第41話 越前遠征
春の気配が、ゆっくりと京の都を包み始めていた。
冬の名残を残す冷たい風の中にも、どこか柔らかな温もりが混じり始めている。
鴨川の流れは雪解けの水を集めて水量を増し、朝日を受けてきらきらと光っていた。川沿いの柳はまだ芽吹き始めたばかりだが、ところどころで梅の花が白く咲き、町人たちの目を楽しませている。
一見すると、都は穏やかな春を迎えようとしているように見えた。
しかし――
この都の平穏は、いつ破れてもおかしくないほど危ういものだった。
理由は一つ。
織田信長が再び軍を動かそうとしているからである。
京の本能寺。
大きな寺院であるこの場所は、今や信長が都での拠点としている場所であった。
本堂の広間には、重臣たちが集まり軍議が開かれている。
広い畳の間の中央には大きな地図が広げられ、その周囲に武将たちが整然と座していた。
柴田勝家
丹羽長秀
滝川一益
木下秀吉
いずれも織田家を支える重臣である。
そしてその中央に座るのが――
織田信長。
黒い陣羽織をまとい、鋭い視線で地図を見つめていた。
信長はゆっくりと口を開く。
「準備はどうだ」
その言葉に、柴田勝家がすぐ答えた。
「兵はすでに集まりつつあります」
「尾張、美濃、近江から兵を集め、およそ三万」
三万。
その数字は、この時代の戦としては極めて大きな軍勢であった。
部屋の空気がわずかに緊張する。
丹羽長秀が地図を指差した。
「敵はここでございます」
そこは越前。
北陸に勢力を持つ大名、朝倉家の領国である。
そしてその中心には、巨大な城下町を持つ城があった。
一乗谷城。
山と川に囲まれた要害であり、朝倉家の本拠地である。
長秀が続ける。
「朝倉義景は守りを固めております」
「おそらく籠城を選ぶでしょう」
柴田勝家が豪快に笑った。
「望むところだ」
「城ごと叩き潰せばよい」
だが、木下秀吉は少し違う表情をしていた。
秀吉は地図を見つめながら言う。
「問題は浅井長政でございます」
その名が出た瞬間、数人の武将の視線が動いた。
浅井長政。
近江北部を治める若き大名。
そして――
信長の妹、市を妻に迎えた男でもある。
つまり信長の義弟である。
しかし浅井家には、もう一つの関係があった。
それが朝倉家との古い盟約である。
秀吉が慎重に言葉を続けた。
「浅井家は代々朝倉家と同盟を結んでおります」
「もし浅井長政が朝倉側につけば」
「我らは挟撃されます」
部屋の空気が少し重くなる。
しかし。
その空気を断ち切るように信長が言った。
「長政は裏切らぬ」
断言だった。
信長はゆっくりと顔を上げる。
「妹が嫁いでいる」
「同盟もある」
「問題ない」
秀吉はそれ以上何も言わなかった。
だが心の中では、消えない不安が残っていた。
数日後。
織田軍は京を出陣した。
早朝。
太鼓の音が都に響き渡る。
ドン、ドン、と低く重い音が町の中を伝わっていく。
兵の列は果てしなく続いていた。
三万の軍勢。
槍の穂先が朝日を受けて輝き、無数の旗が風に揺れている。
その先頭にいるのが織田信長。
黒馬にまたがり、静かな表情で前を見つめていた。
軍の進路は北。
近江を通り、越前へ向かう。
行軍は順調だった。
各地の豪族は織田軍の勢いを恐れ、ほとんど抵抗しなかったのである。
やがて軍は近江北部へ到達した。
そこは浅井家の領地である。
山の上には巨大な城がそびえていた。
小谷城。
険しい山に築かれた堅固な山城である。
その城下町で、織田軍は一時の休息を取った。
やがて一人の武将が姿を現す。
浅井長政。
若く端正な顔立ちの武将であった。
長政は信長の前に進み、深く頭を下げる。
「義兄上」
信長は笑みを浮かべた。
「久しいな」
二人は並んで小谷城を見上げた。
長政が言う。
「越前へ向かう道は整えてあります」
「ご安心を」
その言葉を聞き、信長は満足そうに頷いた。
「頼もしい」
だが――
その夜。
小谷城の奥では、密かな会議が行われていた。
浅井長政は家臣たちと向き合っていた。
重臣の一人が言う。
「殿」
「本当にこのままでよろしいのですか」
長政は黙っている。
別の家臣が言った。
「朝倉義景は我らの盟友」
「百年近い友好があります」
浅井家と朝倉家は長い年月をかけて結ばれた同盟関係にあった。
それは単なる政治的な約束ではない。
誓いに近いものだった。
長政は深く息を吐いた。
「分かっている」
静かな声だった。
「だが……」
言葉が続かない。
義兄である織田信長。
そして盟友である朝倉義景。
二つの絆が、今まさに衝突しようとしていた。
長政は夜空を見上げた。
冷たい星が輝いている。
その光を見ながら、彼は小さく呟いた。
「私は……」
「どちらを選ぶべきなのだ」
一方その頃。
織田信長は陣の外で夜風に当たっていた。
遠く北の空。
その先には越前。
そして朝倉家。
信長は静かに言う。
「すぐだ」
天下への道。
その戦が、いま始まろうとしていた。
だが――
この戦は、思いもよらぬ裏切りによって大きく形を変えることになる。
まだ、この時の信長も知らなかった。




