第63話 義景動揺
春の陽が差し込む越前の谷。
文化と栄華で名を馳せた城下町――一乗谷。
だがその町では、静かな変化が広がっていた。
市場である。
最近、城下町の商人たちはある女の話ばかりしていた。
「また来たぞ」
「近江の女商人」
「米も塩も安すぎる」
その名は望月梓。
二十五歳の女商人。
そして織田信長の配下として動く人物である。
彼女の商隊は今日も一乗谷の市場に店を出していた。
山のように積まれた米袋。
白く輝く塩。
鍋や包丁などの鉄器。
それらはどれも質が良く、しかも安い。
人々は群がるように買っていく。
「米を二袋!」
「塩もくれ!」
客は途切れない。
梓は穏やかな笑顔で応対していた。
しかしその視界の奥には、半透明のボードが浮かんでいる。
「Iris」
『はい、マスター』
「市場掌握率」
地図が表示される。
青い印が一乗谷の市場に広がっていた。
『現在、五十二パーセント』
梓は小さく頷く。
「半分を超えた」
ここまで来れば流れは止まらない。
商人は利益で動く。
価格と供給を握れば、市場は自然と従う。
梓は静かに言った。
「次は」
「城」
その頃。
一乗谷城の広間では、朝倉義景が家臣たちと会議をしていた。
義景は豪華な装束をまとい、ゆったりと座っている。
文化人として知られる彼は、武よりも雅を好む男だった。
だが今日の広間は重い空気に包まれていた。
家臣の山崎吉家が口を開く。
「殿」
「城下町の市場の件ですが」
義景は退屈そうに言った。
「またか」
「ただの商人だろう」
だが吉家は首を振った。
「それが……ただの商人ではありません」
義景は眉をひそめた。
「どういうことだ」
吉家は続ける。
「商人の多くがその女と契約しています」
「流通も握られ始めています」
広間がざわめいた。
別の家臣、朝倉景鏡が言う。
「殿」
「このままでは城下の商人が朝倉家ではなく、その女に従います」
義景の顔がわずかに険しくなった。
「名は」
吉家は答える。
「望月梓」
義景はしばらく黙っていた。
そして小さく呟く。
「望月梓……」
その名は聞いたことがある。
浅井家を市場から崩した女。
噂だけは耳にしていた。
義景はゆっくりと杯を置いた。
「商人一人に市場を奪われるなど」
「あり得ぬ」
だが家臣たちは黙ったままだった。
誰も笑わない。
それが現実だからだ。
一方。
一乗谷の宿。
梓は帳簿を眺めていた。
机の上には契約書が積まれている。
すべて越前の商人たちとの契約だ。
「Iris」
『はい』
「商人契約数」
『六十三名』
梓は小さく笑った。
「十分ね」
城下町の商人の半分以上が彼女の流通網に入った。
つまり。
物流の半分が掌握された。
梓は窓の外を見る。
遠くに一乗谷城が見える。
「朝倉義景」
小さく呟く。
「そろそろ気づく頃ね」
城はまだ強い。
兵も多い。
だが。
城が生きるためには物資が必要だ。
米。
塩。
鉄。
薬。
それらが止まればどうなるか。
梓はすでに知っている。
小谷城で証明した。
彼女は静かに帳簿を閉じた。
「次の段階」
「城の内部」
その夜。
甲賀の忍び、影丸が宿に現れた。
「お呼びでしょうか」
梓は頷く。
「一乗谷城に忍びを入れて」
影丸は目を細めた。
「潜入ですか」
「ええ」
梓は静かに言う。
「城の商人と接触」
「契約を取る」
影丸は低く笑った。
「城の中の市場まで」
「取る気ですね」
梓は微笑んだ。
「商売ですから」
外では夜風が吹いていた。
谷の奥にある一乗谷城の灯が揺れている。
城はまだ静かだった。
だがその足元では。
市場という名の戦が着実に進んでいた。
そしてその中心にいるのは。
刀ではなく帳簿を持つ女。
望月梓。
戦国の歴史は今。
再び、商人の手によって動こうとしていた。




