第52話 兵糧封鎖
近江の山々に、秋の冷たい風が流れていた。
その山の一つ、虎御前山には巨大な陣城が築かれている。黒地に金の紋――織田信長の旗が、山頂の空に鋭く翻っていた。
その陣の一角。
武将たちの天幕とは少し離れた場所に、妙に整えられた商人の天幕がある。
中には机、帳簿、木箱、秤。
そして無数の記録。
そこに座っているのは、一人の若い女だった。
長い黒髪を後ろで束ね、端正な顔立ち。年齢は二十五ほど。商人の装束を着ているが、その目は鋭く、ただの商人ではない雰囲気を漂わせている。
望月梓。
織田信長の配下として働く商人。
だが本当の正体は――
現代日本から戦国時代へ転移した女である。
梓は机に肘をつき、小さく呟いた。
「Iris」
その瞬間、耳元で落ち着いた女性の声が響く。
『はい、マスター』
声の主は人ではない。
梓の持つスキルの一つ――自律型AI。
**Iris**である。
梓は帳簿を閉じながら言った。
「小谷城の兵糧状況」
『解析中』
視界の中に半透明の情報が浮かぶ。
小谷城
推定兵糧残量 四十日
梓は軽く笑った。
「順調ね」
それは偶然ではない。
全部、梓が仕組んだことだった。
最初にやったのは――米の買い占め。
近江の米市場を徹底的に調査し、流通している米をすべて買った。
普通の商人なら不可能。
だが梓には別の手段がある。
「ChronoShop」
空中に青白い画面が浮かんだ。
未来通販の画面。
そこには米、塩、鉄、布など、あらゆる商品が並んでいる。
梓は画面を軽く指で操作する。
「米、三万俵」
注文完了。
次の瞬間、空間が揺らいだ。
しかし米俵は現れない。
理由は簡単。
「無限収納」
梓の空間魔法。
そこにはすでに大量の米が収納されている。
つまり。
この時代の米を買い占めても、梓は困らない。
むしろ――
市場が枯渇すればするほど、儲かる。
梓は帳簿をめくった。
「Iris」
『はい』
「近江の市場支配率」
『現在、八十九パーセントです』
梓は小さく口笛を吹いた。
「もう少しね」
その時、天幕の外から声がした。
「望月梓殿」
梓が振り向く。
入ってきたのは武将だった。
小柄な体、猿のような顔。
しかし目は油断なく鋭い。
羽柴秀吉。
梓は軽く頭を下げた。
「何かしら」
秀吉は笑った。
「殿がお呼びじゃ」
数刻後。
虎御前山の本陣。
豪華な天幕の中央に、一人の男が座っている。
黒い羽織。
鋭い眼光。
天下人の気配。
織田信長。
梓は静かに膝をついた。
「望月梓、参上いたしました」
信長は面白そうに彼女を見た。
「梓」
「例の策はどうだ」
梓は淡々と答える。
「順調です」
「小谷城周辺の市場はほぼ掌握しました」
信長の目が光った。
「ほう」
梓は続ける。
「浅井長政は兵糧を買えません」
「米、塩、鉄、すべてこちらの管理下です」
信長は豪快に笑った。
「ははは!」
「面白い女だ」
武将たちが槍で戦っている中。
一人の女商人が――
金で城を落とそうとしている。
信長は机を叩いた。
「梓」
「浅井長政を飢えさせろ」
梓は微笑んだ。
「お任せください」
そして天幕を出る。
外では秋風が吹いていた。
遠くには小谷城。
あの城には今、兵糧が届かない。
市場はすべて封鎖されている。
梓は空を見上げた。
「戦って槍で勝つ必要なんてないのよ」
そう呟く。
「市場を握れば戦は終わる」
その瞳には、現代の経済戦を知る者だけの冷静な光があった。
そして彼女は再び呟いた。
「Iris」
『はい、マスター』
「次の作戦」
『準備完了しています』
視界に新しい情報が浮かぶ。
それは――
小谷城へ続く密輸ルート。
梓は静かに笑った。
「いいわ」
「それも潰しましょう」
こうして――
浅井長政を追い詰める
女商人の戦争
は、さらに深く進んでいくのだった。




