第82話 帝の御望
京の冬は静かである。
戦国の世にあっても、この都だけはどこか時の流れが違っていた。寺院の屋根には薄く雪が積もり、石畳の道には公家や僧がゆっくりと行き交う。人々は慎ましく、しかし誇りを持って都の暮らしを続けていた。
その都の中心。
禁裏。
すなわち天皇の御所。
広い庭には白砂が敷き詰められ、冬の冷たい風が松の枝を静かに揺らしている。華やかな政治の場というよりも、神域に近い静謐な空間だった。
御所の奥。
御座所では一人の人物が書物を閉じた。
正親町天皇
戦国の世にあってなお、日本の象徴として存在する帝である。
だが実情は厳しかった。
朝廷の財政は長く困窮し、禁裏の修繕すら満足に行えない時期もあった。権力は各地の大名が握り、天皇の力は象徴に近い。
しかしそれでも――
天皇は日本という国の中心だった。
その御座所に控えていたのは、一人の公家。
近衛前久。
五摂家の筆頭、そして朝廷の重鎮である。
前久は深く頭を下げていた。
天皇は静かに言った。
「近衛」
「近頃の噂は聞いておるか」
前久はすぐに答えた。
「はい」
「豊穣の女神の噂にございます」
天皇はゆっくりと頷いた。
その名はすでに都にも届いている。
望月梓
織田家に仕える女商人。
荒れた土地に作物を育て、飢える民に食を与え、国を富ませる女。
その噂は日に日に大きくなっていた。
痩せた土地でも芋が育つ。
寒冷地でも穀物が実る。
飢饉が消えた。
民が豊かになった。
そして。
ある噂が広がっていた。
歳を取らない。
五年前と姿が変わらない。
年齢が止まっている。
その噂が都まで届く頃には、人々は彼女をこう呼び始めていた。
豊穣の女神。
天皇は庭を眺めながら言った。
「もしその話が真ならば」
「それは神であろう」
前久は慎重に答える。
「民の間ではすでに生き神と」
天皇はしばらく黙っていた。
風が松の枝を揺らす。
やがて静かに言った。
「ならば」
「会ってみたい」
前久が顔を上げる。
「帝……」
天皇は言葉を続けた。
「この国に現れた神ならば」
「帝が会わぬ道理はない」
確かにそうだった。
日本は神の国。
天皇はその神々を祀る存在。
もし本当に神のような存在が現れたならば。
天皇がそれを確認するのは当然のことだった。
だが問題がある。
望月梓は朝廷の人物ではない。
織田家の人物。
つまり。
織田信長の配下。
前久は慎重に言った。
「それには」
「まず織田信長殿を通す必要がございます」
天皇は頷いた。
「うむ」
「信長を呼ぼう」
数日後。
近江。
巨大な城。
安土城
その天守では織田信長が文を読んでいた。
差出人。
正親町天皇
信長はしばらく黙っていた。
そして。
笑った。
「ははは」
側に控えていた明智光秀が顔を上げる。
「殿」
「いかがなされました」
信長は文を渡した。
光秀が読み上げる。
「豊穣の女神と呼ばれる」
「望月梓に」
「帝が会いたいと」
光秀の目が大きくなる。
「帝が……」
信長は笑った。
「神に会う」
「当然だな」
そして言った。
「使者を出せ」
「望月梓を」
「安土城へ呼べ」
光秀は深く頭を下げた。
「御意」
一方その頃。
望月領。
館の広間では望月梓が帳簿を見ていた。
机の上には山のような書類。
農業生産。
流通。
銭の流れ。
すべての情報が集まっている。
頭の中ではIrisが報告していた。
『農業生産量 前年比四百六十パーセント』
『流通網 拡大』
梓は呟く。
「もう国家運営」
そこへ藤兵衛が慌てて飛び込んできた。
「梓様!」
「安土城から急使です!」
使者が広間に入る。
深く頭を下げた。
「申し上げます」
「織田信長様より御命」
梓は顔を上げる。
「何?」
使者は言った。
「帝」
「正親町天皇様が
「梓様との謁見を望んでおられます」
広間が凍りついた。
藤兵衛の声が裏返る。
「て……天皇!?」
梓はぽかんとした。
「私?」
使者は頷く。
「帝は申されました」
「生き神に会いたいと」
藤兵衛は青ざめる。
「神扱いされてます!」
梓は頭を抱えた。
「いや神じゃないから」
しかし現実は変わらない。
天皇が。
会いたいと言っている。
梓は深く息を吐いた。
「信長もいる?」
使者は答えた。
「安土城にて」
「帝との謁見が準備されております」
藤兵衛が呟く。
「歴史が壊れてます」
梓は苦笑した。
「まあ」
「行くしかないね」
こうして。
豊穣の女神と呼ばれる女。
望月梓
その存在はついに。
天皇の前へ出ることになった。
そして近いうちに。
安土城で。
帝。
正親町天皇
天下人。
織田信長
そして。
豊穣の女神。
望月梓
三者による。
戦国史に残る謁見が行われようとしていたのである。




