第42話 浅井離反
春の朝霧が、近江北部の山々を白く包んでいた。
山の稜線はまだ淡く霞み、谷を流れる川の水音だけが静かに響いている。
その山の麓には、巨大な軍勢が陣を張っていた。
織田軍。
およそ三万の兵が、越前へ向かう途中でここ近江北部に集結していたのである。
旗印は無数に立ち並び、木瓜紋の旗が風に揺れていた。
陣の中央には大きな本陣があり、その前に黒馬に乗る一人の男が立っている。
織田信長。
鋭い目で北の山を見つめていた。
その山の向こうにあるのが越前。
そして敵――
朝倉義景。
信長の隣には木下秀吉がいた。
秀吉は少し不安そうな顔をしている。
「殿」
信長は視線を外さない。
「何だ」
秀吉は慎重に言った。
「本当に……浅井長政殿は問題ございませんか」
その問いに、信長は少しだけ笑った。
「またそれか」
秀吉は頭を下げる。
「申し訳ございませぬ」
「しかし……」
浅井長政。
近江北部を治める若き大名であり、信長の妹市の夫である。
つまり義弟である。
だが浅井家には、もう一つの深い関係があった。
それが朝倉家との長年の同盟である。
秀吉は言った。
「朝倉義景と浅井長政は古い盟友」
「もし戦が始まれば……」
信長は短く答えた。
「裏切らぬ」
断言だった。
信長は静かに続ける。
「長政は義理堅い男だ」
「それに妹もいる」
「問題ない」
秀吉は黙った。
だが胸の奥の不安は消えなかった。
その頃。
山の上の小谷城。
浅井家の本拠地である。
険しい山の上に築かれたこの城からは、近江北部の平野を一望できた。
城の奥の広間では、浅井長政が重臣たちと向き合っていた。
部屋の空気は重い。
誰もが言葉を選んでいる。
やがて一人の家臣が口を開いた。
「殿」
「決断の時にございます」
長政は黙っている。
別の家臣が続ける。
「織田信長は越前へ攻め入ろうとしております」
「それはつまり」
「朝倉家を滅ぼすということ」
沈黙が流れた。
長政の顔は苦しそうだった。
家臣がさらに言う。
「我ら浅井家は百年にわたり朝倉家と盟約を結んでおります」
「先祖代々の誓いです」
重い言葉だった。
その一方で、もう一つの事実がある。
長政は信長の妹市を妻に迎えている。
つまり織田家とも深い縁がある。
二つの絆が、今まさに衝突していた。
長政はゆっくりと目を閉じた。
そして小さく言う。
「……私は」
言葉が止まる。
やがて目を開き、重臣たちを見渡した。
「朝倉を裏切ることはできぬ」
その言葉に、部屋の空気が震えた。
ついに決断が下されたのである。
長政は続けた。
「織田軍の背後を突く」
つまり――
織田信長への反旗である。
その頃。
織田軍はすでに越前へ進軍していた。
山道を進み、いくつかの城を落としながら北へ向かっている。
朝倉軍は後退を続けていた。
戦況は織田軍有利。
そのはずだった。
だが。
ある日、斥候が血相を変えて本陣へ飛び込んできた。
「報告!」
兵たちがざわめく。
信長が振り向く。
「何だ」
斥候は叫んだ。
「浅井長政が挙兵!」
「小谷城より軍を出し、我らの背後を断とうとしております!」
一瞬。
本陣の空気が凍りついた。
柴田勝家が叫ぶ。
「何だと!」
秀吉の顔が青ざめる。
「やはり……」
だが。
織田信長だけは、静かだった。
ゆっくりと空を見上げる。
春の空は青く澄んでいる。
やがて信長は言った。
「そうか」
短い一言。
そして続けた。
「ならば仕方あるまい」
その目には、怒りよりも冷たい光が宿っていた。
「退く」
周囲の武将たちが驚く。
勝家が言う。
「殿!」
「今ならまだ攻められます!」
しかし信長は首を振った。
「敵は二つ」
「無理はせぬ」
そして言った。
「京へ戻る」
こうして織田軍は撤退を開始した。
しかしその撤退は、簡単なものではなかった。
前には朝倉軍。
後ろには浅井軍。
挟撃の危機。
戦国でも有名な戦い――
金ヶ崎退き口。
命懸けの撤退戦が、いま始まろうとしていた。




