第75話 北国遠征
安土城の評定の間には、重い空気が漂っていた。壁に掛けられた絵図の前で、織田信長が腕を組んで立っている。
その視線の先には、北の地が描かれていた。
越前、加賀、能登。
かつてこの一帯は、朝倉義景の勢力圏であった。しかし今、その朝倉はすでに滅びている。一乗谷城は炎に包まれ、朝倉家は歴史から姿を消した。
だが、北国はまだ完全には織田のものではなかった。
信長は低く言った。
「朝倉は滅んだ」
重臣たちが静かに頷く。
柴田勝家が前に出た。
「しかし北国はまだ荒れております」
信長の視線が鋭くなる。
「一向宗か」
勝家は深く頷いた。
加賀は、今や一向宗の国と呼ばれていた。武士ではなく、僧と農民が国を支配する異様な土地である。
寺を中心に武装した門徒たちが結束し、どの大名の支配も受け付けない。
光秀が言った。
「さらに越中では上杉謙信が動きを見せております」
信長の口元が歪む。
「面白い」
北はまさに火薬庫だった。
信長は静かに振り返る。
「勝家」
「はっ」
「北国はお前に任せる」
勝家の目が鋭く光る。
「必ずや平らげてみせます」
信長は続けた。
「ただし」
その言葉に重みがあった。
「今回は戦だけではない」
視線が光秀へ向く。
「兵糧」
光秀はすぐに理解した。
今までの戦とは違う。
北国は寒く、土地は痩せている。長期戦になれば兵糧が尽きる。
だが――。
信長は微笑んだ。
「問題はない」
理由は一つ。
望月梓
その頃、望月領では荷車がひっきりなしに動いていた。
大きな倉庫の前で、人夫たちが米俵を積み上げている。
「急げ!」
「北国へ送るぞ!」
指揮をしているのは藤兵衛だった。
倉庫の中には山のような食料がある。
米。
麦。
干し芋。
塩。
干し肉。
まるで国の備蓄のようだった。
縁側でその光景を見ている望月梓は、湯呑みを持ちながら呟いた。
「戦争モードだね」
頭の中でIrisが答える。
『織田軍の兵力は約三万』
「三万か」
梓は空を見上げた。
「兵糧すごい量だね」
『現在の備蓄量で一年は可能です』
梓は苦笑した。
「私、商人なんだけど」
だが現実には、彼女は織田軍の兵站を握っていた。
ChronoShopで購入した保存食。
高栄養の乾燥食品。
効率的な物流。
それらによって、織田軍の兵糧事情は劇的に改善されていた。
この時代の軍は、食料で動く。
食料が尽きれば敗北する。
つまり――。
兵糧を握る者が戦を制する。
梓は静かに言う。
「これ、完全に戦争ビジネスだよね」
『否定できません』
その時、門番が叫んだ。
「織田の使者!」
しばらくして庭に一人の武将が現れた。
前田利家である。
利家は膝をついた。
「梓殿」
「信長様より言伝て」
梓は首を傾げる。
「何?」
利家は真顔で言った。
「北国遠征にて、兵糧の供給を頼みたい」
梓は笑った。
「もう送ってるよ」
利家は驚いた。
「……は?」
梓は指を立てる。
「三日前に出発した」
利家は絶句した。
「信長様の命が出たのは昨日ですが」
梓は肩をすくめた。
「予測」
頭の中でIrisが言う。
『戦略行動予測成功率九十二パーセント』
利家は呆然としていた。
「……女神」
思わず呟いた。
梓はすぐ否定する。
「違う」
だが利家は真顔だった。
「いや」
「これはもう女神だ」
一方、北国では戦が始まっていた。
越前の山道を、織田軍が進む。
先頭に立つのは柴田勝家。
その後ろには三万の兵。
勝家は笑った。
「兵糧が尽きぬ戦とは楽なものよ」
荷車には大量の食料が積まれている。
兵士たちの顔にも余裕があった。
「腹いっぱい食える」
「これなら戦える」
戦場で最も重要なのは士気である。
そして士気は腹で決まる。
その兵糧を支えているのは――。
望月梓。
勝家は空を見上げた。
「豊穣の女神か」
噂はすでに兵の間にも広がっていた。
畑を蘇らせる女。
食料を生む女。
歳を取らぬ女。
兵たちは自然に言った。
「女神様がついてる」
その言葉は兵の心を強くした。
戦は、まだ始まったばかりだった。
だが北国の地で、すでに織田軍は一つの優位を持っていた。
それは兵数でも武器でもない。
尽きない兵糧
その源にいるのは一人の女。
商人であり。
領主であり。
そして民が神と呼ぶ存在。
望月梓
戦国の戦は今。
刀と鉄砲だけではなく。
経済と兵站の戦いへと変わり始めていた。




