第65話 越前崩落
初夏の風が越前の谷を吹き抜けていた。
谷間に広がる美しい城下町――一乗谷。
文化と繁栄で知られたこの町は、長く朝倉家の栄華を支えてきた。
だが今、その繁栄は静かに崩れ始めていた。
原因は戦ではない。
火でも槍でもない。
市場である。
一乗谷の市場では、最近ある異変が起きていた。
「塩が足りない」
「米も高くなっている」
商人たちが困惑している。
それも当然だった。
城下町の多くの商人が、ある人物の流通網に組み込まれていたからだ。
その人物。
望月梓。
二十五歳の女商人。
そして織田信長に仕える商人。
彼女は今、町の宿で帳簿を見ていた。
机の上には契約書の束。
そして視界には半透明のボードが浮かんでいる。
「Iris」
『はい、マスター』
「市場支配率」
地図が表示された。
一乗谷全体に青い印が広がっている。
『現在、七十一パーセント』
梓は静かに頷いた。
「十分」
城下町の市場はほぼ掌握した。
そして城内の商人も数人が契約している。
つまり。
兵糧と物流の流れを制御できる。
梓は窓の外を見る。
遠くに一乗谷城の屋根が見えた。
「朝倉義景」
小さく呟く。
「そろそろ終わり」
一方。
一乗谷城の広間。
朝倉義景は不機嫌そうに座っていた。
家臣たちが報告を続ける。
山崎吉家が言う。
「殿」
「兵糧の入荷が減っています」
別の家臣、朝倉景鏡も続ける。
「城下町の商人が物資を売り渋っています」
義景は苛立った。
「理由は」
吉家は答える。
「……望月梓」
広間が静まり返る。
義景の目が細くなる。
「またその女か」
最近、この名ばかり聞く。
商人。
ただの商人。
だが。
城下町の市場は確実に変わっている。
義景は杯を強く置いた。
「捕らえろ」
広間がざわめいた。
「城下町にいるのだろう」
「その女を捕えよ」
家臣たちは顔を見合わせる。
だが一人が言った。
「……殿」
「すでに姿を消しています」
義景の顔が歪んだ。
その頃。
一乗谷から少し離れた山道。
商隊が静かに進んでいた。
荷車が数台。
その先頭にいるのは、望月梓。
彼女は振り返り、谷を見た。
遠くに一乗谷城が見える。
「Iris」
『はい』
「市場状況」
『一乗谷市場、支配率七十九パーセント』
梓は小さく笑った。
「もう十分」
彼女の目的はすでに達成されている。
市場。
物流。
城内商人。
すべて繋がった。
後は。
戦が始まれば終わる。
数日後。
近江の虎御前山。
織田信長の陣。
信長は大きく笑っていた。
「ははは!」
「朝倉義景の国が揺れているそうだな」
家臣たちが頷く。
そこに梓が入ってきた。
「報告です」
信長は興味深そうに見る。
「どうなった」
梓は静かに答える。
「越前の市場、ほぼ掌握」
広間がざわめいた。
信長は笑う。
「城を攻める前に国を取ったか」
梓は穏やかに言った。
「商売ですから」
信長は愉快そうに言う。
「面白い女だ」
そして地図を叩いた。
「ならば」
「次は戦だ」
信長の目が鋭く光る。
「朝倉家を潰す」
その夜。
梓は陣の外で星空を見上げていた。
「Iris」
『はい』
「次の戦」
少し考える。
そして言った。
「兵糧」
「武器」
「薬」
全部。
「準備して」
Irisが答える。
『了解』
遠く北の空。
越前の山々が暗く沈んでいる。
そこにあるのは一乗谷城。
だがその城はもう孤立していた。
市場も。
物流も。
すべて。
一人の女商人の手の中にある。
戦国の歴史は今。
再び、大きく動こうとしていた。




