第87話 南蛮斥候
近江の冬は澄み渡っていた。
琵琶湖の水面は穏やかで、冷たい風が静かに波紋を広げている。その湖を見下ろす高台に、巨大な城がそびえ立っていた。
安土城
織田信長が築いたこの城は、今や単なる戦の拠点ではない。
商人が集まり、職人が働き、学者や僧が訪れる。
そして南蛮人までもが足を運ぶ。
天下の中心都市。
それが今の安土城であった。
城下町の通りには、多くの人々が行き交っている。
米俵を積んだ荷車。
魚を担いだ漁師。
布を広げる商人。
その中に、一人の異国人が歩いていた。
背は高く、髪は明るく、鼻筋が高い。
黒い衣のような服を着ており、日本人とは明らかに違う風貌である。
男の名は――
ルイス・フロイス
表向きは南蛮の宣教師。
だが。
それだけではなかった。
彼は異国の情勢を探るために派遣された観察者でもある。
言い換えれば――
軍の斥候。
フロイスは城下町を歩きながら、周囲を観察していた。
市場の規模。
兵の数。
城の構造。
そして商人たちの活気。
彼は心の中で驚いていた。
「これは……」
「まるで一つの王国の都だ」
これまでフロイスは多くの土地を見てきた。
京。
堺。
博多。
だが安土城の城下町は、それらとも違っていた。
秩序がある。
金が流れている。
そして何より。
発展している。
フロイスは呟く。
「この国の未来は」
「この男にあるのか」
その男の名は――
織田信長
だが。
フロイスがもう一人注目している人物がいた。
最近、各地で噂になっている存在。
豊穣の女神。
経済を操る女商人。
その名は――
望月梓
一方。
望月領の屋敷。
望月梓は静かに茶を飲んでいた。
その前で藤兵衛が報告している。
「梓様」
「城下町に南蛮人が来ております」
梓は少し眉を上げた。
「南蛮人?」
藤兵衛は頷く。
「宣教師だそうです」
「名をルイス・フロイスと」
その名前を聞いた瞬間。
梓の頭の中でIrisが反応した。
『歴史人物検索』
『該当人物:ルイス・フロイス』
『宣教師・観察者』
梓は小さく息を吐いた。
「来たか」
藤兵衛が聞く。
「ご存知なのですか」
梓は少し考えた後、言った。
「会ってみよう」
数刻後。
安土城城下の客館。
南蛮人を迎えるための建物である。
フロイスはそこで待っていた。
やがて襖が開く。
一人の女性が入ってきた。
落ち着いた歩き方。
静かな視線。
フロイスはすぐに悟った。
この人物が。
望月梓
であると。
梓は座り、静かに言った。
「あなたがルイス・フロイスですね」
フロイスは丁寧に頭を下げた。
「はい」
「その通りです」
梓は言った。
「私は望月梓」
「商人です」
フロイスは少し笑った。
「噂は聞いています」
「女神と呼ばれているとか」
梓は苦笑する。
「ただの商人です」
少し沈黙が流れた。
やがてフロイスが口を開いた。
「私は」
「宣教師として日本に来ました」
「ですが」
「それだけではありません」
梓は黙って聞いている。
フロイスは続けた。
「私は軍の斥候でもあります」
「各国の状況を調べる役目です」
梓は頷いた。
「正直で助かります」
フロイスは少し驚いた。
「怒らないのですか」
梓は微笑む。
「むしろ歓迎します」
フロイスは目を細めた。
「ほう」
梓は机の上に箱を置いた。
箱の中には品が並んでいる。
ガラス器。
精巧な陶器。
香辛料。
フロイスは驚いた。
「見事だ」
梓は静かに言った。
「交易をしませんか」
フロイスは興味を示す。
「交易」
梓は頷く。
「あなたは世界を見ている」
「ならば」
「商いもできる」
フロイスはしばらく考えた。
そしてゆっくり笑った。
「面白い」
「あなたは」
「普通の商人ではありません」
梓は微笑む。
「そうかもしれません」
フロイスは言った。
「この話」
「信長様にも伝えましょう」
こうして。
望月梓とルイス・フロイスの出会いは。
やがて南蛮との新しい交易と。
世界の情報が日本へ流れ込む始まりとなるのであった。




