第43話 金ヶ崎退口
越前の山々に、冷たい風が吹き抜けていた。
春とはいえ北国の朝はまだ寒く、山道には霧が漂っている。
その山道を、長い軍列が静かに進んでいた。
織田軍。
数日前まで勢いよく越前へ攻め込んでいた軍勢は、今は一転して南へ――近江へと退却していた。
理由はただ一つ。
浅井長政の離反である。
前方には朝倉義景の軍勢。
後方には浅井長政の軍勢。
挟撃されれば、三万の軍でも壊滅する危険があった。
そのため織田信長は即座に決断した。
撤退。
しかも迅速な撤退である。
だが撤退は攻撃より難しい。
軍が崩れれば、それだけで敗北となるからだ。
信長の本陣では、重臣たちが集まっていた。
柴田勝家。
丹羽長秀。
明智光秀。
そして木下秀吉。
皆の表情は険しい。
信長は地図を見つめていた。
やがて口を開く。
「敵の動きは」
光秀が答えた。
「朝倉軍は北より追撃」
「浅井軍は近江側から進軍中」
つまり退路を断つ動きだった。
勝家が腕を組む。
「このままでは追いつかれる」
秀吉も言う。
「殿、本隊を守る殿軍が必要にございます」
殿軍。
つまり最後尾で敵を食い止める部隊である。
最も危険な役目だった。
信長は周囲を見た。
そして言う。
「誰が行く」
重い沈黙が流れる。
その時だった。
一人の武将が前に出た。
「拙者が参りましょう」
木下秀吉。
まだ若い武将だった。
だがその目は決意に満ちている。
勝家が驚く。
「猿!」
秀吉は笑った。
「ここで恩を売っておけば出世できますゆえ」
軽口だった。
だが本気である。
信長はじっと秀吉を見た。
「……できるか」
秀吉は即答した。
「やります」
信長は少し笑う。
「よかろう」
こうして秀吉が殿軍を務めることになった。
本隊はすぐに動き出した。
金ヶ崎城を離れ、南へと急ぐ。
山道は狭く、軍の移動は遅い。
もし敵に追いつかれれば、たちまち戦闘になる。
その頃。
朝倉義景の陣では、追撃の命令が出ていた。
武将が報告する。
「織田軍は退却中」
義景は満足そうに笑った。
「好機だ」
「今こそ織田信長を討つ」
さらに別の報告が入る。
「浅井長政殿も出陣」
義景はうなずいた。
「これで逃げ場はない」
その頃。
織田軍の最後尾では、秀吉が兵を並べていた。
兵数はわずか数千。
本隊を守るための殿軍である。
秀吉は兵たちを見渡した。
「皆の者!」
声を張り上げる。
「ここが踏ん張りどころじゃ!」
「我らが踏みとどまれば殿は助かる!」
兵たちは声を上げた。
「おお!」
その時だった。
斥候が走り込んでくる。
「敵軍接近!」
山道の向こうに、無数の旗が見えた。
朝倉軍。
さらにその後ろには浅井軍の旗も見える。
敵は大軍だった。
だが秀吉は笑った。
「面白い」
そして刀を抜く。
「かかってこい!」
戦いが始まった。
山道で激しい戦闘が続く。
矢が飛び交い、槍がぶつかり合う。
兵が倒れ、血が流れる。
しかし秀吉は退かなかった。
「まだだ!」
「まだ本隊は遠い!」
時間を稼ぐこと。
それが殿軍の役目である。
やがて夜が近づく。
その頃。
織田信長の本隊はようやく近江へ入ろうとしていた。
信長は振り返る。
遠くの山に煙が上がっている。
殿軍の戦いだった。
信長は小さく言った。
「猿……」
そして静かに続けた。
「生きて戻れ」
やがて夜が訪れる。
闇に包まれた山道で、秀吉はようやく退却の命令を出した。
「よし!」
「撤退だ!」
兵たちは一斉に退いた。
こうして木下秀吉は殿軍を務め、織田信長を守り抜いたのである。
この撤退戦――
金ヶ崎退き口。
後に戦国史に残る名場面となった。
そしてこの戦いをきっかけに、木下秀吉の名は天下に広がっていく。
だが。
織田信長と浅井長政の関係は、ここで完全に断たれた。
義兄弟の絆は破れた。
これから近江を舞台に、長く激しい戦いが始まることになる。
その戦いの中心となる城――
小谷城。
山上の難攻不落の城である。
そして城には一人の女性がいた。
市。
織田信長の妹であり、浅井長政の妻。
戦国一とも言われる美しい姫である。
彼女はまだ知らない。
この戦いが、自分の運命を大きく変えていくことを。




