第44話 小谷の姫
近江北部にそびえる小谷城は、春の霞の中に静かに立っていた。
幾重もの尾根を利用して築かれたこの山城は、戦国でも屈指の難攻不落の城として知られている。谷から見上げれば、山の頂まで続く曲輪が段々と連なり、その一つ一つに兵が詰めれば容易に攻め落とすことはできない。
その城の奥深く、本丸の御殿。
縁側に一人の女性が座っていた。
市。
織田信長の妹であり、浅井長政の妻。
透き通るような白い肌に、長い黒髪。静かな瞳の奥には気品と強さが宿っていた。戦国一の美姫とも言われるその姿は、城の侍女たちからも憧れの目で見られている。
しかしその表情は、どこか沈んでいた。
庭の桜はまだ蕾である。
風が吹くと、枝がわずかに揺れた。
その時、背後から声がした。
「市様」
振り向くと、侍女の春が頭を下げていた。
「どうしたのです」
「殿がお呼びでございます」
市は小さく頷いた。
「わかりました」
立ち上がり、御殿の奥へと歩く。
やがて大広間に入ると、そこには浅井長政が座っていた。
まだ若い武将である。
端正な顔立ちと、まっすぐな眼差しを持つ男だった。
その顔は、どこか疲れている。
市は静かに座り、頭を下げた。
「お呼びでしょうか」
長政はしばらく黙っていた。
やがて口を開く。
「……聞いたか」
市はすぐに理解した。
「兄上の軍のことですか」
織田信長。
すでに越前へ出陣していた。
そして今――
浅井家は織田家と敵対している。
長政は苦しそうに言った。
「私は……」
「信長殿に背いた」
その声には後悔が滲んでいた。
市は静かに答える。
「殿は殿の道を選ばれたのです」
長政は顔を上げる。
「恨まぬのか」
市は少し微笑んだ。
「兄上は恐ろしい方です」
「ですが、情も深い方」
そして続ける。
「もし殿が朝倉との盟約を破れば、きっと兄上は殿を軽んじたでしょう」
長政は驚いた。
市は言う。
「殿は義を守りました」
「それは武士として正しいことです」
その言葉に、長政はしばらく黙っていた。
やがて小さく言う。
「そなたは強いな」
市は首を振る。
「強くなどありません」
少しだけ視線を落とした。
「ただ……」
「願うだけです」
「この戦が長くならぬように」
しかしその願いとは裏腹に、戦はこれから激しくなろうとしていた。
その頃。
京では、織田信長が軍議を開いていた。
金ヶ崎から撤退した後、軍は京へ戻っていたのである。
本能寺ではなく、二条御所の一室。
そこには柴田勝家、明智光秀、丹羽長秀、木下秀吉ら重臣が集まっていた。
地図の中央には近江。
その北に小谷城。
そして朝倉義景の一乗谷城。
信長はゆっくり言った。
「浅井」
それだけだった。
だが部屋の空気が凍る。
勝家が言う。
「討ちますか」
信長は少し笑った。
「当然だ」
そして続ける。
「だが城は堅い」
小谷城は難攻不落。
山城であり、攻めるのは容易ではない。
光秀が言う。
「まずは周囲の城を落とすべきでしょう」
信長は頷く。
「そうだ」
「浅井を孤立させる」
その時、秀吉が言った。
「殿」
信長は視線を向ける。
「何だ」
秀吉は少し迷いながら言った。
「市様のことですが」
一瞬、空気が止まる。
信長の妹。
そして敵の城にいる。
秀吉は続けた。
「もし戦になれば……」
信長は静かに言った。
「わかっている」
そして短く告げる。
「市は市だ」
「戦は戦」
それだけだった。
だがその声には、冷たい決意があった。
こうして織田信長は浅井長政討伐を決断する。
戦場は近江。
そして中心となるのは――
山上の城。
小谷城。
運命の戦いが、静かに近づいていた。




