第1話 坂道:その坂は、過去と未来をつないでいた
本作は、現代を舞台にしたタイムSFです。
坂道と一匹の猫をきっかけに、少しずつ時間のずれが起きていきます。
第1話は、世界観の導入になります。
静かな物語ですが、少しずつ謎が広がっていく構成です。
短編〜連作として読めるように書いています。
気軽に読んでいただければ幸いです。
その坂は、地図にはちゃんと名前がついているのに、誰もその名前で呼ばなかった。
「ハル坂」と、近所の人間は呼ぶ。理由を聞かれても、誰も答えられない。坂の途中に猫がいるからだろう、とみんな思っている。それで十分だった。坂の下にはかつて、自転車屋に通う近道があったらしい、ということだけは涼太も聞いたことがある。今はもう、その道は途中で塀に塞がれている。
涼太は週に二度、その坂を使う。学校帰り、自転車を押して上る坂だ。傾斜は急だが、立ち漕ぎで上れないほどではない。一年前、ヒルクライムの大会で二位になった。それ以来、自転車部には行っていない。ゼッケンの番号だけは、まだ部屋の壁に貼ったままだ。今は押す。押しながら、いつも同じ場所で同じ猫を見る。
灰色と白の混じった毛並み。耳の先が少し折れている。坂の真ん中、ちょうど石畳が苔に変わる境目に、決まって座っている。
涼太は名前を知らない。誰かが「ハル」と呼んでいるのを聞いたことがあるだけだ。呼んでも来ない。逃げもしない。ただ、こちらを見る。
その日は、いつもと違うことがあった。
坂を上り始めたとき、猫はもう先に、いつもの場所で座っていた。いつもは涼太が苔の境目に差しかかってから現れるのに、今日は先回りしていた。
自転車のチェーンが外れた。涼太は舌打ちして、しゃがみこんで直そうとした。油で指が黒くなる。坂の傾斜のせいで自転車が傾き、何度もやり直す。
顔を上げたとき、猫がいなかった。
かわりに、坂の先に見覚えのない景色が見えた。
街灯の形が違う。電柱の上に、太い黒の電線が何本も渡っている。今はもう見ない形のものだ。空気の匂いも違う。煙のような、薪のような匂い。
涼太は自転車を放って、坂を数歩上った。
坂の途中、苔の境目に、猫が座っていた。同じ猫だ。耳の折れ方も同じ。
「お前――」
声をかけた瞬間、坂の下からエンジン音が聞こえた。今のバイクとは違う、もっと低く、もっと重い音。涼太は反射的に道の端に寄った。
通り過ぎたのは、古いオートバイだった。乗っていたのは、学生服を着た男だった。涼太より少し年上に見える。ヘルメットはかぶっていない。坂の上で止まり、振り返った。
「お前、見たことない顔だな」
「……すみません」
涼太はとりあえず謝った。何に謝ったのか、自分でも分からなかった。
「この坂、上って何してるんだ」
「猫を、追いかけてて」
男は坂の途中の猫を見て、それから少し笑った。
「ハルか。お前にもなつくのか」
「ハル……」
「この辺じゃみんなそう呼んでる。理由は知らん。昔からいるからだろ」
涼太は男の服を見た。詰襟の学生服。今はもう、この辺の学校にはない型だ。
「あなたは……」
「俺?俺はこれから試験だ。受かれば東京の大学に行ける」
男はそう言って、坂の先を指した。
「あっちに、まだ田んぼがあるだろ。あれが全部埋まって、町になるらしい。本当かどうか知らないけどな」
涼太は坂の先を見た。確かに田んぼがあった。今はもう、住宅とコンビニしかない場所だ。
「俺、本当は東京なんて行きたくない。ここで店をやりたいんだ。親父の自転車屋を継ぎたい。でも親父は、お前は頭がいいんだから外に出ろ、の一点張りでさ」
涼太は何も言わなかった。何を言えばいいのか分からなかった。
「でも、まあ。試験は受けるよ。受かったら、また考える」
涼太は自分の自転車を見た。サドルに、ずっと足をかけていない。
男はそう言って、バイクのエンジンをかけた。
「お前、自転車屋になりたいなら、今のうちにちゃんと修理覚えとけよ。チェーン、そんな外し方じゃ駄目だ」
涼太は自分の手を見た。油で汚れた指。さっきまで直そうとしていたチェーン。
「な、なんで分かるんですか」
男は答えずに、笑って、坂を下って行った。バイクの音が遠くなる。
風が変わった。煙の匂いが消えて、いつもの匂いに戻った。
涼太は坂の途中に立っていた。自転車は、さっき放った場所に、ちゃんと倒れていた。チェーンは外れたままだ。
猫がそこにいた。坂の苔の境目で、いつもと同じ顔をして、涼太を見ていた。
「お前、今の、見てた?」
猫は答えなかった。当然だ。
涼太はしゃがんで、チェーンを直し始めた。今度は、さっきの男に言われたやり方を、なぜか手が覚えていた。
その日の帰り、涼太は商店街の奥にある自転車屋に寄った。錆びた看板に「坂下サイクル」と書いてある。中から、年配の男が出てきた。
「チェーン、緩んでるんじゃないか」
「あ、はい。さっき外れて」
男は涼太の自転車を見て、それから涼太の顔をしばらく見た。
「お前、この辺の子か?」
「はい」
「変な聞き方するけど――ハル坂、通った?」
涼太は黙って頷いた。
男は何も言わずに、自転車を引いて店の中に入れた。涼太がついていくと、店の壁に古い写真が貼ってあった。学生服を着た若い男が、自転車の前で笑っている写真だった。
涼太は、その顔を見た。
坂で会った男だった。
「これ……」
「俺の親父だ。もう死んだけどな」
坂下は写真を見て、少し笑った。
「東京の大学、受かったのに、結局この店継いだんだ。なんでか知らんけど」
涼太は写真をもう一度見た。学生服の男の足元に、灰色と白の猫が写っていた。耳の先が、少し折れている。レンズの方を見ていない。何か、もっと別のものを見ている目だった。
店を出て、涼太は自転車にまたがった。サドルに腰を下ろし、ペダルに力を入れる。立ち漕ぎで、坂を上った。
店の外で、夕方の風が坂を吹き上げていった。
お読みいただきありがとうございます。
坂と猫から始まる小さな違和感を、少しずつ広げていくような話にしていく予定です。
大きな事件というより、日常の中に混ざる“ずれ”を描ければと思っています。
気軽に楽しんでもらえたら嬉しいです。




