第61話 越前商戦
近江の市場が完全に統一されてから、しばらくの時が流れた。
かつて浅井家の支配下にあった城下町や宿場町は、今ではすべて望月梓の流通網の中に組み込まれている。
米、塩、鉄、薬、布。
あらゆる物資が整然と動き、商人たちは以前よりも安定した利益を得ていた。
市場は静かに、しかし確実に変わっていた。
その中心にいるのが、二十五歳の女商人――望月梓。
彼女は今、虎御前山の陣の天幕で地図を見つめていた。
「Iris」
『はい、マスター』
「次の目標」
半透明の地図が浮かぶ。
近江の北。
山を越えた先。
そこにある国――
越前。
梓は静かに言った。
「ここ」
『越前です』
その国は今、朝倉義景が治めている。
かつて浅井長政と同盟を結び、織田信長と戦った大名。
浅井が滅んだ今も、信長にとっては油断できない相手だった。
梓は地図を見ながら言う。
「浅井家が滅びた」
「次に狙われるのは」
「朝倉家」
Irisが答える。
『可能性、非常に高いです』
梓は小さく笑った。
「なら」
「先に市場を取る」
それが彼女の戦い方だった。
城を落とす前に。
戦が始まる前に。
市場を支配する。
それが一番効率的だからだ。
数日後。
近江北部の街道。
商人の隊列がゆっくりと進んでいた。
荷車が十台。
米袋、布、鉄器が積まれている。
隊の先頭には一人の女。
望月梓。
護衛として数人の忍びが同行している。
甲賀の忍びたちだ。
その頭領、影丸が言った。
「この先が越前の境」
梓は頷く。
「市場の様子は?」
影丸は答えた。
「一乗谷の城下町は大きい」
「だが物流は弱い」
それは重要な情報だった。
一乗谷城。
朝倉義景の本拠。
その城下町は栄えているが、山に囲まれた地形のため物資の流れが遅い。
つまり。
外からの流通に弱い。
梓は微笑んだ。
「いいわ」
「商売になる」
数日後。
一乗谷城下町。
大きな市場が開かれていた。
布、米、塩、魚。
多くの商人が店を出している。
そこへ、新しい商隊が入ってきた。
近江から来た商隊。
梓たちだった。
梓は周囲を観察する。
「……なるほど」
市場は賑わっている。
だが商品は少ない。
質もあまり良くない。
つまり。
供給不足。
梓は静かに呟いた。
「これは簡単ね」
彼女は荷車を止める。
そして無限収納から商品を取り出す。
塩。
白く美しい粒。
米。
粒の揃った上質な米。
そして鉄器。
包丁や鍋。
商人たちはすぐに気づいた。
「なんだあれ」
「見たことない塩だ」
客が集まり始める。
梓は穏やかに言った。
「安く売ります」
その価格を聞いた瞬間。
市場がざわめいた。
「安すぎる!」
「信じられない!」
それも当然だった。
梓はChronoShopで仕入れた商品を売っている。
この時代の価格より遥かに安い。
客は一気に集まった。
米は瞬く間に売れ。
塩も。
鉄器も。
すべて売れていく。
市場の商人たちは青ざめていた。
一人の布商人が言う。
「この女……」
「市場を壊す気か」
だが梓の狙いはそれではない。
市場を掌握すること。
しばらくして、年配の商人が近づいてきた。
坂井宗兵衛。
一乗谷でも有力な商人だった。
「話がある」
梓は微笑む。
「私もです」
宗兵衛は低く言った。
「お前の流通」
「どこから来ている」
梓は少し考えたあと答えた。
「近江」
それは嘘ではない。
実際には未来通販だが。
宗兵衛は腕を組む。
「協力できるか」
梓は即答した。
「もちろん」
そして帳簿を差し出す。
「流通契約です」
宗兵衛は目を細めた。
「……市場を取る気だな」
梓は微笑んだ。
「商売ですから」
しばらく沈黙。
やがて宗兵衛は笑った。
「面白い女だ」
そして判を押した。
「協力しよう」
こうして。
越前の市場にも。
望月梓の流通網が入り始めた。
その夜。
梓は宿で空を見上げていた。
「Iris」
『はい』
「市場掌握率」
『一乗谷、現在十二パーセント』
梓は小さく笑った。
「いいスタート」
そして静かに言った。
「朝倉義景」
風が吹く。
遠くに一乗谷城が見えた。
「あなたの国」
「もうすぐ市場から崩れる」
戦はまだ始まっていない。
だが。
商戦はすでに始まっていた。




