第74話 神威拡大
秋も深まり、近江の空気は澄み渡っていた。遠く琵琶湖の湖面には朝日が差し込み、黄金色の光が水面をきらめかせている。その湖を見下ろすようにそびえる安土城の天守では、織田信長が静かに盃を傾けていた。
広間には重臣たちが並んでいる。明智光秀、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀。いずれも織田家の中枢を担う武将である。
信長はゆっくりと口を開いた。
「最近、面白い噂を聞く」
秀吉がすぐに笑顔で応じる。
「豊穣の女神、でございますな」
信長は軽く頷いた。
「そうだ」
その名は今や多くの地で知られていた。
近江の農村。
美濃の市場。
尾張の町。
そしてついには京でも語られている。
作物を豊かに実らせる女。
未来の知識を持つ女。
歳を取らぬ女。
人々はそれを一つの存在に結びつけた。
望月梓
光秀が報告する。
「噂はさらに広がっております」
「伊勢、大和、さらには播磨でも語られております」
勝家が腕を組んだ。
「ただの領主の女であろう」
「なぜそこまで噂になる」
秀吉が笑う。
「それは簡単です」
「腹が満ちるからです」
秀吉の言葉に場が静まる。
腹が満ちる。
それは民にとって何よりの奇跡であった。
飢えない。
それだけで人は感謝する。
そしてその恵みを与える存在を、人は自然に神と呼ぶ。
信長は盃を置いた。
「神を否定するつもりはない」
むしろ。
信長はその力をよく知っていた。
「神とは」
「人の心を支配するものだ」
信長はゆっくり笑う。
「ならば利用する」
重臣たちは黙って頷いた。
信長の視線は遠く望月領の方角へ向いていた。
「梓」
「お前は良い神だ」
その頃――
望月領では、収穫祭が行われていた。
広い畑に人々が集まり、笑い声が響いている。
麦、芋、豆、野菜。
山のような作物が積まれていた。
農民の佐助が驚いた声を出す。
「こんなに取れるとはなぁ」
隣の新吉も笑う。
「去年の三倍はあるぞ」
実際、その収穫量は異常だった。
理由は三つ。
新しい種。
新しい肥料。
そして効率的な農法。
そのすべては望月梓が持ち込んだものだった。
屋敷の縁側で、その光景を見ている本人は苦笑していた。
「また拝んでる」
門の外では農民たちが手を合わせている。
「女神様……」
「ありがとうございます……」
梓は頭を抱えた。
「Iris」
『はい』
「完全に宗教だよね」
『統計的にその可能性が高いです』
梓はため息をつく。
「私はただの商人なんだけど」
しかし事実は違った。
梓が導入した農業改革は、この時代では革命的だった。
肥料。
輪作。
種の選別。
農具の改良。
それらが組み合わさった結果、収穫量は飛躍的に増えた。
さらに。
梓は教育も広めていた。
望月学舎では、子供たちが文字と算数を学んでいる。
農民の子供も例外ではない。
読み書きができる農民。
計算ができる商人。
それはこの時代では異常だった。
さらに中等教育では専門技術を教えている。
医術。
鍛冶。
大工。
行政。
航海術。
その結果。
望月領は急速に発展していた。
町ができ。
市場が広がり。
人が集まる。
まるで一つの国のようだった。
梓は空を見上げる。
「五年前はただの荒地だったのに」
Irisが答える。
『現在人口は三倍に増加しています』
「だよね」
その時、家臣の藤兵衛が駆け込んできた。
「領主様!」
「どうした」
「旅の商人が大勢来ております!」
梓は立ち上がる。
門の外には人の列ができていた。
商人。
農民。
旅人。
皆が同じ事を言う。
「女神様の種をください」
「女神様の肥料を」
梓は思わず笑った。
「人気商品だな」
頭の中でIrisが言う。
『市場支配率が上昇しています』
梓は頷く。
「いいね」
ChronoShopで仕入れた種と肥料。
それを販売する。
結果。
周辺地域の農業は望月領に依存し始めていた。
梓は小さく呟く。
「これ」
「もう市場コントロール成功してるよね」
その頃。
安土城では信長が笑っていた。
「面白い」
光秀が言う。
「何がでしょう」
信長は答える。
「神が商売をしている」
その言葉に広間が静まる。
信長は盃を掲げた。
「天下とは」
「力だけでは取れぬ」
そして言う。
「食」
「金」
「信仰」
「この三つがあれば国は動く」
信長の視線は遠くを見ていた。
望月梓。
豊穣の女神。
その存在は、すでに一人の領主の枠を超えていた。
民の信仰。
市場の中心。
食料の供給源。
そのすべてを握る存在。
信長は低く笑った。
「天下が近い」
戦国の世は、今。
新しい力によって動き始めていた。
それは刀でも鉄砲でもない。
民の腹を満たす力。
豊かな実りをもたらす力。
そして人々が祈る存在。
豊穣の女神
望月梓
その名は今、静かに。
だが確実に。
戦国の日本全土へと広がり続けていた。




