第60話 近江支配
小谷城が落ちてから数日。
冬の風が近江の山々を吹き抜けていた。
かつて浅井長政の旗が翻っていた城は、いま静まり返っている。焼けた柵、崩れた門、そして兵の姿はほとんどない。
しかし城の麓では、別の動きが始まっていた。
刀でも槍でもない。
商売の戦である。
虎御前山の陣。
その中央の天幕の中で、望月梓は机に向かっていた。
帳簿が何冊も積まれている。
その横で、半透明のボードが静かに浮かんでいた。
「Iris」
『はい、マスター』
「近江の市場状況」
半透明の地図が浮かぶ。
そこには赤や青の印が並んでいた。
青は梓の流通網。
赤はまだ掌握していない市場。
梓は指で地図をなぞる。
「城は落ちた」
「でも市場はまだ完全じゃない」
浅井家が滅んでも、商人たちはすぐには従わない。
商人は武士ではない。
利益で動く。
梓は静かに言った。
「だから」
「利益を見せる」
その日の午後。
小谷城の城下町。
広場に大きな机が置かれ、商人たちが集められていた。
数十人。
米屋、塩屋、布商、鍛冶商。
皆、不安そうな顔をしている。
そこへ一人の女が歩いてきた。
望月梓。
背筋を伸ばし、堂々とした歩き方。
商人たちはざわめく。
「噂の……」
「市場を支配した女」
梓は机の前に立った。
「今日は話があって来ました」
声は落ち着いていた。
「皆さんに」
「新しい市場の仕組みを提案します」
商人たちは顔を見合わせる。
一人が言った。
「俺たちは浅井家に従っていた」
「今はどうなる」
梓は即答した。
「簡単です」
「織田信長の領地になります」
それは事実だった。
だが梓の言葉はそこで終わらない。
「そして」
「市場は私が管理します」
ざわめきが広がる。
商人の一人が怒鳴った。
「ふざけるな!」
「女商人一人に市場を渡すか!」
だが梓は微動だにしなかった。
静かに手を上げる。
その瞬間。
空中に半透明のボードが現れる。
もちろん他人には見えない。
梓だけに見える。
「ChronoShop」
商品一覧が並ぶ。
米。
塩。
鉄。
薬。
布。
現代の流通から取り寄せられる物資。
梓は無限収納から袋を取り出した。
中身は白い粒。
「塩です」
商人たちは驚いた。
「なっ」
「こんな量……」
この時代、塩は貴重品。
それが大量にある。
梓はさらに米袋を出す。
そして鉄器。
鍋。
包丁。
鎌。
商人たちは言葉を失った。
梓は静かに言った。
「私の流通網に入れば」
「これが安定して手に入る」
沈黙。
それは圧倒的な力だった。
武力ではない。
物流の力。
一人の米商人が震える声で言った。
「……条件は」
梓は帳簿を開く。
「市場税一割」
「物流管理は私」
「価格は共同決定」
商人たちは顔を見合わせた。
一割。
それは決して高くない。
むしろ安全保障付きなら安い。
やがて一人の老商人が前に出た。
田辺宗右衛門。
城下町で最も古い商人だった。
「……分かった」
彼は深く頭を下げた。
「従おう」
その言葉をきっかけに、次々と商人が頭を下げる。
「俺も」
「俺もだ」
こうして。
小谷城の市場は完全に梓の管理下に入った。
その夜。
虎御前山の陣。
織田信長は酒を飲んでいた。
そこへ梓が入る。
「終わりました」
信長は笑った。
「聞いたぞ」
「市場を全部取ったらしいな」
梓は静かに答える。
「はい」
「これで近江の流通は統一です」
信長は杯を置いた。
「兵で取った城より価値があるな」
それは本心だった。
城は落とせば終わり。
だが市場は違う。
領国そのものを支配する力。
信長は面白そうに言った。
「望月梓」
「お前、武将より恐ろしいな」
梓は小さく笑った。
「私はただの商人です」
だが信長は笑った。
「違うな」
「お前は」
「戦国一の商人だ」
その夜。
梓は天幕の外に出た。
冬の星空が広がっている。
「Iris」
『はい』
「近江の市場支配率」
『九十八パーセント』
梓は小さく息を吐いた。
「もうすぐね」
浅井家の滅亡。
その後の市場支配。
すべて予定通り。
だが戦国の世はまだ続く。
西には強敵がいる。
石山本願寺。
そして毛利家。
梓は静かに呟いた。
「次の商売」
星を見上げる。
「もっと大きくなる」
戦国の歴史は今。
一人の女商人によって、さらに大きく動こうとしていた。




