第56話 城下崩壊
近江の山に、冬の気配が忍び寄っていた。
冷たい風が谷を抜け、枯れ葉を舞い上げる。その風を受けて、虎御前山の頂に立つ旗が強くはためいていた。
黒地に金の紋。
織田信長の旗である。
その陣の一角にある商人の天幕では、一人の女が机に向かっていた。
望月梓。
二十五歳の女商人であり、織田信長に仕える人物。
だが彼女の本当の武器は刀ではない。
市場である。
梓は静かに呟いた。
「Iris」
『はい、マスター』
「小谷城の状況」
視界に半透明の文字が浮かぶ。
兵糧残量 二十六日
塩残量 十五日
鉄残量 十二日
梓は小さく頷いた。
「順調」
ここまで来ると、戦はほぼ決まっている。
だが梓は満足していなかった。
「まだ足りない」
『何がでしょう』
「城の中」
Irisが静かに答える。
『城下町ですか』
「そう」
城は兵だけでは成り立たない。
商人。
職人。
農民。
そのすべてが城の力になる。
つまり――
城下町を崩せば城も崩れる。
梓は地図を広げた。
そこには小谷城の城下町が描かれている。
市場。
商家。
倉庫。
すべての位置が記されていた。
梓は小さく笑う。
「始めましょう」
数日後。
小谷城の城下町。
かつては活気に満ちた市場だったが、今はどこか暗い空気が漂っていた。
「米がない……」
「塩も高すぎる」
人々が不満を漏らしている。
そこへ一団の商人が現れた。
荷車には大量の荷物。
先頭に立つのは、一人の女だった。
望月梓。
城下町の人々はざわめいた。
「望月梓だ……」
「市場を支配する女……」
梓は静かに言った。
「皆さん」
「商売をしに来ました」
人々がざわつく。
「ここで?」
梓は頷いた。
「米もあります」
「塩もあります」
「鉄もあります」
その言葉に、人々の目が変わった。
城の中ではすでに物資が不足している。
そこへ大量の物資を持つ商人が現れた。
当然、群衆が集まる。
梓は静かに言った。
「ただし」
「条件があります」
一人の商人が尋ねた。
「条件?」
梓は帳簿を広げた。
「契約です」
そこにはこう書かれていた。
流通契約
つまり城下町の商人たちは、梓の流通網に入ることになる。
商人たちは顔を見合わせた。
「でも……」
「浅井家が……」
梓は穏やかに言った。
「今のままでは」
「皆さん商売できません」
それは事実だった。
市場はすでに崩壊している。
米も塩も入らない。
商売が成り立たない。
やがて一人の商人が言った。
「……契約する」
それをきっかけに、次々と判が押されていく。
城下町の市場は――
梓の支配下に入った。
その頃。
小谷城の本丸。
浅井長政は家臣たちと軍議をしていた。
しかし空気は重い。
赤尾清綱が言う。
「殿」
「城下町の商人が……」
長政が眉を上げる。
「何だ」
遠藤直経が答えた。
「望月梓と契約しております」
沈黙。
家臣たちの顔が青くなる。
長政は静かに言った。
「城下町までか」
つまり。
城の外だけではない。
城の中の市場まで敵に支配された。
それは城の崩壊を意味する。
一方。
虎御前山。
梓は天幕の外で夕日を見ていた。
遠くに見えるのは小谷城。
静かな山城。
だがその内部では、すでに市場が崩れている。
梓は呟いた。
「Iris」
『はい』
「城下町の契約率」
『八十三パーセント』
梓は微笑んだ。
「もうすぐね」
城は外から攻めるもの。
それが戦国の常識。
だが梓は違う。
城の内側から崩す。
それが現代の戦い方だった。
梓は静かに言った。
「浅井長政」
「あなたは強い」
だが。
「市場には勝てない」
風が吹く。
遠くの小谷城が夕日に染まっていた。
その城は今――
刀でも槍でもなく。
一人の女商人の経済戦争によって、ゆっくりと崩れ始めていた。




