第73話 神威広まる
安土城の天守から見える琵琶湖は、秋の空を映して深い青色に染まっていた。風は穏やかで、湖面を渡る舟もゆっくりと進んでいる。
その天守の広間で、織田信長は地図を眺めていた。
机の上に広げられているのは、日本各地の絵図である。
尾張、美濃、近江、伊勢、越前。
多くの地に、織田家の支配が広がっていた。
信長は地図の一角を指で叩く。
「光秀」
「はい」
後ろに控えている明智光秀が静かに答える。
「例の女神の噂、どこまで広がった」
光秀は一礼してから言った。
「すでに京でも語られております」
信長の眉がわずかに動いた。
「京か」
それはただの町ではない。
公家も寺も集まる、日本の中心である。
そこにまで噂が届いているという事は――。
信長はゆっくりと笑った。
「面白い」
光秀は続ける。
「噂の内容は様々ですが……」
「主に三つでございます」
「言え」
「一つ、痩せた土地でも作物を実らせる」
「二つ、未来の知識を持つ」
「三つ」
光秀は一瞬言葉を止めた。
そして言った。
「歳を取らぬ女神」
広間の空気が静かに揺れる。
信長は低く笑った。
「ははは」
「民とは面白いものだ」
だがその笑いの奥には、計算があった。
信長は言う。
「その噂」
「止めるな」
光秀は頷いた。
「承知」
信長は椅子に深く腰掛ける。
「神がいる国」
「悪くない」
その神とはもちろん――
望月梓
その頃。
望月領では、新しい畑が作られていた。
広い土地が耕され、整然と畝が並んでいる。
農民たちは汗を流しながら働いていた。
「すごいなぁ……」
若い農民の新吉が言った。
「去年まで荒地だったのに」
隣で鍬を振るう佐助が笑う。
「女神様のおかげだ」
その言葉は自然に出たものだった。
畑の端では子供たちが遊んでいる。
その向こうには、新しい建物が建っていた。
木造の大きな建物。
そこは――学校である。
門の上には看板が掲げられていた。
望月学舎
中では子供たちが机に向かっていた。
黒板の前に立つのは教師の藤兵衛。
「いいか」
「これは一」
板に文字を書く。
「一」
子供たちが声をそろえる。
「いち!」
この時代の農民はほとんど文字を知らない。
だがこの領では違う。
文字を学ぶ。
計算を学ぶ。
それが義務になっていた。
屋敷の書斎では望月梓が書類を見ていた。
「学校の人数」
頭の中に声が響く。
『現在三百二十四名』
Irisの声である。
梓は頷いた。
「順調だね」
この学校は二つの段階に分かれていた。
小学校。
文字と算数を学ぶ。
中学校。
専門技術を学ぶ。
鍛冶。
大工。
医術。
行政。
船の操縦。
この時代ではあり得ない教育制度だった。
梓は椅子にもたれながら言う。
「五年でここまで来たか」
最初は小さな村だった。
貧しい土地。
痩せた畑。
だが今は違う。
作物は豊か。
市場は活発。
学校もある。
人も増えている。
梓は空を見た。
「……ほんとに国みたい」
その時。
門番が駆け込んできた。
「領主様!」
「どうした」
「旅の僧が参っております!」
しばらくして。
庭に一人の僧が通された。
年配の僧である。
名を玄海という。
玄海は深く頭を下げた。
「豊穣の女神様」
梓はすぐに言う。
「違います」
僧は穏やかに笑う。
「謙遜なされるな」
「すでに京ではその名で呼ばれております」
梓は目を丸くした。
「京?」
玄海は頷いた。
「はい」
「寺でも噂になっております」
その噂とは。
痩せた土地を蘇らせる女神。
未来の知識を持つ女。
年を取らない存在。
玄海は静かに言った。
「民は皆、祈っております」
そして手を合わせた。
「豊穣の女神」
「望月梓様」
梓は頭を抱えた。
「Iris」
『はい』
「全国区になってる」
『その可能性が高いです』
梓は天を仰ぐ。
「なんでこうなるの」
しかし。
この噂を最も喜んでいる男がいる。
安土城。
信長は報告を聞いていた。
京でも噂が広がった事。
寺でも語られている事。
信長は静かに笑った。
「よし」
光秀が聞く。
「何がよろしいので」
信長は答えた。
「天下を取る」
そして指を立てる。
「刀で半分」
「神で半分」
戦国の世。
武力がすべてだと思われている。
だが信長は知っていた。
信仰は国を動かす。
そしてその中心にいるのは。
豊かな実りをもたらす女。
未来の知識を持つ女。
豊穣の女神
望月梓
その名は今。
村から町へ。
町から国へ。
静かに。
だが確実に。
戦国の日本全土へ広がり続けていた。




