第85話 新銭始動
近江の中心にそびえる巨大な城、安土城。
冬の空気は澄み、遠く比叡山の稜線が青く霞んで見えていた。城下町には商人の荷駄が行き交い、鍛冶の槌の音、酒屋の呼び声、行商人の声が混じり合っている。
戦の城として築かれた安土城だったが、今では様子が変わりつつあった。
武士だけではない。
商人、職人、学者、医者。
様々な人々が集まり、城下町は巨大な市場のようになっている。
その中心にいる人物が二人いた。
天下布武を掲げる武将。
織田信長
そして。
豊穣の女神と呼ばれる女商人。
望月梓
数日前、安土城で行われた会談。
帝、正親町天皇。
信長。
梓。
三人による密談は、戦国の日本の未来を大きく動かすものとなった。
その結果の一つが――
新しい貨幣の鋳造。
帝の許可を得た統一貨幣である。
その計画が、いま動き出していた。
安土城の広間。
そこには織田信長と重臣たちが集まっていた。
明智光秀。
羽柴秀吉。
丹羽長秀。
柴田勝家。
織田家の中枢である。
信長は一枚の文書を机に置いた。
「帝の御許可は出た」
広間が静かになる。
「新しい銭を作る」
光秀が静かに言った。
「帝の名を持つ銭」
信長は笑う。
「そうだ」
「天下の銭だ」
秀吉は顎に手を当てて考え込む。
「今の銭はひどいですからな」
勝家が頷く。
「まったくだ」
当時の貨幣事情は混乱していた。
中国から渡ってきた古銭。
粗悪な私鋳銭。
重さも質も違う銭。
地域によって価値が変わり、商人は常に計算に苦しんでいた。
信長は言った。
「それを終わらせる」
「銭を一つにする」
光秀は言った。
「それは」
「天下統一に近い意味を持ちます」
信長は笑った。
「その通りだ」
「銭が流れれば」
「国が動く」
一方その頃。
望月領の館。
望月梓は机に向かっていた。
机の上には紙が何枚も広げられている。
そこに描かれているのは。
銭の設計図。
中央に穴。
周囲に文字。
厚み、重さ、刻印。
頭の中ではIrisが計算していた。
『貨幣流通量計算』
『経済拡張率予測』
梓は呟く。
「戦国で中央銀行やるとは」
横では藤兵衛が不思議そうに見ている。
「梓様」
「銭の形まで決めるのですか」
梓は頷いた。
「当然」
「偽物を作られたら終わりだから」
藤兵衛は感心する。
「そこまで考えておられるとは」
梓は紙を指差した。
「重さを統一」
「銅の割合も固定」
「刻印を入れる」
藤兵衛が聞く。
「刻印とは」
梓は言った。
「帝の御名」
藤兵衛は目を見開いた。
「帝の御名が銭に刻まれるのですか」
梓は頷く。
「国家保証の銭」
「だから強い」
藤兵衛は感嘆した。
「それなら誰も疑いません」
数日後。
梓は再び安土城へ呼ばれていた。
広間には織田信長と重臣たち。
信長が言う。
「銭の案はできたか」
梓は一枚の紙を差し出した。
「これです」
光秀が紙を見る。
「中央に穴」
「周囲に文字」
秀吉が目を輝かせた。
「帝の御名」
信長は豪快に笑う。
「面白い」
梓は説明する。
「重さを統一」
「質を固定」
「偽物はすぐ分かる」
信長は頷いた。
「よし」
「作れ」
その瞬間。
日本初の統一貨幣計画が動き出した。
その夜。
望月領の庭。
冬の空には星が広がっていた。
梓は空を見上げていた。
藤兵衛が隣に立つ。
「梓様」
「本当に変わりますね」
梓は微笑んだ。
「うん」
「戦国は」
「終わりに近づく」
藤兵衛は少し驚いた。
「そんなに早くですか」
梓は静かに言う。
「銭が整えば」
「戦は減る」
藤兵衛は首をかしげる。
「どういう意味です」
梓は言った。
「戦は」
「結局お金だから」
「経済が安定すれば」
「戦う理由が減る」
そして。
梓は星空を見ながら呟いた。
「銭は」
「刀より強い」
こうして。
帝。
正親町天皇
天下人。
織田信長
そして。
豊穣の女神。
望月梓
三人の決断によって。
日本の経済は。
静かに。
しかし確実に。
新しい時代へ進み始めていたのである。




