第72話 豊穣神梓
初夏の風が、近江の大地を静かに撫でていた。
琵琶湖の湖面は朝の光を受け、きらきらと揺れている。その湖を見下ろす高台に築かれた安土城の天守では、織田信長が腕を組みながら遠くの景色を眺めていた。
背後には明智光秀が控えている。
信長はふと口を開いた。
「光秀」
「はい」
「近頃、妙な噂を聞く」
光秀は穏やかな声で答えた。
「豊穣の女神、にございますね」
信長はゆっくりと振り返った。
その口元には、いつもの鋭い笑みが浮かんでいる。
「そうだ」
「女神だ」
光秀は続ける。
「近江だけではございません」
「美濃、尾張、さらには越前にまで噂が広がっております」
信長は低く笑った。
「広がったか」
その名は今、各地の村で語られていた。
痩せた土地でも作物が育つ。
枯れた畑が黄金色の麦畑になる。
飢えに苦しんでいた村が豊かになる。
そして、その奇跡を起こす存在の名が――
望月梓
人々は言う。
彼女は女神だと。
その頃。
望月領では、大きな畑が黄金色に染まっていた。
麦が風に揺れている。
農民たちは鎌を手に収穫をしていた。
「すごい……」
若い農民の新吉が呟いた。
「こんな収穫、見た事ねぇ」
隣にいた佐助も笑う。
「去年まで雑草しか生えなかった土地だぞ」
その土地は元々、やせた荒地だった。
作物などまともに育たない。
だから村人たちは長い間、貧しさに苦しんでいた。
だが。
五年前。
一人の領主がこの土地に現れた。
望月梓。
最初はただの若い女領主にしか見えなかった。
しかし彼女は次々と不思議な事をした。
新しい種を持ち込み。
奇妙な肥料を使い。
畑の耕し方まで変えた。
最初は誰も信じなかった。
だが結果はすぐに現れた。
収穫量が増えた。
倍どころではない。
三倍、四倍に増えた。
やがて人々は言い始めた。
これは奇跡だ。
女神がいるのだと。
畑の端では老婆のお梅が手を合わせていた。
「女神様……」
「ありがたい事じゃ……」
その言葉は自然に広がっていった。
屋敷の縁側で、その様子を見ている人物がいた。
望月梓。
年齢は二十五歳。
現代日本から戦国時代へ来てしまった商人である。
彼女は小さく息を吐いた。
「また拝んでる」
頭の中に声が響く。
『はい、マスター』
自律型AI。
Iris。
梓は苦笑した。
「私、完全に神様扱いされてるよね」
『その通りです』
梓は遠くの畑を見る。
黄金色の麦。
豊かな作物。
「まあ」
「食べ物が増えるならいいか」
だが。
この噂は村の中だけでは終わらなかった。
収穫された作物は市場へ運ばれる。
美濃の市場。
尾張の市場。
近江の市場。
そして商人たちが驚いた。
「なんだこの麦」
「粒が大きいぞ」
「しかも安い」
商人が聞く。
「どこの作物だ」
農民は答える。
「望月領だ」
すると必ず続く言葉があった。
「女神の土地だ」
それが噂の始まりだった。
やがて旅人が聞く。
僧が聞く。
武士が聞く。
話はどんどん大きくなる。
痩せた土地を豊かな畑に変える女。
未来の種を知る女。
年を取らない女。
そしてついに呼ばれるようになった。
豊穣の女神
望月梓
数ヶ月後。
安土城。
広間では羽柴秀吉が報告していた。
「殿」
「面白い事になっております」
信長は笑う。
「言え」
秀吉は言った。
「今や市場では」
「望月の作物が一番人気です」
信長は眉を上げた。
「ほう」
秀吉は続ける。
「理由は簡単です」
そして笑った。
「女神の恵みだから、でございます」
広間で笑いが起きる。
だが信長は真面目な顔になった。
「……悪くない」
光秀が言う。
「信仰は強い力になります」
信長は頷く。
「戦をするより早い」
民が自ら従う。
それが信仰の力だ。
その夜。
望月領。
梓は夜空を見上げていた。
星が静かに輝いている。
門の外では人々が祈っていた。
「女神様……」
「今年も豊作を……」
梓はため息をついた。
「Iris」
『はい』
「なんでこうなった」
AIは冷静に答える。
『作物の生産量が異常なためです』
梓は苦笑する。
「まあ」
「人が飢えないならいいか」
だが彼女はまだ知らない。
この噂が。
この信仰が。
やがて日本全体を巻き込む事になるのを。
そしてその中心にいるのが。
豊かな畑を生み出す女。
未来の知識を持つ女。
年を取らない女。
豊穣の女神
望月梓
その名は今。
戦国の日本に静かに広がり続けていた。




