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世界を変える女  作者: 此花サギリ


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第48話 長政の苦悩

 姉川(あねがわ)の戦いが終わってから、幾日かの時が流れた。


 夏の陽射しは強く、近江(おうみ)北部の山々は深い緑に包まれている。谷を渡る風は湿り気を帯び、昼には蝉の声が響き渡っていた。


 しかしその穏やかな自然の中に、重い空気が漂っていた。


 小谷城(おだにじょう)


 山の尾根に築かれたこの巨大な山城は、依然として堅牢な姿を保っている。だが城の中に満ちているのは、戦の緊張と不安であった。


 城門の前では、敗戦から戻った兵たちが次々と城内へ入っていく。


 鎧は泥にまみれ、槍は欠け、兵たちの顔には疲労が色濃く刻まれていた。傷を負った者も多く、仲間に肩を貸されながら歩く姿も目立つ。


 その様子を見つめている男がいた。


 浅井長政(あざいながまさ)


 若き小谷城(おだにじょう)の城主である。


 城門の上の櫓に立ち、彼は黙って兵の帰還を見守っていた。


 その表情は静かだが、胸の内には重い思いが渦巻いている。


 姉川(あねがわ)の敗北。


 それは浅井家(あざいけ)にとって大きな転機となる戦だった。


 敵は織田信長(おだのぶなが)徳川家康(とくがわいえやす)


 二つの大勢力が結びついたことで、戦の規模は一気に拡大した。


 背後から足音が近づいた。


「殿」


 振り向くと、家臣の赤尾清綱(あかおきよつな)が頭を下げている。


 長政(ながまさ)はゆっくり言った。


「兵の数は」


 赤尾清綱(あかおきよつな)は少し言いづらそうに答える。


「三割ほど減りました」


 長政(ながまさ)はしばらく何も言わなかった。


 風が吹く。


 城の旗が大きく揺れる。


 やがて長政(ながまさ)は静かに言った。


「……大きいな」


 兵三割の損失。


 それは小さな敗北ではない。


 特に浅井家(あざいけ)のような地方大名にとっては、軍の力を大きく削ぐ結果だった。


 長政(ながまさ)はさらに尋ねる。


「朝倉は」


 赤尾清綱(あかおきよつな)が答える。


朝倉義景(あさくらよしかげ)殿は越前(えちぜん)へ戻られました」


 長政(ながまさ)の眉がわずかに動く。


 援軍は当分望めない。


 つまり――


 小谷城(おだにじょう)は事実上孤立した。


 その時、静かな声が響いた。


「殿」


 振り向くと、そこには(いち)が立っていた。


 白い衣に身を包み、長い黒髪が風に揺れている。


 織田信長(おだのぶなが)の妹。


 そして浅井長政(あざいながまさ)の妻。


 戦国一とも言われる美しい姫である。


 (いち)はゆっくり歩み寄り、城門の外を見た。


 戻ってくる兵たち。


 疲れた顔。


 血の付いた鎧。


 (いち)は静かに言った。


「戦は……厳しかったのですね」


 長政(ながまさ)は苦笑した。


「負けた」


 短い言葉だった。


 だがその声には悔しさが滲んでいる。


 (いち)は遠くの山を見つめた。


 そこには虎御前山(とらごぜんやま)が見える。


 山の上には無数の旗が並んでいた。


 赤地に木瓜紋。


 織田軍(おだぐん)


 兄の軍である。


 (いち)は小さく言った。


「兄上は……強い方です」


 長政(ながまさ)は頷いた。


「知っている」


 織田信長(おだのぶなが)


 戦の才、政治の才、そして恐ろしいほどの決断力。


 あの男は一度敵と定めた相手を決して逃がさない。


 長政(ながまさ)は遠くの山を見つめながら言った。


「だが」


「退くわけにはいかぬ」


 近江(おうみ)は浅井の地。


 ここを失えばすべてが終わる。


 (いち)は何も言わなかった。


 ただ静かに夫の横顔を見つめていた。


 その頃。


 虎御前山(とらごぜんやま)の陣では、織田信長(おだのぶなが)が戦況を聞いていた。


 大きな陣幕の中。


 地図の上には近江(おうみ)の城が並んでいる。


 横山城(よこやまじょう)


 宮部城(みやべじょう)


 丁野山城(ちょうのやまじょう)


 これらの城はすでに織田軍(おだぐん)の手に落ちつつあった。


 小谷城(おだにじょう)の周囲は、徐々に包囲されている。


 信長(のぶなが)は地図を見ながら言った。


「城は落ちぬか」


 柴田勝家(しばたかついえ)が答える。


「堅い城です」


「正面攻撃は損害が大きい」


 信長(のぶなが)は静かに言った。


「ならば囲め」


 それだけだった。


 だがその言葉には揺るぎない意思があった。


 木下秀吉(きのしたひでよし)が言う。


「兵糧を断てば、いずれ落ちます」


 信長(のぶなが)は頷く。


「時間は我らの味方だ」


 そして遠くの山を見た。


 そこには小谷城(おだにじょう)がある。


 そしてその城には――


 妹(いち)がいる。


 しかし信長(のぶなが)の表情は変わらなかった。


「戦は戦」


 それだけだった。


 一方。


 夜の小谷城(おだにじょう)


 月が静かに城を照らしていた。


 本丸の庭。


 浅井長政(あざいながまさ)は一人座っていた。


 虫の声が響く。


 遠くから兵の見張りの声が聞こえる。


 やがて後ろから足音がした。


 振り向くと(いち)が立っている。


 (いち)は静かに隣へ座った。


 二人はしばらく月を見上げていた。


 やがて(いち)が言う。


「殿」


 長政(ながまさ)は答える。


「どうした」


 (いち)は少し迷ってから言った。


「もし……」


「もし城が落ちたら」


 風が吹く。


 沈黙が流れる。


 長政(ながまさ)は静かに言った。


「その時は」


 そして続ける。


「武士として死ぬ」


 (いち)は何も言わなかった。


 ただ月を見つめていた。


 小谷城(おだにじょう)の夜は静かだった。


 しかしその静けさの下で、戦国の運命は確実に動いていた。


 包囲は続く。


 兵糧は減る。


 そしていつか必ず、決着の時が来る。


 その時、浅井長政(あざいながまさ)(いち)の運命もまた、大きく動くことになるのであった。

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