第49話 父子断絶
夏が終わりに近づき、近江の山々にはわずかに秋の気配が漂い始めていた。
だが小谷城を包む空気は、季節の移ろいとは無縁の重さを持っていた。
城の周囲には依然として織田軍の旗が並び、山麓から尾根にかけて無数の陣が築かれている。遠くの虎御前山には巨大な陣城が築かれ、そこからは昼夜を問わず太鼓や兵の声が聞こえていた。
包囲は長く続いている。
兵糧は減り始め、城内の兵たちにも疲労が見え始めていた。
本丸の広間では、浅井長政が家臣たちを集めて軍議を開いていた。
並んでいるのは赤尾清綱、遠藤直経、磯野員昌など、浅井家の重臣たちである。
広間の中央には地図が広げられていた。
小谷城。
その周囲を囲む織田軍の陣。
さらに南には虎御前山の大陣。
誰の目にも状況は厳しかった。
長政は静かに言った。
「兵糧は」
赤尾清綱が答える。
「このままでは三か月ほど」
広間の空気が重くなる。
織田信長は長期戦を狙っている。
城を囲み、兵糧を断ち、やがて城を飢えさせる。
典型的な包囲戦だった。
遠藤直経が言った。
「討って出るべきでは」
その声には焦りがあった。
城に籠もり続ければ、やがて兵糧が尽きる。
ならば今のうちに打って出る。
しかし長政は首を振った。
「敵は三万」
「こちらは一万にも満たぬ」
無謀だった。
その時、広間の入口から声がした。
「殿」
振り向くと、そこには年老いた男が立っていた。
浅井久政。
長政の父である。
かつて浅井家の当主だった人物だ。
家臣たちは一斉に頭を下げた。
しかし長政の表情はわずかに硬くなった。
父子の関係は決して良好とは言えなかった。
久政はゆっくり広間へ入り、地図を見た。
そして言った。
「まだ遅くない」
静かな声だった。
「織田信長に降れ」
その言葉に、広間の空気が凍りついた。
家臣たちが顔を見合わせる。
長政はゆっくり父を見た。
「何を言う」
久政は続けた。
「信長は強い」
「この戦は勝てぬ」
冷たい現実だった。
姉川で敗れ、今は城を囲まれている。
確かに状況は不利だ。
しかし――
長政は立ち上がった。
「父上」
その声には怒りが滲んでいた。
「今さら降れと言うのですか」
久政は平然と言った。
「家を守るためだ」
浅井家を残すためには、ここで屈するしかない。
そう言っているのだ。
だが長政は強く言った。
「それはできぬ」
広間に沈黙が落ちた。
長政は続ける。
「私は朝倉義景殿と盟約を結んだ」
「その義を破ることはできぬ」
久政はため息をついた。
「義か」
そして静かに言う。
「義で家は守れぬ」
その言葉に長政の拳が震えた。
父は現実を見ている。
だがそれでも――
長政は叫んだ。
「武士には義がある!」
その声は広間に響いた。
「それを捨てて生き延びても意味はない!」
久政はしばらく息子を見つめていた。
やがて静かに言う。
「愚かだな」
その言葉は刃のように鋭かった。
長政は何も言わなかった。
父と子。
二人の間には、埋めることのできない溝があった。
その夜。
小谷城の庭には月が浮かんでいた。
市は一人で庭を歩いていた。
遠くから虫の声が聞こえる。
やがて足音がした。
振り向くと浅井長政が立っている。
市は言った。
「軍議が終わったのですね」
長政は頷いた。
そして少し疲れたように座った。
市は隣に座る。
しばらく沈黙が続いた。
やがて長政が言った。
「父上と争った」
市は驚かなかった。
城の中でその話はすでに広まっていた。
市は静かに言う。
「殿は間違っていません」
長政は苦笑した。
「そうだろうか」
市は月を見上げながら言った。
「兄上も、殿も」
「どちらも正しいのかもしれません」
戦国の世では、正しさは一つではない。
勝った者が正しい。
それが現実だった。
長政は空を見上げた。
月は静かに輝いている。
しかしその光の下で、小谷城の運命は少しずつ近づいていた。
父と子の溝。
尽きていく兵糧。
迫る織田軍。
すべてが一つの結末へ向かって動き始めていたのである。




