結局、普段温厚な人が怒らせると一番怖いんだよね
かちゃかちゃと食器の触れ合う音だけが響く、私の家にしては珍しいくらいに静かな夕食だったと思う。もちろんお父さんはいないけれど、いつもは二人だけでも何かとおしゃべりしているのだ。っていうか、お父さんはいてもいなくても変わらない。あ、夕食に関しては、ってことだからね。経済面では必要だからね。…………それだと余計に可哀そうだね。
「どうしたの、梅乃~。晩御飯、全然減ってないわよ?」
やがてその空気に耐えられなくなったのか、ぱくりと豚カツを一切れ口に運んでから、お母さんが訪ねる。それでようやく、自分の箸が進んでいないことに気付いた。
「え、あ、うん。ごめんなさい、ちょっと考え事してて」
「そう? それだけならいいんだけど」
その表情から少し心配が伺える。こんなことではいけないと、すぐにしゃんと炊かれた白米を口に運んでもぐもぐするけれど。自分でも気づかないうちに、またお箸を茶碗の上に置いてしまっていた。
「ほら、やっぱり元気がないんじゃない?」
「あ……」
「いつもはお茶碗六杯くらいおかわりするのに」
「ど、どさくさに紛れて変なこと言わないでよぅ」
「あら~、てっきり読者に向けた小食アピールだと思ったんだけどぉ」
「め、メタ的な発言は控えるって反省してるんだからっ」
ふふふっとお母さんが笑う。
「ようやく、少し調子が出てきたかしら?」
「う、うん……」
気恥しくなって、私はもごもごと口ごもる。本当は分かっているのだ。自分に少し元気がないことも。その原因が何なのかも。
「何か話したいことがあるなら、お母さん聞くわよ。なんでも聞いちゃうわよ」
「えっと……」
その全てを誰かに話して、楽になりたいという気持ちもあった。でも、私はなかなか口をひらけないでいる。文学部のみんなは私がなんでも話せる大切な友達だけど、今の悩みだけは、あの四人に話をするのは躊躇われる。いつも頼りになる先生も同じだ。もしかしたら、私の相談は、文学部のみんなや先生に責任を感じさせてしまうかもしれない。
「私は梅乃のお母さんだけど、なんでも話し合える親友でもいたいと思ってるの」
だから、そのお母さんの言葉を聞いた時。
「おかあさん……」
「子供は親に甘えるものだし、友達には遠慮なく何でも話すものでしょ?」
どうして私はこんなにも身近に、心強い味方がいることに気付いていなかったんだろうと思った。なんでも遠慮なく話せる親友で、しかも、たくさん甘えてもいいお母さん。
「うん。ありがとう」
私はようやくそれを口にすることを決心できた。その勢いのまま私は続ける。
「実は最近ね、あんまりテスト勉強がうまく進んでいなくて」
「あら、そうなの? 今みんなと一緒に頑張っている最中だったと思うけど」
はて、と可愛らしく顎に手をあてて、お母さんは首を傾げる。
「そうなんだけど、皆に比べて、私の点数の上り方がそんなに良くなくて」
「まぁ……。先生は? 菅原くんはそのことについて何か言っているのかしら?」
お母さんの質問に、私は視線をテーブルに落とす。やっぱり自分が一番不安に思っているのはそのことなんだと思うくらいには、声が震えているのが自分でも分かった。
「うん。勉強では、足踏みもよくあるって。今はちょっとだけ我慢の時期だって」
少し思案する仕草をみせてからお母さんは告げる。
「先生がそう言うなら大丈夫なんじゃないの?」
「まぁ、そうなんだけど……」
私は膝の上で両手を絡めて、親指をくるくると動かす。何を言おうか、どう伝えようか、自分でもごちゃごちゃしているものを、整理しようとした。
「何か言いたげね。この際だから、ぜ~んぶ、お母さんに言ってみなさい」
意を決して私は大きく息を吸う。
「その、先生はそうやって優しく言ってくれるけど、実はがっかりさせてるんじゃないかな、失望させたんじゃないかなって」
あら、とそれを聞いてお母さんは大きく目を見開く。意外、だったのだろうか。
「う~ん、菅原君はそのくらいで、梅乃にがっかりするような人じゃないと思うけど。梅乃がいないところでも、よくあなたのこと褒めてくれてるのよ? そりゃ、ちょっともう、お母さんが嫉妬しちゃうくらい」
えっ、と私の気持ちが少し揺れる。先生が、褒めて? なんて言ってくれてるんだろう。そんな思いが一瞬だけ大きくなる。でも、またすぐに、後ろ向きな気持ちがむくむくと私の内側に広がって、たまらずそれを、お母さん相手に発散する。
「でもっ……。私が足踏みしてる間に、雪歩はどんどん難しい問題を解くようになるし、美月も順調に成績を伸ばすし、花凛なんて私たちの中で一番点数の伸びがすごいって、先生に褒められるし」
「うん、うん。それから?」
お母さんは、私の言葉を促すようにただ静かな相槌だけをうつ。
「この間なんて、わざわざ私の居ないところへ行って、雪歩と先生が二人だけで何か相談事してたし。……ちょっと前まではそういうのは、私の役目だったのに……。先生にずっと見てきてもらったのは私で、一番先生のこと知ってるのも私だと思ってたけど、もう皆より、期待されてないんじゃないかなって……」
「そっか~」
お母さんが腕を組んでいる。思っていたことを粗方吐き出した私は、顔を真っ赤にしていたかもしれない。穴があったら入りたいけれど、妙に清々しいような不思議な気分が入り混じっていた。そんな私に。
「なるほどね~。梅乃は菅原先生のこと、他のみんなに取られちゃうんじゃないかって気が気じゃないわけね~」
「へぁ⁉」
面食らって思わず変な声が漏れてしまった。それから、先ほどまでとは比べものにならないくらい、さらに顔が熱くなっていくのを感じる。
「ち、ち、ち、違うもんっ。そういう話じゃないんだからっ」
お母さんはさらにその羞恥心を煽るようなことを言う。
「そうかなぁ~。今の話を聞いてると、先生にがっかりされたらどうしようとか、みんなはちゃんと褒められてるのに私だけ見てもらえてないんじゃないかとか。そんなことばっかり気になって、梅乃が勉強に集中できてないんじゃないかなぁって、お母さんは思うんだけど?」
「うっ……。違うもん違うもんっ、お、お母さんの意地悪っ」
顔から火が出るほど恥ずかしくて。そんなわけないって必死に否定しながら。やけに冷静なもう一人の自分が、ああそうなのかもしれないって、私の頭の隅で呟いていた。
きっと、不安だったのだ。どんどん信頼関係を深めていく先生と、雪歩を見て。すごいと褒められるたびに、また成績を伸ばして褒められる花凛を見て。初めは怖いと言っていた先生に今では自分から質問をしに行く美月を見て。それなのに、上手く成績が伸びない自分の答案用紙を見て。
きっと先生にとって、もう他の三人の方が、私なんかよりよっぽど期待出来て教え甲斐のある生徒になっているんじゃないかということが。
「でもね」
そこですっと、お母さんの表情が見たこともないくらい真剣なものになった。
「菅原先生はそれくらいで、梅乃のこと見てくれなくなるような先生だったかな?」
「えっ……」
頭の中がごちゃごちゃして、咄嗟には返事を返せない私にお母さんは続ける。
「こう見えて、お母さんは初めから、結構厳しく菅原くんのことを見てたのよ」
「そ、そうなの?」
お母さんが厳しいと言ったら本当にそうなんだろうと、私はやや先生に同情する。
「当たり前でしょう? 大事な一人娘を預けるんだから。何かあったらすぐにでも警察に突き出してやろうと思っていたのよ?」
「お、おかあさん? それはちょっと『厳しい』の方向性が違うような」
「それでも先生はね、私が知っている限りではいつも真剣に梅乃のこと見てくれてた。ちゃんと梅乃の好きなものも、嫌いなものも理解しようとしてた。梅乃はそれを感じたことはない? 梅乃はそんな先生だから安心して信頼しているんじゃないの?」
「そ、それは……」
確かに先生は本当に私のことをよく見てくれている。それが嬉しいということは以前私自身が先生にも言ったことだ。でも今は、その先生が私を見てくれなくなるんじゃないかと思うから不安になるわけで。
「それにね、そんなに心配なら先生に直接質問してみればいいんじゃない? 先生はこれからも、ちゃんと私のこと面倒見てくれる気があるんですか? って」
恐ろしいことを、お母さんは言う。
「そっ、そんなの恥ずかしくて聞けるわけないよぅ」
「あらぁ~。だったら、ちゃんと責任取ってくれる気があるんですか?」
「それだと、誤解される。ぜぇ~ったい変な誤解をされるからっ」
「でも、もしそれで責任取るって菅原くんが言ったら、いよいよ本格的に式の準備かしらぁ~。菅原くん私の息子になるのね」
「ち、違うっ、私の、私の旦那さんだからっ……。ってああ、これも違う。とにかく私から先生にそんなこと聞くのはムリなんだからねっ」
するとお母さんはすっと、表情を緩めた。
「だったら、梅乃の言葉で、素直に思ったように聞いてみたらいいんじゃない? きっと菅原くんは梅乃が真剣に聞けば、真剣に、何も誤魔化したりせずに、ちゃんと答えてくれるはず。それは、梅乃も分かってるでしょう?」
「う……うん」
なんだか上手く丸め込まれている気もするけれど、私は疑いながらも頷く。
「ほんのちょっと勇気を出してみるだけで、今の不安の種は全部解決すると思うわ」
なおもにこやかにお母さんは言う。
「そう、なのかな……」
「もしそれで、先生から梅乃の求めるような答えが返らなかったとしても」
「か、返らなかったとしても……?」
そんなことがあったら、もう私は立ち直れないかもしれない。今気づいたけど、私は少し過剰なくらいに、すっかり先生に依存してしまっているのかもしれなかった。でも、お母さんがまた、今日みたいに励ましてくれるのなら……。
「私が、さく~っと一思いに菅原先生のこと懲らしめてあげるから大丈夫よぉ~」
いつの間にか、お母さんはすっと立ち上がって、台所から包丁を持ち出していた。その場でしゅしゅしゅと、フェンサー顔負けの素振りを三回繰り返してから、自分の分の豚カツにサクッと刃を入れて、その三分の一程を私のお皿に移す。
「さぁ、分かったらちゃ~んと食べて、勉強する体力つけないとね~」
う、うぅ~ん、あの素振りには何の意味が……。やっぱりこれ、お母さんには相談しない方がよかったのかなぁ。




