第46話 虎御前山
近江北部の山々は、濃い緑に包まれていた。
その中心にそびえる小谷城は、相変わらず静かに山の頂に構えている。だがその静けさの周囲では、戦の準備が着々と進められていた。
山麓一帯には、織田軍の陣が広がっている。
赤地に木瓜紋の旗が風に翻り、数万の兵が陣地を築き、櫓を建て、柵を巡らせていた。炊煙は空へと昇り、太鼓の音が遠くから聞こえてくる。
その中でも、ひときわ高い丘に新たな陣が築かれていた。
虎御前山。
小谷城の南東に位置するこの山は、城を見下ろすことのできる重要な地点だった。
ここに織田信長は本陣を移したのである。
山頂の陣。
そこからは小谷城の姿がよく見えた。
尾根に連なる曲輪、本丸の櫓、山道に並ぶ砦。
信長はその景色をじっと見つめていた。
背後には重臣たちが並んでいる。
柴田勝家。
明智光秀。
丹羽長秀。
滝川一益。
そして木下秀吉。
信長は小さく言った。
「堅いな」
確かに堅い。
小谷城は天然の要害であり、攻め上る道は限られている。
勝家が腕を組む。
「力攻めでは損害が大きいでしょう」
信長は頷いた。
「だから囲む」
すでに横山城は木下秀吉によって包囲されている。
兵糧の道は徐々に断たれていた。
さらに信長は言った。
「虎御前山に城を築く」
家臣たちは一瞬驚いた。
山の上に城を築く。
つまり長期戦の構えである。
光秀が静かに言う。
「完全に包囲するおつもりですか」
信長は答えた。
「そうだ」
その目は冷たい。
「浅井を逃がさぬ」
こうして虎御前山には巨大な陣城が築かれることになった。
数千の兵が木を切り、土を運び、柵を建てる。
わずか数日で山頂は要塞のような姿になった。
その様子は、小谷城からもよく見えた。
城の物見櫓。
そこに立っていたのは浅井長政である。
遠くの虎御前山を見つめていた。
家臣の赤尾清綱が言う。
「敵は腰を据えましたな」
長政は頷いた。
「信長らしい」
短い言葉だった。
だがその声には複雑な感情が込められていた。
かつては義兄弟。
今は宿敵。
長政は遠くの陣を見つめたまま言う。
「朝倉は」
家臣が答える。
「朝倉義景殿、越前にて軍を整えております」
しかし援軍はまだ来ない。
長政の眉がわずかに動いた。
その時だった。
「殿」
後ろから声がした。
振り向くと市が立っている。
白い着物の袖が風に揺れていた。
市は遠くの山を見た。
「兄上の陣ですか」
長政は静かに答える。
「そうだ」
市は少し目を細めた。
虎御前山の陣。
無数の旗が立ち、兵が動いている。
兄の軍。
しかし今は敵である。
市は小さく言った。
「兄上は、必ず勝とうとします」
長政は苦笑した。
「知っている」
信長は執念深い。
一度戦を決めたら、決着がつくまで止まらない。
長政は城を見渡した。
兵はまだ多い。
城も堅い。
だが敵は三万以上。
戦は長くなる。
その時、城の下から太鼓の音が聞こえた。
ドン――
ドン――
ゆっくりとした重い音。
織田軍の陣からである。
それはまるで包囲の完成を告げる音のようだった。
小谷城は完全に囲まれつつあった。
山の上の城。
山の下の大軍。
そしてその間にあるのは、長く苦しい戦である。
浅井長政は静かに空を見上げた。
青空が広がっている。
しかしその下では、運命の戦が確実に進んでいた。
やがてこの戦は、浅井家の存亡を決める戦いへと発展していく。
そしてその結末は――
まだ誰にも見えていなかった。




