第79話 龍の契
越後の山々は、すでに冬の気配を帯びていた。
冷たい風が尾根を渡り、山上に築かれた巨大な山城の旗を揺らしている。
その城の名は――
春日山城。
北国最強と呼ばれる軍神、上杉謙信の居城である。
その日、城内の評定の間には、家臣たちが集められていた。
空気は重く、誰もが静まり返っている。
中央に座るのは、白装束の男。
上杉謙信。
その眼差しは静かでありながら鋭く、まるで戦場を見据える武将のそれだった。
やがて評定の間に一人の男が入ってくる。
直江景綱。
越後の重臣であり、謙信の信頼厚い家臣である。
直江は深く頭を下げた。
「戻りました」
謙信はゆっくりと目を開いた。
「……どうであった」
直江は静かに顔を上げる。
「望月梓様にお会いして参りました」
その名を聞いた瞬間、評定の間の空気がわずかに揺れた。
豊穣の女神。
北陸で急速に勢力を拡大している女。
織田家の財政と兵站を支え、国を富ませ、兵糧を無限に生み出すと噂される存在。
謙信は短く言った。
「条件は」
直江は一度目を閉じ、そして答えた。
「二つございます」
家臣たちは固唾を飲んで聞いている。
直江は言った。
「第一に」
「領地を持たぬこと」
一瞬で評定の間がざわついた。
「なに!?」
「領地なし!?」
「武将にとって領地は命だぞ!」
武将とは土地を治める存在。
土地を与えられ、その代わりに兵を出す。
それが戦国の仕組みだった。
だがその仕組みを――
否定する条件。
直江は続けた。
「第二に」
「報酬は銭による支払い」
さらにざわめきが広がった。
「銭!?」
「武将を雇うのか!?」
まるで町人のような制度だった。
だが。
謙信は笑った。
「なるほど」
家臣たちが静まり返る。
謙信はゆっくり立ち上がった。
「つまり」
「我らは」
「雇われるということか」
直江は静かに答える。
「その通りにございます」
しばし沈黙。
やがて謙信は窓の外を見た。
遠くの山々。
雪雲がゆっくり流れている。
彼は長い戦の人生を歩んできた。
川中島の戦。
幾度もの合戦。
武力こそが戦国の力だった。
だが。
最近の北国の戦は違う。
越中の陥落。
富山城の降伏。
それらは刀や槍ではなく。
兵糧と経済で決まった。
謙信は呟いた。
「時代が変わる」
彼は振り返る。
「直江」
「その女」
「どう見えた」
直江は迷いなく答えた。
「商人にございます」
「しかし」
「国を動かす力を持つ者です」
謙信は小さく笑った。
「面白い」
家臣たちはまだ戸惑っている。
だが謙信は決めていた。
「領地など要らぬ」
彼は戦が好きだった。
領地の経営などより。
戦場で軍を指揮する方が性に合う。
それに。
国を富ませる女の下で戦えば。
これまでとは違う戦が見られる。
謙信は言った。
「直江」
「返答せよ」
「条件」
「すべて受け入れる」
家臣たちが息を呑む。
「殿!」
だが謙信は静かだった。
「これからの世は」
「兵糧と銭の世」
「ならば」
「その頂点に立つ者に仕える」
そう言って笑った。
「悪くない」
数日後。
望月領。
梓の館の広間。
望月梓は書類を見ながら茶を飲んでいた。
頭の中ではIrisが淡々と報告している。
『北陸交易利益増加』
『農業生産量 前年比三百五十パーセント』
梓は苦笑する。
「もうよく分かんない数字」
そこへ藤兵衛が入ってきた。
「梓様」
「越後の使者です」
広間に入ってきたのは。
直江景綱。
彼は静かに膝をついた。
「ご返答申し上げます」
梓は言った。
「聞こう」
直江は頭を下げた。
「我が主」
「上杉謙信様は」
「条件をすべて受け入れます」
藤兵衛が思わず声を上げた。
「軍神が……!」
「雇われ武将に!?」
梓は静かに笑った。
「契約成立だね」
その言葉は軽かった。
だがその意味は重い。
北の軍神。
上杉謙信
彼はついに。
望月梓の軍となった。
戦国の歴史の中で。
初めて。
給料制の大名軍団が誕生した瞬間だった。
そしてこの出来事は。
やがて戦国の常識そのものを変えていくことになる。




