第58話 影網完成
冬の気配が濃くなり始めた近江の山々は、冷たい風に包まれていた。
その山の一つ、虎御前山の陣では、夜の灯がいくつも揺れている。陣の中央にある天幕の中で、一人の女が机に向かっていた。
望月梓。
二十五歳の女商人であり、織田信長の配下として動く人物。
だが彼女の戦いは刀や槍ではない。
市場、物流、そして情報。
戦国の常識を外れた戦い方だった。
梓は静かに呟く。
「Iris」
『はい、マスター』
「忍びの配置状況」
その瞬間、梓の視界に半透明の地図が浮かび上がる。
近江一帯の地図。
そこに無数の点が表示されていた。
それは――
忍びの配置。
甲賀の忍び三十七名。
すでに梓の雇用契約のもと動いている。
梓は満足そうに頷いた。
「いい感じ」
『はい』
Irisが答える。
『小谷城周辺の情報網、完成率九十二パーセント』
梓は椅子に背を預けた。
「もうすぐね」
兵糧封鎖。
塩封鎖。
鉄封鎖。
城下町支配。
そして――
忍びの雇用。
これで浅井長政の戦力はほぼ削ぎ落とされている。
だが梓はさらに一歩進めるつもりだった。
「次は」
梓は地図の一点を指さした。
「小谷城の中」
『内部潜入ですか』
「そう」
外の市場はすでに掌握した。
忍びもこちら側。
ならば。
城の内部に情報網を作る。
梓は机を叩いた。
「忍びを呼んで」
しばらくして、天幕の入口に黒装束の男が現れた。
甲賀の忍びの頭領。
影丸。
彼は静かに膝をつく。
「お呼びでしょうか、望月梓殿」
梓は頷いた。
「仕事よ」
影丸は顔を上げる。
「小谷城に潜入してほしい」
影丸は驚かなかった。
忍びにとって潜入は日常だからだ。
だが梓の次の言葉に、わずかに目を細めた。
「城の中の商人と接触」
「契約を取って」
影丸は少し考えた。
「……つまり」
「城の内部の市場も掌握する、と」
梓は微笑んだ。
「その通り」
影丸は低く笑った。
「面白い」
普通の戦では考えない発想だ。
城は攻めるもの。
だがこの女は違う。
市場から崩す。
影丸は言った。
「報酬は」
梓は帳簿を差し出した。
「成功報酬」
影丸の目が一瞬見開かれる。
忍びの仕事としては破格の金額だった。
影丸はすぐに膝をつく。
「承知しました」
数日後。
夜の小谷城城下町。
城門の影から、数人の影が静かに入り込んだ。
甲賀の忍び。
影丸たちだった。
彼らは素早く町に散る。
商人の家。
倉庫。
酒屋。
情報が集まる場所へ。
忍びは刀より恐ろしい武器を持っている。
情報だ。
その夜。
城下町のある商家。
商人が帳簿を見ていると、背後から声がした。
「商売の話だ」
振り返ると、黒装束の男が立っていた。
「だ、誰だ」
影丸は言った。
「望月梓の使い」
商人の顔が変わる。
その名前はすでに城下町でも噂になっていた。
市場を操る女。
影丸は静かに契約書を置いた。
「商売を続けたいなら」
「これに判を」
商人は震える手で契約書を見る。
そこには――
流通契約
つまり。
城の外の市場と同じ。
梓の流通網に入るという意味。
商人は迷った。
だが。
今の小谷城では物資が不足している。
商売が続かない。
やがて商人は言った。
「……分かった」
判を押した。
その頃。
虎御前山。
梓は夜の天幕で報告を聞いていた。
「Iris」
『はい』
「潜入結果」
『城内契約、五件成立』
梓は満足そうに頷いた。
「いいわ」
これで城の内部にも商人のネットワークが生まれる。
つまり――
城の中の情報もこちらに流れる。
梓は静かに呟いた。
「浅井長政」
「もう終わりよ」
兵糧。
塩。
鉄。
市場。
忍び。
そして今。
城の内部の情報網。
すべてが望月梓の手の中にある。
遠くに小谷城の灯が見える。
その城は今。
外からの攻撃ではなく――
一人の女商人が作った影の網によって、静かに包囲されていた。




