サーリフ外伝・必然の偶然 5 (終)
それから4年、サーリフは西側諸国の宮廷や商工関連施設にて見識を深め、22歳でようやくクファールへ帰国することになった。
3年間の予定が1年延長して4年になってしまった。そのおかげで異国の言語や政治のみならず経済や文化にもかなり精通できたが、アスワドとの約束も後ろ倒しになった。サーリフは逸るような気持ちで帝都へと急ぐ。
留学中、驚いたことにナーラから手紙が届いた。しかも一度ならず何度も。
最初はサーリフの健康を案じるような当たり障りのない内容だったが、次第に日々の出来事や心の機微が綴られるようになり、サーリフも異国での出来事を書いて送ると嬉しげな返信が数か月後に届いた。
ナーラは他の貴族の子女相手に家庭教師をしたり、刺繍や代筆の内職をしたりして日々を励んでいるようだった。彼女にまた不穏な縁談が来ていないか別ルートで探らせてもみたが、噂すら出てこずサーリフは胸を撫で下ろしたりもした。教え子の男児に恋文を貰ったと聞いたときは閉口したが。
現地の仲間に聞いて負担にならない程度の贈り物を何度か送ると、美しい刺繍の施された手巾やストールが届けられた。それを使っていると仲間たちから称賛と笑いまじりの揶揄を送られた。心のこもった贈り物が、異国に暮らす知人へ向ける義理だったとしても嬉しかった。
実家に戻って身なりを整えると、ナーラに貰ったストールを身に着けてサーリフはアスワド邸を訪れた。出迎えたナーラがはっと目を見開く。
19歳になったナーラは相変わらず小柄ながらも、もう少女ではなかった。美しく成長した娘はこれまでの通り実年齢より幼げではあるが、十分に結婚適齢期を迎えていた。変わらぬ大きな目を潤ませてナーラがサーリフを見上げる。
「サーリフさん……、お元気で――!」
「……久しぶりだね。君も元気そうだ。……ごめん、ゆっくり話したいけどまずはお父上に――」
「……っ、はい。待ちわびておりますわ……!」
客間に通されると、4年前と同じようにアスワドが座っていた。少し皺が増えたがその威圧的な眼光には変わりがない。
案内されるまでもなく下座につくと、サーリフはきっちりと頭を下げて対面の感謝とそれが遅れてしまった非礼を詫びる。
「私の不明でナーラさんをお待たせしてしまい、申し訳ございませんでした。その謝罪にもなりませんが、選りすぐりのご青年方の身上書をお持ちいたしました。帝都にお住まいの実力者から、異国の貴人まで――いずれも容姿、内面ともに優れたお方々です」
「…………」
サーリフが差し出した何通もの身上書――婚約者候補の一覧をアスワドがぱらぱらとめくる。それを一通り見ると、アスワドは鋭い視線をサーリフに向けた。
「……一人、足りないようだが?」
「は? ……いえ、私がご紹介できるのはそれで全員――。申し訳ございません、ご満足いただけませんでしたでしょうか。でしたら他の方々を早急に選出――」
予想外の反応にサーリフが慌てて提案すると、アスワドはふんと鼻を鳴らし、表情を変えないまま告げる。
「『イクバール殿下の懐刀』が入っていないではないか。……貴様が1年延長したせいで、ナーラは立派な嫁ぎ遅れになってしまったぞ。この不始末、どう落とし前をつけてくれる」
「し、しかし――」
「1年延長となったのは貴様の希望ではなく、拠点としていたオケアノスの王宮で熱烈な引き留めにあったからだと聞いたぞ。語学堪能で世情にも通じた異国の俊才を自国へ帰すまいと。噂では姫君に求愛されて、あわや結婚させられそうになったらしいではないか。……私の情報網を甘く見るなよ」
「……! てっ、丁重にお断りさせていただきました……!」
ナーラにもイクバールにも話していなかった異国での出来事を暴露され、サーリフがぎょっと固まる。アスワドの隣のナーラも口を押さえて驚愕していた。……やめてくれ、彼女に聞かせたい話ではない。
「他国の宮廷からも欲しがられる男が、『殿下の懐刀』の二つ名を確かなものにしようとしている男が、私の娘にふさわしくないと誰が言った? ……ナーラもそれを望んでいる。覚悟を決めんか」
「――え。……えっ!?」
サーリフがバッと顔を上げると、ナーラが袖で顔を覆った。顔の代わりに耳が見え、そこが真っ赤に染まる。表情を隠したまま、ナーラはコクコクと頷いた。
「お父様ったら……。ひどいです、わたしより先に言ってしまうだなんて」
「お前に任せておいたらあと何年たっても話が進まんだろうが。……ナーラよ、この男ははっきりと言わねば伝わらんぞ。頭は切れるがおなごの心の機微にはまるで赤子同然だ」
「失礼ですよ。……あの、サーリフさん。差し出がましいお話ですが、もしまだお気持ちがわたしにあって、お嫌でなければ……わたしを、娶ってはいだけないでしょうか……」
予想もしていなかったアスワドとナーラの発言にサーリフは完全に思考が停止してしまった。首から顔が順に赤くなり、ドッドッと自分の心音が耳元で聞こえると徐々にその意味が浸透してくる。
大きく深呼吸をして気持ちを落ち着けると、サーリフは自らを見つめるナーラに問いかけた。
「ナーラさん……。私は、近いうちにイクバール殿下に付き従ってこの帝都から地方のジクラへ赴かねばならない身だ。太守の補佐官として殿下をお支えするために――。それでも、いいのかい?」
「もちろんですわ。サーリフさんが異国で何年も過ごされたのですもの。同じ国の中で違う景色を見るのに、なんのためらいがありますでしょうか」
頬を染めたナーラが小さな声で、しかしはっきりと言いきった。その視線が自分へと向けられていることに、サーリフは腹の底から熱くなった。
自分と同じ感情を相手が返してくれた喜び、そして思った以上のものを望んでくれていた嬉しさ――それがないまぜになって唇が震える。……あの幼き日の偶然は、すべてこの時のために。
心のままに再び手をつくと、サーリフはアスワドへ深く頭を下げた。
「ありがとうございます……! ありがとうございます。ナーラさんを、必ず幸せにします!」
その後はナーラの母親も加わって夕食を共にすると、サーリフはほろ酔いで帰路についた。
諸国での宴席でサーリフも酒には強くなったつもりだったが、アスワドは底なしだった。飲みすぎないように注意しながらも喜びは隠せず、上機嫌で門へと向かう彼にナーラが付きそう。
「今日はありがとう。……最高の気分だよ。今夜にも君の婚約者候補が決まるものだと思っていたから」
「たしかに決まりましたわ。……わたしも、嬉しいです。ずっと待っていたんです。サーリフさんのご活躍を伝え聞くたびに、異国でもう素敵な方ができてしまったかもと思いながらも、お手紙や贈り物をいただくのが嬉しくて――。痺れを切らした母から殿方を紹介されたりもしたのですが、実際にお会いするまでは諦められないと思って……待っていて良かった。サーリフさんが、変わらずにいてくれて良かった……!」
門の前でそんなことを言われ、想いが通じたばかりの婚約者のいじらしさと愛らしさにサーリフは悶絶しそうになった。しばらく感動に浸っていると、ナーラが「でも」と続ける。
「……どうして、わたしだったのですか? サーリフさんは優秀ですし、今回だって異国のお姫様に求愛までされて――。わたしのような、容色もぱっとしない平凡な女のどこに惹かれる要素が――。あっ、家ですか!? ごめんなさい、わたしには財産の相続権がなくて――」
「違う! ……違うよ。私が君に惹かれたときは、アスワド様のお嬢さんだとは知らなかったし――。君がたとえ平民の娘だったとしても、私は君に恋していたよ」
「ですから、それがなぜと――。きゃっ?」
サーリフはおもむろに懐からあるものを取り出した。突然目の前へ差し出されたそれにナーラが驚く。手のひらでキラキラと輝くのは、絹と金属でできた髪飾り――求愛を意味する贈り物だ。
「これを君に――。……お土産だよ。もしもの万が一があったら、贈りたいと思って――。スミレという花らしい。きっと君に、似合うと思って」
「サーリフさん……」
薄紫色の小さな花が散りばめられたそれは柔らかな絹製で、強い輝きを放つ金や銀よりもナーラに似合うだろうと思った。長くなった巻き毛の耳下あたりにそっと添えると、控えめな美しさがナーラを彩る。
ふわふわと揺れる髪を撫で、万感の想いでサーリフは告げる。
「西国には花ごとに花言葉というものがあって――スミレのそれは、『小さな幸せ』というんだ。君のその、謙虚で家族想いな優しいところに私は惹かれたんだ。もちろん、すぐ真っ赤になる愛らしい容姿にも」
「サ、サーリフさん」
「どうかサーリフと呼んでほしい。……ナーラ。確かに私は世界を見てきたよ。でも、どんなご令嬢も姫君も君には敵わない。世界で一番君が美しい。言葉を尽くして、一生伝え続けるよ。……君を愛している」
壊れものに触れるように小さな肩を抱き寄せると、身を硬くしたナーラがふっと力を抜き、ポロポロと涙を流した。サーリフが慌てて体を離すと彼女は泣きながら微笑む。
「サーリフ、それは褒めすぎで恥ずかしいわ。わたしもサーリフが好き……。どうぞ末永く、よろしくお願いします」
そうしてもう一度ぎこちなく抱き合うと、婚約者たちは月明りの下でそっと、子供のような口付けを交わした。
「――といったような感じでして……。きゃっ! こんなことをお話しするなんて初めてで恥ずかしいですわ」
そして現在。毎月恒例になりつつある自宅でのお茶会で、ナーラは椿とシャウラを相手に夫サーリフとの馴れ初めを語って聞かせた。椿の話を聞いたから次は自分……と自然な流れで出た話だったが、改めて言葉にすると照れくさくて頬を覆ってしまう。
食いつき気味でナーラの話を聞いていた二人は、顔を覆って悶絶していた。
「待って下さい、なんですかそのキュンキュンする話……! は~。あのサーリフさんが……。待って無理、ニヤニヤが収まらない……」
「これはこれは、当てられましたな。貴重なお話をありがとうございます。……いざというときの宝刀といたしましょう。そう、いざというときのね」
唇のニヤけが収まらない椿と、涼しい顔に悪い微笑みを浮かべるシャウラ。親友二人に挟まれてナーラが肩をすくめると、どこかプルプル震えているルムアが茶を注ぎ足してくれる。
「でも、お父様とサーリフさんのご関係は今はいかがなんですか? 厳しいお方みたいですけど」
「ああ、会話が弾むというほどではないですけれど、互いに帝都とジクラの情報を交換したりして、仕事仲間としては上手くやっているようです。それにアズハルが産まれてからは、初孫がよほど嬉しかったのかはるばる帝都から頻繁に会いに来て、サーリフそっちのけで孫を溺愛しておりますわ」
「わー。似た者同士な舅と婿……」
女同士のおしゃべりに興じていると、門が開いてサーリフが帰ってきた。客間に集う妻と友人たちにサーリフが頭を下げる。
「お帰りなさい、あなた」
「これは、ツバキ様とシャウラどのまで――。わざわざご足労いただき、ありがとうございます。……な、なんですか?」
「いえ、別にぃ? それじゃ私たちはそろそろお暇しますね」
ニヤ~、と二人から意味深な笑みを向けられてサーリフがたじろぐと、椿たちは礼を告げて退出していく。それを見送った後、昼寝から目を覚ました息子アズハルを抱えて戻ってきた妻を感慨深く見つめると、サーリフは重々しく頷いた。
「今日も私の妻と息子が世界で一番愛らしい。……ずいぶん楽しそうだったが、ツバキ様たちとなんの話をしていたんだい?」
「ふふっ。それはね――」
今日も今日とて天使のようなサーリフの愛しい妻は、悪戯っぽい微笑をその唇に浮かべた。
「あなたに出会えて良かったという話よ。アズハルも、お父様が早く帰ってきてくれて嬉しいと言ってるわ。ねえ?」
「ナーラ……!」
目の前には、この世で最も愛おしい存在。隣には生涯仕えるに値する主君とそれを共に支える盟友。そして背後には己の見識をかけて発展させ、次代へと引き継いでいきたい砂の国。
全力で向き合うべきものがこれほどある自分はなんと幸運なのだろう。そのきっかけは、小さな偶然の積み重なりで。しかしそれは必然だった。
皇子殿下の懐刀は、この世の幸福を存分に謳歌していた。
Fin.




