第54話 塩封作戦
近江の朝は、霧から始まる。
山々の谷間を白い霧が流れ、やがてゆっくりと晴れていく。その頃、虎御前山の織田軍の陣では、すでに一人の女が帳簿を広げていた。
望月梓。
二十五歳の女商人であり、織田信長の配下として戦場にいる人物である。
しかし彼女の戦場は槍や弓ではない。
市場だった。
梓は机に置かれた地図を見ていた。
それは戦場の地図ではない。
近江の塩の流通図だ。
梓は静かに言った。
「Iris」
『はい、マスター』
「塩市場の状況」
すぐに視界に半透明の情報が浮かぶ。
塩生産地
若狭
伊勢
主流通路
北国街道
中山道
梓は頷いた。
「やっぱりね」
塩はこの時代の命綱だ。
保存食、味付け、兵糧、すべてに必要。
もし塩が止まれば――
兵は戦えなくなる。
梓は茶を一口飲んだ。
「小谷城の塩在庫」
『推定二十五日』
梓は目を細めた。
「兵糧より少ない」
『はい』
つまり――
塩を止めれば城は崩れる。
梓は机を指で叩いた。
「塩商人の名簿」
空中に名前が浮かぶ。
近江の塩商人。
そのほとんどがすでに梓の影響下にある。
だが問題が一つあった。
梓はその名前を見て呟いた。
「堺屋宗久」
堺の大商人。
塩や鉄の流通に強い影響力を持つ男。
そしてまだ梓と契約していない数少ない商人だった。
梓は立ち上がった。
「会いに行きましょう」
その日の昼。
近江の市。
多くの商人が集まる市場の中央に、大きな店がある。
そこにいたのは、恰幅のいい中年の男。
堺屋宗久。
梓が店に入ると、宗久はゆっくりと笑った。
「これはこれは」
「噂の望月梓殿」
梓は軽く頭を下げた。
「お会いできて光栄です」
宗久は茶を差し出す。
「商人同士、遠慮はいらん」
二人は向かい合って座った。
しばらく沈黙。
やがて宗久が言う。
「今日は塩の話かな」
梓は微笑んだ。
「さすがですね」
宗久は笑う。
「近江の米を支配した女だ」
「その次は塩」
「誰でも分かる」
梓は素直に頷いた。
「ええ」
「協力していただきたいのです」
宗久は腕を組んだ。
「断ったら?」
梓は少しだけ笑った。
「困ります」
「なぜ?」
梓は机の上に帳簿を置いた。
宗久がそれを見る。
そこには数字が並んでいた。
塩の流通量。
価格。
市場占有率。
宗久の顔が変わった。
「これは……」
梓は静かに言った。
「近江の塩市場」
「九割、私が押さえています」
宗久は目を細めた。
「つまり」
「わしが断れば?」
梓は穏やかに答えた。
「塩は売れません」
宗久は沈黙した。
商人にとって最も恐ろしい言葉。
売れない。
それは破産と同じ意味だ。
やがて宗久は笑った。
「ははは」
「面白い女だ」
そして手を差し出す。
「いいだろう」
「協力しよう」
梓はその手を握った。
「ありがとうございます」
こうして――
近江の塩市場は完全に梓の支配下に入った。
その頃。
小谷城。
城内では不安が広がっていた。
赤尾清綱が報告する。
「殿」
「塩が届きません」
浅井長政の目が鋭くなる。
「密輸は?」
遠藤直経が答えた。
「すべて捕らえられました」
沈黙。
家臣たちの顔が青い。
長政は拳を握った。
「またか」
「望月梓……」
商人。
それも女。
だがその一人に、城が追い詰められている。
一方。
虎御前山。
梓は天幕の外で夕日を見ていた。
遠くには小谷城が見える。
静かな山城。
だが中では兵糧も塩も減り続けている。
梓は小さく呟いた。
「Iris」
『はい』
「塩市場支配率」
『九十八パーセント』
梓は笑った。
「終わりね」
そして静かに言う。
「浅井長政」
「あなたは強い武将」
だが。
「戦争は変わったの」
刀ではない。
槍でもない。
市場を握る者が勝つ。
梓は夕日に背を向けて歩き出した。
「さあ」
「次は鉄」
その言葉は静かだった。
しかしその意味は恐ろしい。
鉄が止まれば武器が作れない。
つまり――
戦そのものが終わる。
近江の戦いは今、
女商人の市場戦争によって、静かに決着へ向かっていた。




