第86話 新銭流通
近江の冬は澄んでいた。
山から吹き下ろす冷たい風が、琵琶湖の水面を静かに揺らしている。その湖を見下ろす高台に、巨大な城がそびえていた。
安土城
織田信長が築いたその城は、もはや単なる軍事拠点ではなかった。
商人が集まり、職人が働き、学者や医師までもが訪れる。
天下の中心。
それが今の安土城だった。
その城の奥。
信長の御座所では、重臣たちが集まり新しい政策について話し合っていた。
明智光秀。
羽柴秀吉。
柴田勝家。
丹羽長秀。
織田家を支える者たちである。
信長は机の上に小さな袋を置いた。
袋の中には、金属の音がする。
信長はそれをひっくり返した。
チャリン。
畳の上に銅の銭が転がる。
それは今までの銭とは明らかに違っていた。
形は丸く、中央に穴がある。
重さは均一。
銅の色も美しい。
そして何より。
銭の縁には文字が刻まれている。
帝の御名。
この貨幣は、正親町天皇の許可を得て鋳造された、新しい銭だった。
光秀が一枚手に取る。
「見事な出来です」
信長は笑う。
「そうだろう」
秀吉も銭を手に取り、じっと見つめた。
「軽い」
勝家が言う。
「だが重さは揃っている」
丹羽長秀が頷いた。
「これならば」
「どこでも同じ価値で使えます」
信長は腕を組みながら言った。
「それが狙いだ」
「銭を統一する」
「国を動かす」
秀吉は小さく笑った。
「戦より早いですな」
信長は言う。
「戦は時間がかかる」
「だが銭は違う」
「一度流れれば」
「止まらぬ」
一方。
望月領の市場。
そこではすでに新しい銭が流れ始めていた。
露店が並び、人々の声が響く。
魚屋が魚を売り、布屋が反物を広げ、米屋が俵を積み上げている。
その中を歩く一人の女性。
望月梓
民からは豊穣の女神と呼ばれている人物である。
梓は市場の様子を静かに見ていた。
米屋の前で、商人たちが銭を数えている。
「新しい銭だ」
「これが信長様の銭か」
「帝の御名がある」
「これは信用できる」
別の商人が言った。
「軽いな」
「だが綺麗だ」
米屋の主人が言う。
「計算が楽になった」
「今までの銭は重さが違ったからな」
その様子を見て、梓は静かに微笑んだ。
隣に立っていた藤兵衛が言う。
「広まりが早い」
梓は頷いた。
「帝の銭だからね」
藤兵衛は言った。
「民も商人も疑いません」
梓は静かに言う。
「信用は力だから」
その時。
市場の入口から馬の足音が響いた。
早馬である。
使者が叫んだ。
「急報!」
「安土城より!」
市場の人々がざわつく。
藤兵衛が聞く。
「何事です」
使者は息を整えて言った。
「各地の商人が」
「この銭を求めています」
「美濃」
「尾張」
「伊勢」
「すでに広まり始めました」
梓は少し笑った。
「やっぱりね」
藤兵衛が言う。
「予想通りですか」
梓は頷く。
「うん」
「銭は」
「信用で広がる」
その夜。
望月領の屋敷。
梓は庭に立って夜空を見上げていた。
星が広がっている。
藤兵衛が隣に来た。
「梓様」
「これからどうなるのでしょう」
梓は静かに言った。
「銭が流れると」
「国が一つになる」
藤兵衛は首を傾げる。
「戦ではなく」
「銭で」
梓は頷いた。
「そう」
「経済の統一」
そして空を見ながら呟く。
「銭は」
「刀より強い」
こうして。
帝。
正親町天皇
天下人。
織田信長
そして豊穣の女神。
望月梓
三人の決断によって生まれた新しい貨幣は。
静かに。
しかし確実に。
戦国日本を変え始めていたのである。




