第66話 越前決戦
夏の終わり。
越前の空には重い雲が垂れ込めていた。
谷間に広がる一乗谷の町は、かつての賑わいを失い始めている。
商人の声は減り、荷車の往来も少ない。
城下町に漂う空気は、どこか重苦しい。
その原因は明白だった。
市場が止まり始めているのだ。
一乗谷城の広間。
朝倉義景は苛立ちを隠さなかった。
「米はどうした」
家臣が頭を下げる。
「城下の商人が……」
言葉を濁す。
義景は机を叩いた。
「またか!」
家臣の一人、朝倉景鏡が静かに言う。
「殿」
「商人たちは恐れております」
「誰をだ」
景鏡は答えた。
「望月梓」
その名を聞いた瞬間、義景の表情が歪む。
ただの女商人。
だがこの数ヶ月で、一乗谷の市場を掌握した女。
兵糧。
塩。
鉄。
薬。
すべての流通が彼女の網に絡め取られている。
義景は低く言った。
「捕まえろ」
「城下の商人をすべて調べろ」
だが景鏡は首を振った。
「殿」
「すでに……遅いかと」
同じ頃。
近江と越前の境。
木ノ芽峠。
そこには巨大な軍勢が集結していた。
旗が風に翻る。
織田木瓜紋。
織田信長の軍勢だった。
槍が林のように並ぶ。
鉄砲隊。
騎馬隊。
兵の数は三万を超えている。
その陣の一角。
望月梓は帳簿を開いていた。
周囲には兵糧の山。
米俵。
塩袋。
鉄器。
薬。
彼女の視界には半透明のウィンドウが浮かぶ。
「Iris」
『はい、マスター』
「兵糧在庫」
『現在、織田軍三ヶ月分確保』
梓は頷いた。
「十分」
信長の軍勢は巨大だ。
だが戦に必要なのは兵だけではない。
兵糧。
それを支配しているのが梓だった。
その時。
背後から声がした。
「梓」
振り向くと、織田信長が立っていた。
赤い陣羽織を翻している。
信長は周囲の兵糧を見て笑った。
「すごい量だな」
梓は軽く頭を下げた。
「市場を握れば兵糧は集まります」
信長は豪快に笑う。
「戦より先に勝っているな」
そして地図を広げた。
越前。
その中央に一乗谷城。
信長は指でそこを叩く。
「ここを落とす」
梓は静かに言った。
「城はもう孤立しています」
信長は目を細めた。
「ほう」
「城下町の商人」
「半分以上はこちらです」
さらに梓は言う。
「兵糧も不足」
信長は愉快そうに笑った。
「ははは!」
「ならば」
刀を抜き、空へ掲げる。
「攻めるだけだ」
三日後。
越前の谷に戦の太鼓が鳴り響いた。
ドン……ドン……
織田軍が動く。
槍隊が進む。
鉄砲隊が並ぶ。
そして前線には柴田勝家の軍。
勝家は大声で叫んだ。
「進めぇ!!」
兵たちが山を下る。
その先にあるのは一乗谷。
一方。
一乗谷城の城壁。
朝倉義景は遠くの軍勢を見ていた。
織田軍の旗。
その数は圧倒的。
義景は歯を食いしばる。
「……来たか」
だが城の兵たちは疲れていた。
兵糧不足。
士気低下。
そして。
城下町の商人たちが動かない。
義景は呟いた。
「……あの女」
同じ頃。
戦場から少し離れた丘。
望月梓は静かに戦場を見ていた。
煙が上がる。
槍がぶつかる。
鉄砲の音。
だが彼女の表情は冷静だった。
「Iris」
『はい』
「市場状況」
『越前物流、織田側九十二パーセント掌握』
梓は頷く。
「もう終わる」
戦は刀で決まる。
そう思われている。
だが実際は違う。
勝敗はもっと前に決まっている。
市場。
物流。
金。
それを握った者が勝つ。
梓は遠くの城を見る。
一乗谷城。
かつて北陸最強と言われた城。
だが今。
その城はゆっくりと崩れていた。
やがて。
谷の奥から煙が上がった。
一乗谷の町。
戦が本格的に始まったのだ。
梓は静かに呟いた。
「終わりですね」
遠くで太鼓が鳴り響く。
そして戦国の一大勢力。
朝倉家の運命が。
今まさに決まろうとしていた。




