第55話 鉄封作戦
秋の冷たい風が、近江の山々を渡っていた。
その山々の一つ、虎御前山の山頂には巨大な陣城が築かれている。黒地に金の紋――織田信長の旗が空に鋭く翻っていた。
陣の一角。
武将たちの軍議の天幕とは少し離れた場所に、商人の天幕がある。
そこに一人の女が座っていた。
長い黒髪を後ろで束ねた、二十五歳の女。
望月梓。
織田信長に仕える商人であり、今や近江の市場を操る存在でもあった。
梓は机の上の地図を見ていた。
それは戦場の地図ではない。
鉄の流通地図だった。
梓は静かに呟く。
「Iris」
『はい、マスター』
「近江の鉄市場」
その瞬間、梓の視界に半透明の文字が浮かび上がる。
鉄生産地
美濃
若狭
越前
流通経路
北国街道
中山道
梓は頷いた。
「やっぱり」
鉄。
それは戦の根幹を支える資源だ。
刀。
槍。
鎧。
すべて鉄で作られる。
つまり鉄を止めれば――
戦争は止まる。
梓は茶を一口飲んだ。
「小谷城の鉄在庫」
『推定二十日』
梓は小さく笑った。
「兵糧より少ない」
『はい』
兵糧が尽きれば飢える。
だが鉄が尽きれば――
戦えない。
梓は帳簿を閉じた。
「始めましょう」
その日の昼。
近江の市。
鉄を扱う鍛冶屋や商人たちが集まる市場は、いつもより騒がしかった。
「聞いたか?」
「望月梓が鉄を買い始めたらしい」
「また市場を支配する気か……」
商人たちはざわめく。
その噂の本人が、静かに市場へ歩いてきた。
梓は商人たちを見回した。
「こんにちは」
誰も返事をしない。
商人たちは警戒している。
なぜなら彼女はすでに――
米市場。
塩市場。
この二つを支配してしまった女だからだ。
梓は穏やかに言った。
「今日は鉄の話です」
一人の鍛冶屋が腕を組んだ。
「断る」
「鉄は浅井家へ売る」
別の商人も頷く。
「そうだ」
梓は少しだけ笑った。
「そうですか」
そして空を見上げる。
「Iris」
『はい』
「鉄価格を操作」
『了解』
その瞬間。
市場の別の店が叫んだ。
「鉄だ!」
「安いぞ!」
人々が集まる。
そこには大量の鉄塊が並んでいた。
当然、この時代の商人が持てる量ではない。
梓がChronoShopで購入したものだった。
しかも価格は市場の半分。
鍛冶屋たちは顔色を変えた。
「こんな値段で……」
「売れるわけがない」
梓は静かに言った。
「市場とは」
「こういうものです」
もし梓がこの価格で鉄を売り続ければ、他の商人は商売にならない。
つまり。
市場を支配される。
やがて一人の鍛冶屋が言った。
「……契約する」
梓は頷いた。
「ありがとうございます」
次々と商人たちが契約書に判を押していく。
それはつまり――
近江の鉄流通が、梓の管理下に入った瞬間だった。
その頃。
小谷城。
城内では不安が広がっていた。
赤尾清綱が報告する。
「殿」
「鉄が届きません」
浅井長政は眉をひそめた。
「塩に続いて鉄までか」
遠藤直経が言う。
「すべて望月梓の仕業かと」
その名前に、家臣たちの顔が歪んだ。
長政は静かに言った。
「商人一人に……」
「ここまでやられるとはな」
しかし事実だった。
槍も刀も使わず。
ただ市場を操るだけで――
城は追い詰められている。
一方。
虎御前山。
梓は夕焼けの中、静かに立っていた。
遠くには小谷城。
あの城の中では、兵糧も塩も鉄も減っている。
梓は小さく呟いた。
「Iris」
『はい』
「市場支配率」
『鉄市場九十六パーセント』
梓は微笑んだ。
「もう少し」
そして静かに言う。
「浅井長政」
「あなたは勇敢な武将」
だが。
「戦い方が古い」
現代では――
経済が戦争を決める。
梓は天幕へ戻りながら言った。
「次の準備」
『了解』
「次は」
梓の瞳が静かに光る。
「城下町の商人」
城の外だけではない。
城の中の市場まで支配する。
その時こそ――
小谷城は完全に孤立する。
近江の戦いは今、
槍や刀ではなく――
女商人の経済戦争によって、静かに決着へ向かっていた。




