第64話 城内浸透
春の霧が谷を覆う朝。
越前の中心地、一乗谷の町はまだ静かな眠りの中にあった。
しかし、その静けさの裏では見えない動きが始まっていた。
町の北門から、一人の旅商人が城へ向かって歩いていた。
荷を背負い、顔には疲れたような表情。
どこにでもいる商人に見える。
だがその正体は、甲賀の忍び。
影丸の配下だった。
門番が声をかける。
「止まれ」
「何用だ」
忍びは深く頭を下げる。
「薬の行商でございます」
門番は袋を覗き込む。
乾燥した薬草。
粉薬。
そして小瓶。
どれも珍しいものではない。
門番はうなずいた。
「通れ」
門が開く。
忍びは静かに城内へ入った。
これが一乗谷城内部への最初の侵入だった。
その頃、一乗谷の宿。
望月梓は机の前に座っていた。
帳簿と契約書が整然と並んでいる。
彼女の視界には半透明のボードが浮かんでいた。
「Iris」
『はい、マスター』
「潜入状況」
地図が浮かび上がる。
城の内部に小さな青い点が一つ表示された。
『一乗谷城内部、潜入成功』
梓は小さく息を吐いた。
「順調」
市場の半分はすでに掌握している。
だが梓の狙いはそこではない。
城の中。
そこにいる商人。
城の兵糧や物資を扱う者たちを握れば、戦が始まる前に勝負は決まる。
梓は静かに言った。
「城内の商人」
「数は」
『主要商人、十二名』
梓は頷く。
「そのうち五人」
「契約を取る」
同じ頃。
一乗谷城の城下倉庫。
忍びは薬売りとして店を開いていた。
そこへ一人の男が来る。
年配の商人。
小寺与三郎。
城内で兵糧を扱う商人だった。
与三郎は薬を手に取りながら言う。
「旅の商人か」
「はい」
「どこから来た」
忍びは静かに答えた。
「近江」
その言葉に、与三郎は少し眉を動かした。
「近江……」
最近よく聞く国名。
そして一人の女商人。
忍びは薬袋を差し出す。
「良い薬です」
「城の兵にも効きます」
与三郎は袋を受け取る。
その中に、小さな紙が入っていた。
忍びは何も言わない。
与三郎は紙をちらりと見る。
そこには短く書かれていた。
望月梓
与三郎の手が止まる。
忍びは静かに言った。
「話があるそうです」
その夜。
一乗谷の町外れ。
小さな蔵の中。
与三郎は一人の女と向き合っていた。
望月梓。
彼女は穏やかに微笑んでいる。
「初めまして」
「小寺与三郎さん」
与三郎は腕を組んだ。
「城内に忍びを入れるとは大胆だ」
梓は肩をすくめる。
「商売ですから」
与三郎は苦笑する。
「商売ね」
「だが城の商人を引き抜けば」
「殿が黙っていない」
梓は静かに帳簿を差し出した。
「利益は三倍」
与三郎の目がわずかに開いた。
さらに梓は言う。
「兵糧の安定供給」
「鉄器も」
「薬も」
与三郎は黙り込む。
城の中では最近、物資不足の兆しが出ていた。
市場が変わっているからだ。
もしこの女の流通を使えれば――
商売は大きくなる。
やがて与三郎は言った。
「……条件は」
梓は微笑んだ。
「簡単です」
「流通契約」
帳簿を差し出す。
与三郎はしばらくそれを見ていた。
そして。
ゆっくりとうなずいた。
「乗ろう」
こうして。
一乗谷城の内部にも。
望月梓の流通網が入り込んだ。
数日後。
一乗谷城の広間。
朝倉義景は家臣の報告を聞いていた。
「殿」
「城内の物資が減っています」
義景は眉をひそめる。
「なぜだ」
家臣が答える。
「市場が……変わりました」
その言葉に広間が静まる。
義景はゆっくりと立ち上がった。
「その女」
「名は」
家臣は答える。
「望月梓」
義景は小さく呟いた。
「……またか」
一方。
宿の窓辺で、梓は夜空を見上げていた。
「Iris」
『はい』
「城内契約」
『現在二名』
梓は小さく笑った。
「いい流れ」
市場。
城下町。
そして城の中。
すべてがゆっくりと繋がっていく。
遠くに一乗谷城の灯が揺れていた。
その城はまだ強い。
だが。
梓は静かに呟いた。
「城は外からじゃなく」
「中から崩れる」
戦国の城は今。
刀ではなく。
商人の網によって静かに包囲されていた。




