第45話 小谷包囲戦
近江北部の山々は、初夏の緑に覆われていた。
谷を流れる川は雪解け水で満ち、森には鳥の声が響いている。遠くから見れば、穏やかな山里にしか見えない。
しかし今、この地には巨大な戦の気配が満ちていた。
山の中央にそびえる巨大な城。
小谷城。
山の尾根をそのまま利用して築かれたこの城は、戦国でも屈指の難攻不落の城として知られている。麓から見上げれば、幾重もの曲輪が段々と連なり、その頂には本丸が静かに構えている。
その城の周囲に、無数の旗が立っていた。
赤地に木瓜紋。
織田軍である。
織田信長は、ついに浅井長政討伐を決断したのである。
山麓の平地には巨大な陣が築かれていた。
そこには三万を超える兵が集まり、炊煙が空に立ち上っている。兵たちは槍を磨き、弓の弦を張り、戦の準備を進めていた。
陣の中央に建てられた本陣。
そこでは織田信長が軍議を開いていた。
地図の前に座る信長の周囲には、重臣たちが並んでいる。
柴田勝家。
丹羽長秀。
明智光秀。
木下秀吉。
滝川一益。
さらに佐久間信盛など、多くの武将が顔を揃えていた。
地図の中央には小谷城。
その周囲にはいくつもの城が描かれている。
横山城。
虎御前山城。
宮部城。
これらは浅井家を支える重要な拠点だった。
信長はゆっくり口を開いた。
「城は堅い」
誰も反論しない。
小谷城は天然の要害であり、正面から攻めれば多くの犠牲が出る。
信長は続けた。
「ゆえに」
指で地図をなぞる。
「まず城を囲む」
兵糧攻め。
つまり周囲の城を落とし、補給路を断ち、城を孤立させる作戦である。
柴田勝家が言う。
「南の守りを落とせば城は孤立します」
彼の指が示したのは横山城。
小谷城の南の玄関口とも言える城だった。
信長は周囲を見渡した。
「誰が行く」
するとすぐに声が上がる。
「拙者にお任せを」
木下秀吉。
まだ若いが、すでに頭角を現している武将である。
信長は少し笑った。
「またおぬしか」
秀吉は頭を下げる。
「ここで働かねば、殿の天下取りに置いて行かれます」
周囲の武将が小さく笑った。
しかし信長は頷いた。
「よい」
「横山城は任せる」
こうして秀吉は出陣することになった。
数日後。
横山城の麓。
木下秀吉の軍勢が布陣していた。
兵は約五千。
対する城の守備兵は二千ほど。
城主は磯野員昌。
勇猛で知られる武将である。
城の上からは織田軍の陣がよく見えた。
兵たちは城壁に並び、敵の動きを警戒している。
しかし秀吉は攻撃を命じなかった。
家臣の蜂須賀正勝が尋ねる。
「攻めませぬか」
秀吉は笑った。
「急ぐ必要はない」
そして続ける。
「囲め」
城の周囲に柵を作り、兵を配置する。
食料が入らないようにする。
つまり兵糧攻めだった。
蜂須賀正勝は頷く。
「なるほど」
城の兵糧は限られている。
長く持ちこたえることはできない。
やがて城は孤立する。
一方。
山上の小谷城では、浅井長政が城から戦況を見ていた。
遠くの平野に広がる織田軍の陣。
その数は圧倒的だった。
長政の隣には家臣の赤尾清綱がいる。
「敵は本気ですな」
長政は静かに言う。
「当然だ」
相手は織田信長。
一度敵に回した以上、容赦はない。
長政は空を見上げた。
青空が広がっている。
だがその空の下で、大軍が城を包囲している。
その時、後ろから声がした。
「殿」
振り向くと市が立っていた。
織田信長の妹であり、浅井長政の妻。
戦国一とも言われる美しい姫である。
しかしその瞳には不安が浮かんでいた。
市は遠くの旗を見つめる。
「兄上の軍ですね」
長政は黙っていた。
やがて小さく言う。
「そうだ」
市はしばらく何も言わなかった。
風が吹く。
城の旗が揺れる。
そして静かに言った。
「戦になるのですね」
長政は答えた。
「避けられぬ」
その声は静かだったが、決意に満ちていた。
小谷城を巡る戦。
それはまだ始まったばかりだった。
しかしこの包囲戦はやがて長い戦となり、浅井家の運命を大きく変えていく。
そして――
この城にいる一人の姫、市の人生もまた、大きく動き出そうとしていた。




