第50話 決戦前夜
小谷城を囲む織田軍の篝火は、夜の山々に無数の星のように灯っていた。
山の尾根から谷筋にかけて、赤い炎が点々と並ぶ。
それはまるで、小谷城を逃がさぬように囲む巨大な輪のようだった。
本丸の高台からその光景を見下ろしながら、浅井長政は静かに腕を組んでいた。
風は冷たい。
秋が近づいている。
しかし胸の奥は妙に熱かった。
「殿」
背後から声がした。
振り向くと、そこには赤尾清綱が立っていた。
「兵の見回りを終えました」
長政は頷いた。
「どうだ」
清綱は少し間を置いてから答えた。
「士気は……高いとは言えませぬ」
それは当然だった。
城は包囲され、援軍の望みも薄い。
兵糧も減っている。
それでも兵たちは戦う覚悟をしていたが、勝てる戦とは思っていない。
長政は遠くを見つめた。
虎御前山の巨大な陣城が闇の中に影を落としている。
そこにいるのは――
織田信長。
かつて義兄と呼んだ男だ。
長政は小さく呟いた。
「信長殿……」
あの男は強い。
それは誰よりも理解していた。
それでも。
「負けるわけにはいかぬ」
その言葉に清綱は深く頭を下げた。
「我らも同じ思いにございます」
浅井家の武士たちは、この城と共に戦う覚悟を決めていた。
その頃――
織田軍の本陣。
虎御前山の陣城では、大きな軍議が開かれていた。
広間の中央には巨大な地図が置かれている。
小谷城と周囲の山々が描かれていた。
その地図の前に座っているのは――
織田信長。
黒い羽織を羽織り、静かに地図を見ている。
周囲には家臣たちが並んでいた。
柴田勝家。
丹羽長秀。
羽柴秀吉。
そうそうたる武将たちである。
沈黙の中、最初に口を開いたのは秀吉だった。
「殿」
信長は顔を上げた。
「申せ」
「そろそろ総攻めの頃合いかと」
小谷城の兵糧は尽きかけている。
今なら落とせる。
しかし信長は首を振った。
「まだだ」
意外な言葉だった。
勝家が眉をひそめる。
「なぜです」
信長は静かに言った。
「長政を待つ」
広間がざわめいた。
「降伏を?」
信長は薄く笑った。
「違う」
「奴が討って出るのを待つ」
長政は誇り高い武将だ。
このまま飢え死にするような男ではない。
必ず最後に打って出る。
その瞬間を狙う。
それが信長の考えだった。
秀吉は感心したように頷いた。
「なるほど」
信長は地図の小谷城を指で叩いた。
「ここで終わりだ」
その声には迷いがなかった。
同じ夜。
小谷城の奥御殿。
市は灯りの下で縫い物をしていた。
静かな部屋だった。
しかしその静けさの奥には、不安が潜んでいる。
襖が静かに開いた。
入ってきたのは浅井長政だった。
「市」
市は顔を上げた。
「殿」
長政は少し疲れた表情だった。
市は立ち上がる。
「お疲れでしょう」
長政は首を振った。
「いや」
そして少し沈黙してから言った。
「市」
「もしもの時は……」
市はその言葉を遮った。
「言わないでください」
その声は震えていた。
長政は黙った。
しばらくして市は静かに言う。
「私は殿の妻です」
「最後までここにいます」
強い声だった。
長政は優しく微笑んだ。
「強いな」
市は首を振った。
「怖いです」
正直な言葉だった。
長政はゆっくり言った。
「私もだ」
戦国の武将でも、恐怖はある。
しかし逃げるわけにはいかない。
長政は窓の外を見た。
遠くに織田軍の篝火が見える。
「いずれ決戦になる」
その言葉は静かだった。
だが重かった。
市は何も言わなかった。
ただ、夫の手を握った。
夜は深い。
山々には無数の炎。
小谷城。
そして虎御前山。
両軍は、やがて訪れる決戦の時を静かに待っていた。




