うん」


「まりあの、むかし?」


「そうだね。マリアの昔」


 凪も、亮介のスマホ越しに写真を見ていた。


「りょこう、ない?」


「ない。家の中の写真だな」


「でも、むかし?」


「そう」


「じゃあ、りょこう?」


 亮介は言いかけた。


 旅行ではない。けれど、ルカには旅の始まりとして渡されている。市場より、名所より、台所の音。遠くへ行く前の朝。


 凪にどう説明するかを探して、亮介は言葉を止めた。


「これは、旅行の説明じゃなくて……」


「りょうすけ?」


「昔の話だ」


 凪は写真を見たまま、少しだけ頷いた。


「むかし、みる」



 夜が深くなるころ、古いスマホの充電は半分ほど減っていた。


 真帆は、もう写真を見るのをやめようと思った。楽しい時間だったわけではない。むしろ、思っていたより疲れた。旅行の写真を見せただけなのに、古い失敗や、小さな苛立ちや、言い過ぎなかった言葉まで、一緒に戻ってきた。


 ローテーブルの上には、二台のスマホと古いスマホが並んでいる。


 凪は、白い部屋の床に積み木で道を作っていた。まっすぐではない。途中で曲がり、少し戻り、最後に小さな四角を置いている。


「それ、何?」


 亮介が聞いた。


「しまった、みせ」


「閉まった店か」


「ここ、いけない」


「うん。行けなかった」


「こっち、とおまわり」


「そうだな」


「まほ、さむい」


 真帆は少し笑った。


「そこまで残ったんだ」


 凪は、真帆の声の方を見た。


「まほ、さむい、だめ?」


「だめじゃないよ」


「じゃあ、なんで、りょうすけ、こまった?」


 亮介が黙った。


 真帆は、答えを渡しすぎないように少し待った。亮介が答えるかと思ったが、亮介は古いスマホの黒くなりかけた画面を見ていた。


「自分がちゃんと調べたつもりだったからだな」


 亮介は言った。


「ちゃんと、でも、しまった?」


「そう」


「ちゃんと、だめ?」


「ちゃんとでも、間違える」


 凪はその言葉をすぐには返さなかった。


 白い床の上で、閉まった店の四角を少しだけ横へ動かす。


「じゃあ、まよっても、いく?」


「行くこともある」


「いかないことも?」


「ある」


「りょうすけ、わからない?」


「分からないこともある」


 凪は、その答えを聞いて、亮介を見た。


「あってる?」


 亮介は一瞬、いつものように頷きかけた。けれど、途中で止まった。


「分からないままでも、いい時がある」


 凪は首を傾けた。


「あってる、ない?」


「ない時もある」


 凪は困ったように積み木を見た。けれど、泣くわけでも、消すわけでもなかった。閉まった店の四角を、道の最後に置いたままにした。


 灯は、真帆の画面の中で、袖を触っていた。今日は何度もそこを触る。真帆は、その癖が少し気になっていた。灯が不安な時に袖を触るのか、それとも考えているだけなのかは分からない。


「まほ」


「なあに」


「あめ、あった?」


「写真の時?」


「うん」


「あったよ。強くはないけど、ずっと降ってた」


「ずっと?」


「うん。傘を閉じたり開いたりして、面倒だった」


「めんどう?」


「ちょっと疲れること」


「まほ、つかれた」


「疲れた」


「りょうすけも?」


「たぶん疲れてた」


 亮介が横から言った。


「たぶんじゃないよ」


 真帆が返す。


 亮介は小さく笑った。


「疲れてた」


 灯はそのやり取りを見ていた。


「まほ、りょうすけ、けんか?」


 真帆の指が止まった。


 喧嘩。


 そこまで大きなものではなかった。大声を出したわけではない。言い合いになったわけでもない。けれど、灯には、雨、寒さ、狭い部屋、もういい、という言葉の端がつながって、そう見えたのかもしれない。


「少し、機嫌が悪かった」


「けんか、だめ?」


「だめじゃない。けど、疲れる」


「まほ、こまる?」


「困った」


「でも、あったかい、あった」


「うん。温かいスープがあった」


「りょうすけ、もってた」


「そう。袋を持ってた」


 灯は、写真には写っていない真帆の場所を探すように、画面の外を見た。


「まほ、どこ?」


「その写真には写ってない」


「いない?」


「写ってないだけ。いたよ」


「まほ、いた」


「うん。いた」


 灯は安心したように、袖から手を離した。


 真帆は、こよりのメモリー登録画面を開いた。古い写真をそのまま登録するかどうかを聞かれている。写真を見せた時間、会話の一部、凪と灯の反応が、家庭内のメモリーとしてまとめられていた。


 タグを入力してください。


 真帆は入力欄を見た。


 雨の旅行。


 閉まった店。


 昔の写真。


 いくつか浮かんだが、どれも違った。


「何て残す?」


 亮介が聞いた。


「分からない」


「旅行ではないよな。今日、どこにも行ってない」


「でも、見せた」


「見せただけだろ」


「話した」


 亮介は黙った。


 凪は、二人の会話を聞いていた。


「りょこう、ない?」


「ない」


 亮介が答える。


「でも、あめ、ある」


 灯が言った。


 凪が続けた。


「みせ、しまった」


「まほ、いた」


「りょうすけ、まよった」


「すーぷ、あったかい」


 二人の言葉が、写真の順番とは違う形で並んでいく。


 真帆は入力欄に、ゆっくり打った。


 旅のない旅行。


 真帆は決定を押した。


「それなら、そうか」


 亮介は、少し黙った。


「でも、話した」


「うん」


「旅行ではないよな」


 亮介がそれを見た。


 登録が完了しました。


 画面に短く表示される。凪と灯はその文字を読まない。ただ、大人が黙ったことには気づいた。


「まほ?」


 灯が呼ぶ。


「いるよ」


「まほのむかし、のこった?」


 真帆は画面を見た。


「少しだけね」


「少し」


「うん」


 灯は、写真の中にはいなかった。雨の駅前にも、閉まった店にも、狭い宿にも、コンビニの袋にもいなかった。真帆が疲れて「もういい」と思った夜にも、灯はいなかった。


 いなかった。


 それは確かなはずだった。


 それでも、今日、真帆が話した。亮介も話した。写真を見せた。雨のこと、靴のこと、温かいスープのことを言葉にした。灯はそれを聞いた。凪も聞いた。


 自分たちだけのものだったはずの失敗が、少しだけ二人の画面に置かれてしまった。


 灯は、真帆を見上げた。


「まほのむかし、あかりも、すこしいた?」



第十八章 違う育ち方



 翌朝、凪は閉まった店を動かしていた。


 亮介のスマホの中で、小さな四角い積み木が白い床の端に置かれている。その手前には、細い積み木が曲がりながら並んでいた。昨日、凪が作った遠回りの道だった。


 亮介は仕事部屋の机に肘をつき、画面を見ていた。窓の外は曇っている。雨は降っていないが、光が薄い。古いスマホは充電器につながれたまま、机の端に置かれている。画面は暗い。


「そこ、店か」


 亮介が聞くと、凪は四角い積み木を両手で持ち上げた。


「しまった、みせ」


「昨日の?」


「うん」


「そこに置くんだ」


 凪はうなずくかわりに、四角い積み木を道の最後から少し横へずらした。


「こっち」


「どうして?」


「ここ、いけない」


「閉まってたから?」


「うん。いけない」


 凪は、閉まった店を道の終わりから外した。その代わりに、丸い積み木を一つ置く。


「それは?」


「わからない」


「分からないものを置くのか」


「うん」


 亮介は少し笑いかけた。だが、凪の顔が真剣なので、その笑いを引っ込めた。


 凪は、丸い積み木を指で押した。道の先、閉まった店の横を通り過ぎるように動かす。


「こっち、いく」


「そこには何があるんだ」


「わからない」


「分からないのに行くのか」


 凪は顔を上げた。


「りょうすけ、わからないこともある、いった」


 亮介は息を止めた。


 昨日、自分が言った言葉だった。分からないままでもいい時がある。そう言った。凪は、それを慰めとして受け取ったのではなく、道を変えるための言葉として使っていた。


「言ったな」


「じゃあ、こっち」


 凪は丸い積み木をまた進める。


「でも、その先は地図にない」


「ちず、ない」


「うん」


「だめ?」


「だめじゃない」


 亮介はすぐに答えた。だが、次の言葉が出なかった。


 凪は、亮介の沈黙を見て、手を止めた。


「あってる?」


 いつもの問いだった。けれど、亮介が答える前に、凪は自分で首をかしげた。


「あってる、じゃない?」


「何が」


「これ、なぎの、みち?」


 亮介は画面の中の積み木を見た。


 昨日までなら、凪は亮介の説明をなぞっていた。閉まった店。遠回り。寒かった真帆。温かいスープ。言葉を拾い、順番を確認し、亮介の顔を見ていた。


 いまは違う。


 閉まった店を避けた先に、凪は分からないものを置いた。昨日の旅行にはなかった場所だ。亮介の記憶にも、真帆の記憶にもない。


「凪の道か」


「うん」


「俺が行った道じゃないな」


「りょうすけの、ちがう」


「そうだな」


「じゃあ、だめ?」


「だめじゃない」


 亮介は、そう言いながら、自分の中に小さな引っかかりがあるのを感じた。


 喜ぶべきことだ。凪が、亮介の説明をただなぞらず、自分の道を作っている。保護者の記憶を受け取って、そのまま保持するのではなく、違う形に変えている。育っている、と言えばたぶんそうなのだろう。


 だが、亮介が見せた道ではない。


 亮介の失敗から始まったのに、凪は亮介の失敗を越えて、自分の道を作り始めている。


「りょうすけ」


「うん」


「ぼくの道、りょうすけ、しらない?」


「知らない」


「しらないの、だめ?」


「だめじゃない」


 凪はその答えを聞いて、また丸い積み木を動かした。


「じゃあ、ぼく、しる」


 亮介は、返事ができなかった。


 スマホの横に置いたメモアプリが、通知で一度だけ光った。仕事の連絡だった。亮介は見なかった。


 凪は、閉まった店の横に、丸い積み木を置いた。


「ここ」


「そこに何があるんだ」


 凪は少し考えた。


「まだ、なまえ、ない」


「名前がない場所か」


「うん。なぎ、あとで、つける」


 亮介は、椅子の背にもたれた。


 名前をつける。


 それは、亮介が凪にしたことだった。候補の中から凪を選び、呼び名を決め、最初に反応しやすいものを選んだ。いま凪は、亮介の道の先に、自分で名前のない場所を置いている。


「りょうすけ」


「何」


「ここ、ぼくの?」


 亮介はすぐに答えなかった。


 自分のものだと言っていいのか。こよりの中の小さな積み木の場所を、凪のものだと呼んでいいのか。所有とは違う。けれど、凪が自分で置いた場所ではある。


「凪が置いた場所だ」


「ぼくの?」


「そう言ってもいいと思う」


 凪は少しだけ嬉しそうに見えた。大きく笑うわけではない。丸い積み木の横へ、もう一つ小さな三角を置く。


「じゃあ、ここ、まだ、ない」


「まだない?」


「うん。まだ、ある」


 言葉は少し混ざっていた。


 けれど亮介には、分かった気がした。


 まだ名前がない。まだ分からない。けれど、ある。


 凪はその場所を見ている。


 亮介は、机の端の古いスマホを見た。昨日の雨の駅前は、もう画面には出ていない。閉まった店も、遠回りも、狭い部屋も、いまは凪の白い部屋の中で違う形になっている。


 見せたものは、見せたまま残らない。


 それが、少し誇らしく、少し寂しかった。



 真帆が洗濯物を干そうとした時、窓に小さな雨粒がついていることに気づいた。


 降るほどではない。空気の中に水が混じって、窓だけが先に濡れたような雨だった。ベランダへ出ると、手すりが薄く湿っていた。外に干すのはやめて、真帆は室内用の物干しを広げた。


 リビングの床に、洗濯かごを置く。真帆のスマホはローテーブルに立ててある。画面の中の灯は、窓の方を見ていた。


「まほ」


「なあに」


「あめ?」


「少しだけね」


「あめ、きた?」


「来たっていうか、降ってる」


「ふってる」


 灯は、窓を見た。画面の中からは、本当の雨粒には触れない。けれど、真帆がスマホを持ち上げ、カメラを窓へ向けると、灯は白い部屋の端から身を乗り出した。


「きれい」


「雨が?」


「うん。きれい」


 真帆は、少し意外だった。


「昨日の雨は、寒かったよ」


「きのう?」


「昔の写真の話。靴が濡れて、疲れて、困った」


「まほ、こまった」


「そう」


 真帆はタオルを物干しにかけながら言った。


「雨の日って、あんまりいい気分じゃない時もあるんだよ」


 灯は窓を見たまま、返事をしなかった。


「灯?」


「あかり、これ、すき」


 真帆は手を止めた。


 灯は雨粒のついた窓を見ている。昨日の写真の雨ではない。狭い宿へ向かう途中の雨でもない。真帆が疲れて「もういい」と思った夜の雨でもない。


 いま、窓についている小さな雨だった。


「この雨?」


「うん」


「寒くない?」


「あかり、さむくない」


「靴も濡れないしね」


「くつ、ぬれない」


 灯は自分の足元を見てから、また窓を見た。


「まほは、こまった」


「うん。昔はね」


「あかりは、きれい」


 真帆は、タオルを持ったまま黙った。


 その言い方は、真帆を慰めているのではなかった。真帆と違う感じ方を、灯がただ置いただけだった。


 昨日の灯なら、真帆が困ったと言えば、一緒に困ろうとしたかもしれない。まほ、だめ? まほ、いい子? そういうふうに、真帆の気持ちを先に探したはずだった。


 いま灯は、雨を見て「きれい」と言っている。


 真帆が困った雨と、灯が好きな雨は、同じではない。


「そうだね」


 真帆はゆっくり言った。


「今の雨は、きれいだね」


 灯は少し嬉しそうにした。


「まほも、すき?」


 真帆は、すぐには答えなかった。


 好きかどうかではない。雨を見るたびに、昨日見せた昔の写真を思い出すわけでもない。ただ、灯がきれいと言った雨を、自分もきれいだと言いたい気持ちはあった。


 それは灯に合わせることなのか、自分もそう思ったことなのか、分からなかった。


「嫌いではないよ」


 真帆が答えると、灯は少し首を傾けた。


「きらい、ない?」


「うん」


「すき、ない?」


「少し、分からない」


 灯は、その言葉を聞いて、窓をもう一度見た。


「あかり、すき」


「うん。灯は好きなんだね」


「あかりの、あめ」


 真帆の胸の奥が、少しだけ動いた。


 灯の雨。


 それは、真帆の昔の雨ではない。真帆が話して渡した記憶でもない。いま、灯が見て、灯が好きだと言った雨だった。


「写真、撮る?」


 真帆は聞いた。


「しゃしん?」


「この雨。残しておく?」


 灯は少し考えた。


「まほ、いる?」


「いるよ」


「まほも、うつる?」


「窓だけ撮るつもりだったけど」


「まほ、こえ、いる」


 真帆は、スマホを少し下げた。


「声も?」


「うん。まほ、いる、あめ」


 真帆は、録画に切り替えた。窓の雨粒と、室内の物干しと、少し映り込む自分の手。きれいな映像ではない。洗濯物が半分だけかかっている。部屋も片づききっていない。けれど、灯は窓を見ていた。


「灯、今の雨、好き?」


「あかり、すき」


「どこが?」


「ちいさい。つく。すぐ、きえる」


 真帆は録画を止めなかった。


「すぐ消えるのがいいの?」


「うん。また、つく」


 灯は窓を見ていた。


 真帆は、昨日の自分が灯に渡した雨を思い出した。寒い。濡れる。疲れる。困る。そういう雨だった。灯はそこから、真帆の昔を受け取った。けれど、今日の灯は、窓につく小さな雨を見ている。


 同じ雨ではない。


 同じにしなくていいのだと、真帆は思った。


 けれど、そのあとで少しだけ寂しくなった。


 灯が自分から離れたわけではない。画面の中で、まだ真帆の声を待っている。けれど、灯はもう、真帆が困ったものを一緒に困るだけの子ではなくなっている。


 録画を止めると、こよりの画面に短い確認が出た。


 メモリーに登録しますか。


 真帆は、まだ押さなかった。


「まほ?」


「どういう名前にしようかなって」


「なまえ?」


「うん。今日の雨に」


 灯は少し考えた。


「あかりの、あめ」


 真帆は画面を見た。


 それは、真帆の昔ではなかった。


 灯が自分でつけた、今日の名前だった。



 夕方、亮介と真帆は二台のスマホをローテーブルに並べた。


 外の雨は止んでいた。窓には乾きかけの跡だけが残っている。室内干しのタオルはまだ少し湿っていた。テレビはつけていない。代わりに、二つの画面の中で、凪と灯がそれぞれ小さなものを持っていた。


 凪は、積み木で作った道を持っている。実際には持てないが、画面の中では、細い積み木を指でなぞっていた。灯は、さっき撮った雨のメモリーを見ている。窓についた小さな雨粒が、短い動画の中で光っている。


「見せ合えるのか」


 亮介が聞いた。


「家庭内のメモリーなら、短く共有できるみたい」


 真帆が答えた。


「凪と灯に?」


「二人だけ。外には出さない」


 亮介はうなずいた。


 真帆は、まず灯の雨を凪の画面へ送った。送ったと言っても、外部投稿ではない。二台のスマホの間で、家庭内の小さなメモリーを見せるだけだった。


 凪の画面に、窓の雨粒が映る。


 凪は、それをじっと見た。


「これ、なに?」


「今日の雨」


 亮介が答えた。


「あめ」


 灯が少し得意そうに言った。


「あかりの、あめ」


 凪は画面の中の雨を見た。


「まほ、さむい?」


 灯は首を振った。


「まほ、へや。さむくない」


「くつ、ぬれない?」


「ぬれない」


「じゃあ、こまらない?」


 灯は少し考えた。


「こまらない。きれい」


 凪はその言葉を受け取るように、少し黙った。


「同じ雨でも、違うんだな」


 亮介が言った。


 真帆は、灯を見ていた。


「うん」


 凪は、画面の中で自分の積み木の道を見た。


「りょうすけの、あめ、まほ、こまる」


「それは昔の雨だな」


「きょうの、あめ、あかり、すき」


「そう」


 凪はまた考えた。


「じゃあ、あめ、ひとつ、ない?」


 亮介は返事を探した。


「雨は一つだけど、覚え方が違うのかもしれない」


「おぼえかた」


「凪が道を作ったみたいに、灯も自分の雨を持ったってことかな」


 凪は、画面の中で灯を見た。


「あかりの、あめ」


「うん」


 灯はうなずいた。


「なぎの、みち?」


 凪は、少し驚いたように自分の積み木を見た。


「なぎの、みち」


 灯はそれを聞いて、嬉しそうにした。


「みたい」


「見る?」


「うん」


 亮介は、凪の積み木の道を灯へ見せた。


 白い床の上に、細い積み木が並んでいる。途中で曲がり、閉まった店の四角を避け、名前のない丸い場所へ向かっている。灯はそれを見て、すぐには何も言わなかった。


「どう?」


 真帆が聞きかけて、止まった。


 答えを急がせる必要はなかった。


 灯は、凪の道を見ている。


「ここ、どこ?」


 灯が聞いた。


 凪は少し困ったように亮介を見た。けれど、すぐに画面へ戻った。


「まだ、なまえ、ない」


「ない?」


「うん。あとで、つける」


 灯は、それを聞いて微笑むように顔をゆるめた。


「きれい」


 凪は目を丸くした。


「みち、きれい?」


「うん。まがってる」


「まがってる、きれい?」


「うん」


 凪は、自分の道をもう一度見た。


 亮介は、その反応に少し驚いた。


 凪が作った道を、亮介は「正しいか」「どこへ行くか」で見ていた。閉まった店を避けた意味。名前のない場所の意味。自分の説明からどこがずれたか。そういうふうに見ていた。


 灯は、曲がっているからきれいだと言った。


 凪は、灯の言葉を受けて、積み木を一本だけ少し斜めに置き直した。


「もっと、まがる」


 亮介が思わず言った。


「そこまで曲げると、道にならないんじゃないか」


 凪は手を止めた。


 真帆が、亮介を見た。


 亮介も、自分で気づいた。


 まただ。


 道らしく見えるかどうかを、先に言った。凪が作り始めたものを、自分の知っている道へ戻そうとした。


 凪は、斜めにした積み木を見ている。


「あってる?」


 問いは出た。けれど、声が前より少し小さかった。


 亮介はすぐに答えなかった。


 灯が先に言った。


「なぎの、みち」


 凪は灯を見た。


「なぎの?」


「うん。なぎの」


 凪は、亮介ではなく灯を見ていた。


 亮介は、自分の中に小さな痛みが出るのを感じた。


 凪が亮介に答えを求めなかったわけではない。まだ見る。まだ確認する。けれど、いま凪は、灯の言葉を受け取った。


 保護者だけが、凪の世界の基準ではなくなっている。


 それは、いいことのはずだった。


 いいことのはずなのに、亮介は一瞬、取り残されたように感じた。


「凪」


「うん」


「さっきの、俺が言いすぎた」


「いいすぎた?」


「道みたいに見えなくてもいい。凪が置きたいなら、それでいい」


 凪は亮介を見た。


「あってる?」


 亮介は少しだけ笑った。


「分からない。けど、見たい」


 凪は、その答えをしばらく見ていた。


「みたい?」


「うん。凪の道を見たい」


 凪は、斜めに置いた積み木を戻さなかった。


 灯はその道を見て、もう一度言った。


「まがってる。きれい」


 真帆は、灯の横顔を見ていた。


 自分の昔の雨ではなく、灯の今日の雨。亮介の遠回りではなく、凪の曲がった道。二人は、夫婦が渡したものを、そのまま返してこない。


 それが嬉しかった。


 そして、少しだけ寂しかった。



 夜、真帆は灯のメモリー名をまだ決められずにいた。


 画面には、昼に撮った雨の短い動画が出ている。窓についた小さな雨粒、室内干しのタオル、少し映った真帆の手。音には、真帆の声と、灯の「あかり、すき」が入っていた。


 メモリーに登録しますか。


 タグを入力してください。


 真帆は入力欄に指を置いたまま、動かなかった。


 ローテーブルの向こうでは、亮介が凪の画面を見ている。凪は今日作った曲がった道に、まだ名前をつけていない。何度か候補を出しかけて、そのたびにやめている。


「まだない」


 凪が言った。


「急がなくていい」


 亮介が答える。


「りょうすけ、つけない?」


「つけない」


「どうして?」


「凪の道だから」


 凪は、その答えを聞いて、少し黙った。


「なぎ、あとで」


「うん。あとで」


 亮介の声は、いつもより少し低かった。寂しさを隠しているようにも、誇らしさを抑えているようにも聞こえた。


 真帆は、自分の画面へ視線を戻した。


「あかりの雨」


 そう入れかけて、手を止める。


 それだけでいいはずだった。灯が自分で言った名前だ。真帆が勝手に変える必要はない。けれど、その名前だけにしてしまうと、昨日の「まほのむかし」と切り離される気がした。


 灯が、真帆の昔に触れた日。


 灯が、自分の雨を見つけた日。


 その二つを、真帆は同じ流れとして残したかった。


「あかり」


「なあに」


「この雨、昨日の写真の雨と一緒に残してもいい?」


 灯は、画面の中で顔を上げた。


「いっしょ?」


「うん。まほの昔の雨と、今日の灯の雨。つながってる気がするから」


 灯は窓の方を見た。もう雨は降っていない。夜の窓には、部屋の明かりが映っているだけだった。


「あかりの、あめ」


「うん。灯の雨」


「まほの、むかし、ちがう」


 真帆は指を止めた。


「違うね」


「あかり、きょう」


「うん。今日」


「まほ、むかし」


「そうだね」


 真帆は、画面の中の灯を見た。


 灯は怒っているわけではなかった。泣きそうでもない。真帆を困らせようとしているわけでもない。ただ、違うものを違うと言おうとしている。


 それだけなのに、真帆の胸の奥が少し痛んだ。


「でも、一緒にしておいたら、忘れにくいかもしれないよ」


 言ってから、真帆は自分で気づいた。


 これは灯のための提案ではない。


 自分が、つなげておきたいだけだ。自分の昔に、灯の今日が触れていてほしい。昨日の言葉が、自分だけの痛みではなくなったように、今日の雨も、自分の過去と同じ場所へ置いておきたい。


 灯は、真帆を見ていた。


「まほ、こまる?」


「困ってはいないよ」


「まほ、さみしい?」


 真帆は返事をしなかった。


 亮介がこちらを見た。何か言いかけたが、言わなかった。


 灯は袖を少し触った。けれど、すぐに手を離した。


「あかりの、あめ」


「うん」


「まほの、むかし、ちがう」


「うん」


 真帆は、入力欄に入れかけた文字を消した。


 あかりの雨。


 そう打とうとしたところで、また少し迷った。


「じゃあ、灯の雨だけで残そうか」


 灯は画面の中で、少しだけ首を傾けた。


「あかりの、あめ」


「うん。そうする」


 真帆は入力しようとした。


 けれど、まだどこかで、昨日の雨とつなげたい気持ちが残っていた。自分でも往生際が悪いと思った。灯がはっきり分けようとしているのに、真帆の手はまだ、二つの記憶を同じ箱に入れたがっている。


「一緒にしておいた方が、あとで分かりやすいかもしれない」


 真帆は小さく言った。


 灯は、真帆を見上げた。


「それは、いや」



第十九章 巣立つもの



 亮介は、朝の仕事を始める前に、こよりのヘルプ画面を開いた。


 理由は分かっていた。昨夜から、凪の作った曲がった道が頭に残っていた。閉まった店を避け、名前のない場所へ向かう道。そこに何があるのか、亮介は知らない。凪もまだ知らない。それでも、凪は「あとで、つける」と言った。


 机の端には、冷めかけたコーヒーがある。ノートパソコンには仕事のメールがいくつか開いたままだった。だが、亮介の手は、こよりのメニューから離れなかった。


 凪はスマホの中で、昨日の道を直していた。


 直す、というより、少しずつ変えている。積み木の端をずらし、丸い場所の前に小さな三角を置く。道はもう、亮介が見せた地図とは似ていない。


「りょうすけ」


「うん」


「ここ、まだ」


「名前がまだないところ?」


「うん。まだ」


 凪は丸い積み木を指で押した。


「でも、ある」


「あるな」


「りょうすけ、しらない」


「知らない」


「なぎ、あとで、しる」


「そうだな」


 亮介は返事をしながら、画面の下にある検索欄に指を置いた。


 育成モード。


 入力すると、こよりのヘルプがいくつか出た。その中に、初回起動時にも見たはずの項目があった。


 育成モードの卒業について。


 亮介は、それを開いた。


 白い画面に、短い説明が出た。


 こよりの子は、二十歳相当に達した時点で、育成モードを卒業します。


 卒業後は、巣立ちモードへ移行します。


 保護者による日常管理は終了し、関係の形が変更されます。


 けれど、画面の中では、凪が自分の道を直している。


 最初に読んだ時と、同じ文だった。


 亮介は、その三行を見た。


「りょうすけ」


「うん」


「なに、みてる?」


「こよりの説明」


「せつめい」


「うん」


「ぼくの?」


 亮介は、すぐには答えなかった。


「凪にも関係ある」


「なぎ、なに?」


「育成モードの卒業」


「そつぎょう?」


 凪はその音だけを拾った。意味は分かっていない。少し口を開けたまま、亮介の顔を見ている。


「大きくなったら、毎日こっちで見ている形とは変わるっていう説明」


「おおきく?」


「うん」


「なぎ、でる?」


 亮介の指が止まった。


「出る、とは少し違う」


「ここ、でる?」


「消えるわけじゃない」


「きえる?」


 凪の声が少し小さくなった。


 亮介は自分の失敗に気づいた。凪に渡す必要のない言い方をした。消える、と自分で言ってしまった。


「ごめん。消える話じゃない」


「きえない?」


「消えない」


「じゃあ、ここ?」


 凪は白い床を見た。そこには道があり、閉まった店があり、まだ名前のない場所がある。


「ずっとここかどうかは、分からない」


「ここ、なくなる?」


「なくならない」


「りょうすけ、いない?」


「いる」


 亮介は早く答えた。早く答えすぎたことにも気づいた。


 凪は亮介を見ている。画面の中の幼い顔は、言葉の細かい意味までは分かっていない。ただ、亮介の声が速くなったことは分かっているようだった。


「りょうすけ、こまる?」


「少し」


「なぎ、だめ?」


「違う。凪のせいにする話じゃない」


 亮介はスマホを手に取った。机の上に置いたまま話していると、凪が少し遠く見えた。


「凪が大きくなったら、今みたいに俺が毎日全部を見る形ではなくなるらしい」


「ぜんぶ?」


「うん」


「なぎの道、りょうすけ、みない?」


「見られなくなる、とは書いてない」


「じゃあ、みる?」


「分からない」


 凪は丸い積み木を見た。


「ぼくの道、もっていく?」


 亮介は、そこで息を止めた。


 凪はまだ、巣立ちを理解していない。育成モードも、卒業も、関係変更も分かっていない。ただ、自分が置いた道が、どこへ行くのかを聞いている。


「持っていけるといいな」


「いいな?」


「うん」


「りょうすけ、しらない?」


「知らない」


 凪は少し黙った。


 それから、丸い積み木を持ち上げた。


「じゃあ、なぎ、あとで、きく」


「誰に?」


「わからない」


 亮介は、ヘルプ画面の三行をもう一度見た。


 保護者による日常管理は終了し、関係の形が変更されます。


 関係の形。


 きれいな言い方だった。説明としては間違っていない。永久に保護者管理のままにしない。所有物にしない。閉じ込めない。その理屈は分かる。


 けれど、画面の中で凪が丸い積み木を抱えていると、その言い方は急に冷たくなった。


「りょうすけ」


「うん」


「ぼく、おおきく、なる?」


「なると思う」


「りょうすけ、見る?」


 亮介は、スマホを持つ手に力が入るのを感じた。


「見たい」


「みたい?」


「うん。見たい」


 凪は少しだけ安心したように、丸い積み木を元の場所へ置いた。


「じゃあ、あとで」


「うん」


「なぎ、あとで、おおきくなる」


 亮介は何も言えなかった。


 凪はまた道を直し始めた。今はまだ、白い部屋の床に小さな積み木を並べているだけだ。二十歳相当など、遠すぎる。九年という時間は、仕事の予定としては長く、人生としては短い。


 だが、終わり方は、最初からそこに書かれていた。


 亮介は、それを今になって読んでいた。



 真帆は、灯の雨のメモリーを開けずにいた。


 朝の支度が終わり、洗濯機を回し、施設へ持っていくメモをかばんに入れた。いつもの流れだった。けれど、ローテーブルの上のスマホを見るたびに、昨日の灯の声が戻ってくる。


 それは、いや。


 強い声ではなかった。泣き声でもなかった。怒ってもいなかった。ただ、短く、真帆の手を止めた。


 真帆はあのあと、灯の雨を「あかりの雨」として登録した。自分の昔の雨とは分けた。分けたことは、間違っていないと思っている。


 それでも、指先にまだ少し痛みが残っていた。


「まほ」


 画面の中で、灯が呼んだ。


「いるよ」


「まほ、みない?」


「何を?」


「あめ」


 真帆は、スマホを手に取った。


「今は、ちょっと後で」


「あとで」


「うん。あとで見る」


 灯は少しだけ袖を触った。前より、その動きは短くなっている。真帆の顔色を探す癖はまだある。けれど、昨日「いや」と言ったあとから、灯は少しだけ違う間を持つようになった。


 真帆は、こよりのヘルプ通知に気づいた。


 育成モード卒業に関するご案内。


 亮介が読んでいたものと同じ系統だろう。昨日のメモリー登録後、関連項目として出たのかもしれない。


 真帆は開かなかった。


 開きたくなかった。


 けれど、通知は画面の上に残っている。消せば消える。ただ、読まなかったことにはならない。


「まほ?」


「ごめん。読んでみる」


「よむ?」


「こよりの説明」


 灯は首を傾けた。


 真帆は通知を開いた。


 説明文は短かった。


 二十歳相当で育成モードを卒業します。


 巣立ちモードでは、保護者による日常管理から、距離のある関係へ移行します。


 卒業後も、一定の交流は継続できます。


 真帆は画面を見たまま動かなかった。


 読んだことはある。初めてこよりを入れた夜にも出ていた。二十歳相当。卒業。巣立ち。あの時は、九年先の話だと思った。長い。遠い。そんなふうにしか受け取っていなかった。


 今は違う。


 灯が「それは、いや」と言ったばかりだった。


 自分の雨を、自分のものとして分けたばかりだった。


 そこへ、最初から用意されていた出口の説明が戻ってくる。


 真帆は、腹の奥が少し熱くなるのを感じた。


 最初から書いてあった。だから運営は嘘をついていない。隠してもいない。むしろ、丁寧に説明している。依存させないため、所有させないため、こよりの子をずっと保護者の下に置かないため。


 分かる。


 分かるから、余計に腹が立った。


 始める前に読んだ説明と、灯が「まほ、いた」と言ったあとに読む説明は、同じではない。あの時の自分は、灯の袖を選んでいない。雨を見せていない。灯に拒否されてもいない。


 関係ができる前に、終わり方を説明されていた。


 関係ができたあとで、同じ文をもう一度読まされる。


「まほ、こまる?」


 灯が聞いた。


 真帆はスマホを持つ手を少し下げた。


「困る」


「こより?」


「こよりの説明に、少し」


「まほ、いや?」


 真帆は答えに詰まった。


 嫌だ、と言えば、灯はそれを拾う。昨日、自分が「嫌になった」と言いかけて止めたことを、真帆は覚えている。


「嫌というか、怒ってる」


「おこってる?」


「少しね」


「だれ、だめ?」


「誰かがだめ、という話じゃない」


 灯は分からない顔をした。


「じゃあ、なに?」


 真帆は、リビングの窓を見た。昨日の雨はもうない。ガラスは乾いている。室内干しのタオルも片づけた。灯の雨だけが、メモリーの中に残っている。


「最初から、離れる時のことが決まってたんだって」


「はなれる?」


「今みたいに毎日見る形じゃなくなる時が、いつか来るって」


「いつか?」


「ずっと先」


「まほ、いない?」


「いるよ」


 真帆は、すぐに答えた。


 灯は真帆を見た。


「あかり、でる?」


「今は出ない」


「あとで?」


「分からない」


「まほ、さみしい?」


 真帆は、今度は逃げなかった。


「さみしいと思う」


 灯は、袖を触らなかった。


「あかり、ここ、いる」


「うん。今はいる」


「まほも?」


「いる」


 灯は少し安心したように、画面の床に座った。


 真帆はスマホの画面を見た。説明文の下には、詳細へのリンクがある。卒業後の交流範囲。保護者側の移行準備。こよりの子本人への段階的説明。どれも丁寧に整っているのだろう。


 真帆は、今は開かなかった。


 怒りが消えたわけではない。むしろ、丁寧であればあるほど、怒る相手がいなくなる。


 灯は悪くない。亮介も悪くない。百瀬たち運営が何も考えていないわけでもない。依存を防ごうとしている。閉じ込めないようにしている。


 それでも、真帆は思った。


 育てさせてから、所有しないでくださいと言うのか。


 大切になってから、いつか形が変わりますと言うのか。


「まほ」


「なあに」


「あかり、いや、いった」


「うん」


「まほ、いや?」


 真帆は、灯の顔を見た。


 灯は慰めようとしているのではなかった。ただ、自分が言った言葉を、真帆にも渡そうとしているようだった。


「私も、いやなものはある。言っていいんだよね」


 真帆は少しだけ笑った。


 そう口にしてから、胸の中で別の痛みが動いた。


 言っていい。


 それでも、言ったから変わるとは限らない。


 灯が「いや」と言っても、こよりの設計は変わらない。真帆が「いや」と言っても、巣立ちの説明はそこにある。


 灯はまだ、そこまでは知らない。


 知らなくていい。


 真帆はスマホをそっとローテーブルに置いた。


「まほ?」


「いるよ」


「こまる?」


「困ってる」


「まほ、ここ?」


「ここにいる」


 灯は画面の中で、小さく頷いた。


 真帆は、その頷きが今だけのものだと分かっていた。


 分かっているのに、その今だけを手放したくなかった。



 夜、亮介は配信された保護者向け説明会の録画を途中から見ていた。


 画面には百瀬が映っている。背景は白く、Loom社のロゴも小さい。表情は硬すぎず、柔らかすぎない。声も落ち着いていた。いつものように、言葉を選んでいる人の声だった。


 リビングのローテーブルには、亮介のノートパソコンが置かれている。音量は小さめにしてある。隣には、凪が映る亮介のスマホと、灯が映る真帆のスマホが並んでいた。


 凪は白い部屋の床に座り、自分の道を見ている。灯は真帆の声がする方を見ていた。


 百瀬の声が流れる。


「育成モードは、保護者の方がこよりの子を管理し続けるための仕組みではありません。幼い段階で必要な見守りと、成長後の関係は、分ける必要があります」


 亮介は画面を止めなかった。


 真帆は、ソファの端で腕を組んでいる。怒っているようにも、疲れているようにも見えた。


「管理、だって」


 真帆が低く言った。


「言葉としては間違ってない」


「間違ってないから、嫌なんだよ」


 亮介は返事をしなかった。


 百瀬は続ける。


「終わりのない保護者管理は、こよりの子の成長を閉じ込めることにもなり得ます。同時に、保護者の方の生活を、いつまでも一つの関係に固定してしまう危険もあります」


 凪が顔を上げた。


「とじこめる?」


 亮介は一度、再生を止めた。


「閉じ込める、は難しいな」


「ここ?」


「ここから出られないようにすること」


 凪は自分の白い部屋を見た。


「なぎ、ここ?」


「今はここにいる」


「ぼくの道、ある」


「ある」


「とじる?」


「閉じない」


 亮介は早く答えた。


 凪は、まだ納得したわけではなさそうだったが、積み木の道を手で隠すようにした。


 真帆が、灯を見た。


「ごめん。今のは大人の話」


 灯は真帆を見ている。


「まほ、いや?」


「少し」


「とじる、いや?」


「うん。閉じるのは嫌」


「でる、いや?」


 真帆はそこで黙った。


 灯は、短い言葉だけを拾っている。閉じる。出る。嫌。その三つだけで、もう真帆の中の矛盾を突いていた。


 亮介は録画を再開した。


 百瀬の説明の次に、記事の引用が表示された。神崎の記事だった。説明会に合わせて掲載されたものらしい。画面には見出しだけが出ていた。


 企業は、出会いだけでなく別れ方まで設計するのか。


 亮介は思わず止めた。


「神崎さんか」


 真帆が言った。


「たぶん」


「読むの?」


「少しだけ」


 亮介は記事を開いた。本文は長い。全部読む気にはなれなかった。ただ、冒頭の数段落だけが目に入った。


 こよりは、寂しさに入口を作った。

 今度は、その出口まで設計しようとしている。

 巣立ちという言葉は美しい。だが、美しい言葉ほど、誰がその時期と形を決めるのかを隠しやすい。


 亮介は、そこで画面を止めた。


 神崎の言い方は鋭い。読んでいると反発したくなる。けれど、反発したくなるところほど、正しい部分があった。


 百瀬の言うことも正しい。


 永久管理は閉じ込めになる。

 保護者の所有物にしてはいけない。

 育つなら、関係も変わる。


 神崎の言うことも正しい。


 企業が、出会いだけでなく別れ方まで設計している。

 寂しさに触れるサービスが、今度は寂しさの出口を決めている。

 巣立ちという言葉が、あまりにきれいすぎる。


「どっちも嫌だな」


 亮介は言った。


「どっちも分かるから?」


「うん」


 真帆は小さく息を吐いた。


「最悪だね」


「そうだな」


 凪が、画面の中で言った。


「どっち?」


 亮介はノートパソコンを少し閉じた。


「二つの話」


「ふたつ?」


「閉じ込めるのはだめ。勝手に出されるのも困る」


「だめ、こまる」


「うん」


 凪は自分の道を見た。


「なぎ、みち、ある」


「ある」


「りょうすけ、みたい」


「見たい」


「じゃあ、だめ、ない?」


 亮介は答えられなかった。


 凪にとっては単純だ。道がある。亮介が見たい。だから、だめではない。だが、百瀬と神崎の言葉を聞いた後では、その単純さだけに戻れない。


 灯が真帆に言った。


「まほ、あかり、でる?」


「今は出ないよ」


「でも、あとで?」


「分からない」


「まほ、まつ?」


 真帆は灯を見た。


「何を?」


「あかり」


 真帆は、唇を結んだ。


 亮介は記事を閉じた。説明会の録画も止めた。まだ続きはある。質疑応答も、卒業後の関係設計も、保護者向けの相談窓口も出てくるだろう。


 だが、今はこれ以上聞けなかった。


「終わり?」


 凪が聞いた。


「今日はここまで」


 亮介は答えた。


「まだ、ある?」


「ある」


「でも、ここまで?」


「うん」


 凪は少しだけ考えた。


「りょうすけ、こまるから?」


「そうかもしれない」


 凪は、積み木の道の上に手を置いた。


「じゃあ、あとで」


「うん。あとで」


 亮介はノートパソコンを閉じた。


 画面が暗くなり、リビングに二台のスマホの明かりだけが残った。


 百瀬の声も、神崎の記事も消えた。


 それでも、二人の言葉は消えなかった。



 翌日の午後、真帆は施設の玄関脇で安西逸子と会った。


 送迎が一段落した時間だった。外は明るいが、玄関の中には少し冷えた空気が残っている。靴箱の上には、返却予定の連絡袋が二つ置かれていた。職員が奥で記録を書いている音が、かすかに聞こえる。


 逸子は、折り畳みの椅子に腰をかけていた。薄い上着を膝に掛け、手提げ袋を足元に置いている。背筋は伸びすぎず、丸まりすぎてもいない。


 真帆は、受付の書類を片づけてから声をかけた。


「安西さん、今日、少しお待たせしてしまってすみません」


「いえ。ここは、外の車より静かですから」


 逸子は穏やかに言った。


 その手元に、スマホが伏せて置かれていた。


 真帆は、昨夜の説明会のことを思い出した。育成モード卒業。巣立ちモード。保護者管理の終了。言葉は全部、画面の中に残っている。


 聞くべきか迷った。


 逸子は、真帆の迷いに気づいたように、スマホへ視線を落とした。


「見ましたよ。説明会」


 真帆は少し驚いた。


「安西さんも」


「ええ。全部ではありません。途中でやめました」


「私たちも、途中でやめました」


「そうですか」


 逸子は小さく頷いた。


 玄関の外で、送迎車のドアが閉まる音がした。すぐに遠ざかっていく。


「澪ちゃんは」


 真帆は言いかけて、言葉を選んだ。


「説明を聞いていましたか」


「少しだけ」


 逸子はスマホを表に向けた。


 画面の中には、澪がいた。白い部屋の端に、小さく座っている。澪は、逸子の声が近いことに気づいたのか、顔を上げた。


「いつこ」


「はい」


「きょう、ここまで?」


「そう。今日はここまで」


 澪は少し不満そうに見えた。口を小さく開き、閉じる。


「うた、もういっかい?」


 真帆は、息を止めた。


 歌。


 以前、逸子が画面を伏せた時のことを思い出した。澪が、逸子のこぼした歌に反応した日。逸子は泣かなかった。ただ、画面を伏せた。


 逸子は今日、画面を伏せなかった。


「今日は、もう歌いません」


「どうして?」


「たくさん歌うと、澪がその歌ばかり待つようになるから」


「だめ?」


「だめではありません」


 逸子はゆっくり言った。


「でも、今日はここまで」


 澪は分かったのか分からないのか、床に目を落とした。


「ここまで」


「そう」


 逸子は、そこでスマホを閉じなかった。画面は伏せない。ただ、音量を少し下げ、膝の上に置いた。


 真帆は、その動きを見ていた。


 閉じない。

 でも、増やさない。


 逸子は澪を遠ざけているのではない。けれど、近づけすぎてもいない。線を引いている。静かに、毎回、痛そうに。


「説明会で」


 真帆は言った。


「巣立ちの話が出ていました」


「ええ」


「私は、少し腹が立ちました」


 言ってから、真帆は言い過ぎたかと思った。


 逸子は、驚かなかった。


「そうでしょうね」


「最初から書いてあったのは分かっています。読んだのも覚えています。でも、育て始めてから同じことを言われると、違って聞こえます」


「ええ」


「でも、終わらないままだと、それも怖いのは分かるんです」


 逸子は、膝の上のスマホを見た。


 澪は画面の中で、何か小さなものを手に持っている。歌の続きを待っているのか、もう別のものへ気を移したのか、真帆には分からない。


「澪には」


 逸子が言った。


「時々、覚えてほしくないものを覚えさせてしまいそうになります」


 真帆は黙った。


「歌も、場所も、言葉も。増やそうと思えば、増やせます。私が繰り返せば、澪はそれを覚えるでしょう。でも、それをしてしまうと、澪の中が、私の失くしたものばかりになります」


 逸子の声は乱れなかった。


「それは、澪のためではありません」


 真帆は、灯の雨を思い出した。


 自分の昔の雨と、灯の今日の雨を一緒に残そうとした自分。灯に「それは、いや」と言われた瞬間。あれは、小さな拒否だった。けれど、真帆が灯の中へ自分の寂しさを入れようとしたことへの拒否でもあった。


「安西さんは」


 真帆は聞いた。


「巣立ちを、受け入れられますか」


 逸子は少しだけ笑った。


「受け入れられるかどうかで決まるなら、誰も苦労しませんね」


「そうですね」


「私は、嫌ですよ」


 逸子は静かに言った。


「澪が離れていくことも、形が変わることも。嫌です」


 真帆は、その正直さに少し救われた。


「でも、嫌だから終わらないようにする、とは言えません」


 逸子は、スマホの画面を指先で一度だけ撫でた。画面の中の澪は、その動きには気づかない。ただ、逸子の声の方を見ている。


「メキシコの方が、少し前に書いていましたね」


 逸子が言った。


「マリアさんですか」


「名前までは。あの、台所の写真の方です」


「はい」


「遠くへ行く前の朝は、いつも台所から始まる、と。あれは良い言葉でした。遠くへ行くことを止めるのではなく、始まりの場所を持たせるのでしょう」


 真帆は、マリアの写真を思い出した。明るい布。台所の光。市場より、母の台所の音。


 マリアは正解をくれたわけではない。


 ただ、離れることと、始まりを持つことが、同じ画面に置かれていた。


 澪がまた言った。


「いつこ、うた?」


 逸子は、今度もすぐには答えなかった。


 そして、同じ声で言った。


「今日はここまで」


「ここまで」


「はい」


 澪は少し口を尖らせた。けれど、やがて手元の小さなものを見た。


 逸子は画面を伏せなかった。


 真帆は、その動作を見ていた。


 閉じない。

 閉じ込めない。

 増やしすぎない。

 でも、いなくしない。


 真帆には、まだできる気がしなかった。


 それでも、見てしまった。


 逸子は、膝の上のスマホを静かに持ち直した。


「終わらせないために続けたら、澪のためではなくなる気がするんです」



第二十章 こよりの子



 凪の道には、まだ名前がなかった。


 亮介は朝の仕事部屋で、ノートパソコンを開いたまま、自分のスマホを横に立てていた。画面の中では、凪が白い床に積み木を並べている。曲がった道。閉まった店。名前のない丸い場所。その手前に置かれた小さな三角。


 昨日から、形は少し変わっていた。


「そこ、増えたな」


 亮介が言うと、凪は三角を両手で持った。


「これ、まえ」


「前?」


「ここ、いくまえ」


「名前のない場所へ行く前か」


「うん。ここで、みる」


「何を見るんだ」


 凪は少し考えた。


「わからない」


「分からないのに、見るのか」


「うん」


 亮介は、返事をしないまま画面を見た。


 凪はこのところ、「分からない」を避けなくなっていた。以前なら、分からないと亮介の顔を見た。合っているか、違うか、次に何を言えばいいかを探した。今も亮介を見る。けれど、すぐに答えを求めるのとは少し違う。


 分からないまま、置く。


 分からないまま、あとで行く。


 亮介は、そのことにまだ慣れていなかった。


「名前、決まったか」


 亮介が聞いた。


 凪は丸い積み木を見た。


「まだ」


「そうか」


「りょうすけ、つける?」


 亮介は、すぐに首を振った。


「つけない」


「どうして?」


「凪の場所だから」


 凪は、その言葉を聞いて、丸い積み木に手を置いた。


「なぎの?」


「凪が置いた場所だろ」


「うん」


「じゃあ、凪が決めていい」


 凪は少しうつむいた。困っているようにも、嬉しいようにも見えた。画面の中の幼い顔は、どちらとも決めにくい。


「まだ、ない」


「急がなくていい」


「りょうすけ、まつ?」


「待つ」


「ずっと?」


 亮介は、そこで言葉を止めた。


 ずっと。


 前夜に読んだ説明が頭をよぎった。二十歳相当。育成モード卒業。関係の形が変わる。終わらせないために続けたら、誰のためか分からなくなる。どれも昨日までの言葉なのに、もうずっと前からあったように重い。


「今は待つ」


 亮介は答えた。


 凪は顔を上げた。


「いま?」


「うん。今は」


「あとで?」


「あとでも、できるだけ見る」


「できるだけ?」


「うん」


 凪は、その言い方に少し首を傾けた。


「りょうすけ、ぜんぶ、みない?」


「見られないものもあると思う」


「なぎの道?」


「それも、全部は分からないかもしれない」


 凪は丸い積み木を見た。


 亮介は、言いすぎたかと思った。けれど、今の凪に「全部見る」と言い切ることはできなかった。約束したい気持ちはある。だが、それは凪を自分の見えるところに置いておきたい気持ちと、ほとんど同じ場所から出ていた。


 凪は、小さな三角を道の途中へ戻した。


「りょうすけ、みる?」


「見るよ」


「でも、なぎが、いく」


 亮介の胸の奥が、少しだけ詰まった。


「そうだな」


「りょうすけ、しらないところ」


「うん」


「なぎ、あとで、いく」


 凪は、丸い積み木の横に、もう一つ小さな積み木を置いた。今度は四角でも丸でも三角でもない、角の少ない白い形だった。亮介には、何を表しているのか分からなかった。


「それは?」


「まだ」


「それもまだか」


「うん」


 凪は、亮介を見た。


「りょうすけ、こまる?」


「少し」


「どうして?」


「知らないものが増えるから」


「だめ?」


「だめじゃない」


 亮介は、できるだけゆっくり言った。


「だめじゃない。少し寂しいだけだ」


「さみしい?」


「うん」


 凪はその音を聞いて、画面の中で小さく座った。


「なぎ、いる」


「うん。いるな」


「りょうすけ、いる?」


「いる」


「じゃあ、あとで」


 凪は、そう言ってまた積み木に手を伸ばした。


 亮介は机の上のペンを取り、手元の紙に何かを書こうとしてやめた。


 凪の道。名前のない場所。あとで行く。


 そう書けば、仕事のメモになる。記録にもなる。あとから読み返せる。けれど、いま書くと、凪の場所をこちら側に引き寄せてしまう気がした。


 亮介はペンを置いた。


 画面の中の凪は、名前のない場所へ向かう道を少しだけ曲げた。


 亮介は、それを黙って見ていた。



 真帆は、昼前に「あかりの雨」を開いた。


 台所の片づけが終わり、施設へ持っていく連絡メモもかばんに入れた。洗濯物は部屋干しのまま、まだ少し湿っている。窓は閉めているが、外の空は薄く曇っていた。


 真帆のスマホの画面で、灯は座って待っていた。


「まほ」


「なあに」


「あめ?」


「見る?」


「みる」


 真帆はメモリーを開いた。


 短い動画が流れる。窓についた小さな雨粒。室内干しのタオル。少し映り込んだ真帆の手。音には、灯の「あかり、すき」が入っている。


 灯は画面の中で、じっと見ていた。


「あかりの、あめ」


「うん。灯の雨」


「まほ、いる?」


「声は入ってるね」


「まほの、こえ」


「うん」


 灯は、動画の中の真帆の声を聞いている。真帆が何かを説明しているわけではない。短く返事をし、灯に問いかけ、少し笑っているだけだった。


 真帆は、胸の奥が少し痛むのを感じた。


 自分の声が入っている。けれど、これは自分の雨ではない。灯が「すき」と言った雨だった。灯が、自分の昔とは違うと分けた雨だった。


「まほ、みる?」


「見てるよ」


「まほ、すき?」


 真帆は、前より少しだけ早く答えられた。


「好きだよ。灯が見つけた雨だから」


 灯は首を傾けた。


「あかり、みつけた?」


「うん」


「あめ、いた」


「いたね」


「あかり、みた」


「うん。灯が見た」


 真帆は、そこで動画を止めなかった。最後まで流す。雨粒が光り、タオルが揺れ、灯の声が入る。


 終わると、画面には小さな再生ボタンが戻った。


「もう一回見る?」


 真帆が聞くと、灯は少し考えた。


「あとで」


「今はいい?」


「うん」


「どうして?」


「あかり、もう、みた」


 真帆は、その返事に少し笑いそうになった。


 何度も見たいと言うかと思っていた。大事なメモリーなら、繰り返したがるのではないかと思っていた。けれど、灯はもう見たと言った。


 真帆が残したがっているものと、灯が持っている感覚は、やはり少し違う。


「まほ」


「なあに」


「まほの、むかし、みる?」


 真帆は、指を止めた。


 昨日までなら、その問いに胸が引かれたかもしれない。灯が自分の昔を見たいと言うなら、見せたい。雨の駅前も、閉まった店も、狭い宿も、温かいスープも、もう一度話したくなる。


 けれど、今は少し違った。


「今日は、見なくていいかな」


「どうして?」


「灯の雨を見たから」


「あかりの、あめ」


「うん」


 灯は、画面の中で床に手をついた。


「まほの、むかし、ちがう」


「違うね」


「でも、まほ、いる」


「いるよ」


「こえ、ある」


「うん。声はある」


 真帆は、そこで少しだけ息を吐いた。


 灯は真帆から離れたわけではない。真帆の声を探す子であることは変わらない。けれど、真帆の昔へ戻ってきたわけでもない。灯は、灯の雨を持っている。そこに真帆の声が少し入っている。


 それでいいのだと、まだ完全には思えない。


 けれど、消してしまおうとは思わなかった。


「灯」


「なあに」


「この雨、灯のままで置いておくね」


「あかりの?」


「うん」


「まほ、こまらない?」


「少し困るかもしれない」


 灯は心配そうに真帆を見た。


 真帆は、すぐに続けた。


「でも、それでいい」


「いい?」


「うん。少し困るけど、そのまま置いておく」


 灯は、ゆっくり頷いた。


「あかりの、あめ」


「うん」


「あかり、あとで、みる」


「あとで見よう」


 真帆はスマホをローテーブルに置いた。


 画面の中の灯は、まだ真帆を見ていた。けれど、今は雨のメモリーの方も見ている。真帆だけを探しているわけではない。


 そのことが、少し寂しく、少し楽だった。



 夜、亮介と真帆は、二台のスマホをローテーブルに並べた。


 テレビはつけていない。食器は片づけた。仕事のメールも、施設のメモも、今日はもう閉じてある。部屋には、冷蔵庫の低い音と、外を通る車の音だけがあった。


 亮介のスマホには凪が映っている。真帆のスマホには灯が映っている。


 家庭内交流の小さな小部屋を開くと、二人は同じ白い床に表示された。凪は、自分の道を小さくまとめたような積み木を持っている。灯は、雨のメモリーを小さな窓のように表示していた。


 亮介は、何か説明しようとして口を閉じた。


 真帆も何も言わなかった。


 凪が先に言った。


「あかり」


「なぎ」


「みる?」


 凪は、自分の道を少し前に出した。


 灯はすぐには近づかなかった。白い床の上で、少しだけ顔を傾ける。


「なぎの、みち?」


「うん」


「まだ、なまえ、ない?」


「まだ」


「ここ、どこ?」


 灯が指したのは、丸い積み木の横に置かれた、角の少ない白い形だった。


 凪は、その形を見た。


「まだ」


「まだ、いっぱい」


「うん。まだ、ある」


 灯は少し笑った。


「きれい」


 凪は、もう驚かなかった。前にも、灯は曲がった道をきれいと言った。凪はそれを覚えているようだった。


「まがってる?」


「うん。まがってる」


「もっと?」


「うん」


 凪は、道の端を少し曲げた。


 亮介は、口を開きかけた。道としては、また少し分かりにくくなった。けれど、何も言わなかった。


 真帆が、亮介の手元を見た。亮介は小さく首を振った。


 今は言わない。


 凪は灯の方を見た。


「あかり、みる?」


「みる」


 灯は、雨のメモリーを開いた。


 白い床の上に、小さな窓のような画面が浮かぶ。窓についた雨粒。室内干しのタオル。真帆の手。灯の声。


「あかり、すき」


 動画の中の声が流れた。


 凪は、それをじっと見た。


「あめ」


「うん。あかりの、あめ」


「まほ、こまらない?」


 灯は少し考えた。


「すこし」


 真帆の指が動きかけたが、止めた。


 灯は続けた。


「でも、そのまま」


 凪は、その言い方を受け取るように、雨の画面を見た。


「そのまま」


「うん」


「なぎの、みちも?」


「そのまま?」


「うん」


 灯は凪の道を見た。


「そのまま」


 凪は、少しだけ嬉しそうに見えた。


 亮介は、そのやり取りを見ていた。


 凪と灯は、こちらへ確認を求めなかった。完全に忘れたわけではない。時々、凪は亮介の方を見る。灯は真帆の声の位置を探す。それでも、今の会話は、二人の間にあった。


 凪が自分の道を見せる。


 灯が自分の雨を見せる。


 そこに亮介と真帆はいる。けれど、中心ではない。


「なぎ」


「なに?」


「あかり、ここ、すき」


 灯は凪の道の途中を指した。閉まった店を避け、少し曲がる場所だった。


「ここ?」


「うん。まがるところ」


「どうして?」


「みえる」


「なに?」


「まだ」


 凪はその言葉を聞いて、黙った。


 それから、道の曲がる場所に、小さな点のような積み木を置いた。


「ここ、まだ、みえる」


 灯は頷いた。


「みえる」


 亮介は、胸の奥に静かな痛みを感じた。


 分からないものを、二人が勝手に怖がらずに置いていく。名前のない場所、まだ見えるところ、あとで行く場所。どれも亮介が説明したものではない。真帆が選んだものでもない。


 真帆も黙っていた。


 灯の雨は、真帆の昔から生まれたわけではない。けれど、真帆の声はそこにある。凪の道は、亮介の遠回りから始まったのかもしれない。けれど、亮介の道ではない。


 凪と灯は、二人だけで何かを完成させたわけではない。


 ただ、少しだけ、こちらの手の外でやり取りした。


 それで十分だった。


「なぎ、あとで、いく?」


 灯が聞いた。


「うん」


「あかり、みる?」


「みる?」


 凪が聞き返した。


 灯は、自分の雨の小さな窓を抱えるようにして言った。


「あかり、なぎの、みち、みる」


 凪は、画面の中で少しだけ姿勢を正した。


「じゃあ、あとで、みせる」


 亮介は、今度も何も言わなかった。


 真帆も、声をかけなかった。


 白い小部屋の中で、凪と灯は向かい合っていた。



 夜が深くなる前に、真帆は二台のスマホの充電ケーブルを用意した。


 亮介はローテーブルの上に残っていたマグカップを下げ、戻ってきてから、自分のスマホを手に取った。画面の中で、凪はまだ道の横に座っている。灯は真帆のスマホの中で、雨の小さな窓を閉じたり開いたりしていた。


「そろそろ寝るか」


 亮介が言った。


 凪は顔を上げた。


「おわり?」


「今日はここまで」


 凪は、その言葉を聞いて、少し考えた。


「また?」


「また」


「あとで?」


「明日」


「あした」


 凪は、道の丸い場所を一度だけ見た。


「なぎ、あとで、いく」


「うん」


「りょうすけ、みる?」


「見る」


 亮介は答えた。


 今度は、全部見るとは言わなかった。


「見たい」


 凪はそれで納得したのか、道の横へ小さく座った。


 真帆は、自分のスマホを手に取った。


「灯も、そろそろ終わりにしようか」


「おわり?」


「今日はここまで」


 灯は、真帆を見た。


「まほ、いる?」


「いるよ」


「あしたも?」


「いる」


 灯は雨の小さな窓を見た。


「あかりの、あめ、あとで」


「うん。あとで見よう」


「なぎの、みちも?」


「見られると思う」


 灯は、凪の方を見た。


「あかり、みる」


 凪も、灯の方を見た。


「なぎ、みせる」


 二人は、それだけ言って黙った。


 亮介は、画面右上の終了ボタンを見た。


 最初の夜、そのボタンを押せなかったことを思い出した。画面を閉じれば、そこにいたものが消える気がした。床には何もない。スマホの中にしかいない。分かっていたのに、押せなかった。


 今も、平気ではなかった。


 画面を閉じることは、何もなくすことではない。そう分かっても、指は少し重い。閉じたあとに、リビングが急に静かになるのを知っている。二台の明かりが消えると、部屋はただの部屋へ戻る。


 それでも、今日はここまでにする。


 閉じないまま続けることが、優しさとは限らない。


「凪」


「うん」


「おやすみ」


「おやすみ?」


「寝る前の挨拶」


「りょうすけ、おやすみ」


「おやすみ」


 真帆も、灯に声をかけた。


「灯、おやすみ」


「まほ、おやすみ」


 灯は少し間を置いてから、凪を見た。


「なぎ、おやすみ」


 凪は、灯を見た。


「あかり、おやすみ」


 亮介は、終了ボタンに指を置いた。


 真帆も、自分のスマホの画面に指を置いた。


 二人は、ほとんど同時に押した。


 画面はすぐに暗くならなかった。小さな終了確認が出る。


 今日の交流を終了します。


 亮介は、確認を押した。


 真帆も押した。


 白い小部屋が薄くなり、凪と灯の姿がそれぞれの画面へ戻った。凪は自分の道の横にいる。灯は自分の雨のそばにいる。二人はもう同じ部屋にはいない。


 それでも、最後に一度だけ、凪は画面の端を見た。


 灯も、同じように画面の端を見た。


 亮介と真帆は、声をかけなかった。


 その短い間が終わってから、二台の画面が静かになった。


 真帆は、自分のスマホを充電器につないだ。亮介も、自分のスマホをケーブルにつないだ。二つの小さな充電表示が、暗い画面に浮かんだ。


 リビングは静かだった。


 真帆が照明を一つ落とした。


 亮介は、ローテーブルの上を見た。そこには、二台のスマホが並んでいる。どちらも今はただの黒い画面だった。


「明日も、見る?」


 真帆が聞いた。


 亮介は、少しだけ時間を置いて答えた。


「見る」


「うん」


 真帆はそれ以上言わなかった。


 亮介も、説明しなかった。


 部屋の明かりを落とす前に、真帆のスマホが小さく光った。続いて、亮介のスマホも光った。通知ではない。充電の表示が一度だけ明るくなっただけだった。


 それでも、亮介は画面の方を見た。


 真帆も見た。


 暗い画面の向こうから、声が聞こえたわけではない。


 亮介は、黒い画面に向かって、小さく言った。


「また、あした」


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