サーリフ外伝・必然の偶然 4
それから三日後の夜。不眠不休で対策を練ったサーリフはナーラの生家――大貴族アスワド邸の門を叩いた。
客間に通されると下座を案内され、上座にナーラの父アスワドが座る。そばに控えたナーラが申し訳なさそうな顔でちらりと見たため、サーリフは首を振った。
……別にどこに通されようとも構わない。面識もない自分が会ってもらえただけでも十分だ。
ナーラの父アスワドは司法省の副大臣で皇帝とも距離が近く、それゆえ娘も妃候補として有力視されていた。立派なひげをたくわえ、不正も虚偽も許さないというような鋭い眼光にサーリフの背筋は緊張で伸びる。
「本日はお時間を割いていただきまして、まことにありがとうございます。私は外宮で政務官をしておりますサーリフと——」
「前置きはいい。ナーラから聞いている。……ナーラの縁談を撤回させたいと言ったそうだが、それはどういった意図でだ?」
お前に割く余計な時間はないとばかりに、いきなり本題をアスワドが切り出す。
ここまでは想定内だ。サーリフは唾を飲み込むと平静そのものの表情と声で告げる。
「マイスール様とナーラさんの年齢差を鑑みてのことです。マイスール様は御年51歳。暮らしぶりは潤沢でたしかにナーラさんがこの先、生活に困ることはないでしょう。けれどあまりに年上で、失礼ながらいつまで結婚生活が続けられるかも分かりません。御子が授かれるかも分からぬ御身で、ナーラさんが早々に未亡人となる可能性もあるでしょう。そのような関係性は、私には健全とは思えないのです」
「年齢差のある夫婦など巷にいくらでもおる。ナーラも貴族の娘。その程度のことは覚悟しているだろう」
「本当にそうでしょうか? ……私はナーラさんと数度言葉を交わした程度の間柄ですが、お嬢様が情の深いお方だということは分かります。夫婦ともなれば、マイスール様をきっと大事にされるでしょう。そのお方に先立たれるかもしれない悲しみを若い身空で背負えとおっしゃるのは、あまりに酷ではありませんか?」
「…………」
サーリフは自身の恋心を、ナーラの縁談を阻止する理由とはしなかった。自分のような若輩者がたった数度会っただけで芽生えた想いで引き留めようとしても、アスワドは相手にもしないだろう。
なのであくまでもナーラのために、という一点で訴えることにした。娘を想う親心に響くかどうかは賭けではあったが。
アスワドが鋭い目でサーリフを見つめる。それに負けないよう胆力を込めて見つめ返すと、鼻で笑われた。
「……ふん。たかが下級役人の息子が分かったようなことを。イクバール殿下と歳が近いゆえ幼き頃より期待していたが、これは体も弱く、皇族との婚姻を自ら蹴った。そんな娘に今さら他の良縁が来るはずもない。それを分かって、マイスールも手を差し伸べてきたのだ」
「……っ。良縁がないだなんて、そんなことはあり得ません! おっしゃる通り、私は家柄も低く経験も浅い若造です。しかし、幼い頃より国の中枢に出入りし、イクバール殿下と共に教育を受けその殿下に手ほどきもしてきた幼馴染、次期皇帝の懐刀となる身です……! 私と殿下の思い描く国の姿には、弱みに付け込まれて泣く泣く婚姻を結ぶような不幸はあってはならないと考えます。少なくとも目に見える範囲で、知人がそのような事態に遭っていたら私は解決策を考えます」
「…………」
サーリフの熱弁にアスワドが目を細める。横のナーラははらはらと二人のやり取りを見守っていた。
「……ならば、その解決策とやらを言ってみろ。貴様が我が娘を娶るか?」
「……っ」
「お父様……!」
アスワドのもっともな提案にサーリフは目を見張り、ナーラは悲鳴のような声を上げた。
願ってもない言葉だ。だが――自分はまだそれを受け取る立場にない。サーリフは苦渋の表情で首を振る。
「いいえ……。今の私では、ナーラさんに満足のいく生活を与えることができません。……けれど! どうか3年だけ待っていただけませんか?」
「……3年?」
「はい。私は来週から、3年間の留学に出ます。いつの日かイクバール殿下が街を、そして国を治める立場になられたときに一番そばでお支えできるように。他国での経験は必ずや殿下の治世の、ひいてはこの国の発展の役に立つはず。以前より打診されていたのですが、その覚悟が先日ようやく固まりました」
「…………」
「そして人脈を得て、帰国の暁にはナーラさんにより良き伴侶を紹介すると約束します。ですからどうか……! どうか、今回の縁談はなかったことにしていただけませんか……!」
「サーリフさん……」
床に額がつくほど頭を下げ、懇願するとナーラが駆け寄りサーリフの隣に並んだ。そして同じように父親に頭を下げる。
「お父様……! わ、わたしからもお願いいたします。わたし、やっぱりこの縁談は嫌です……! まだ弟の成長も見たいですし、マイスール様との将来が思い描けません。お父様たちの期待に沿えず、殿下のお妃候補を降りたわたしがお荷物なのは重々承知しておりますが、わたしも働きますのでどうか今しばらくこの家に置いてください……!」
「ナーラ、お前まで――。……本当にそれで良いのか?」
「はい。家ではお母様を助け、それから外に奉公にも出ます。力仕事は難しいですが、そう……ですね、家庭教師や内職でしたらわたしにもなんとか――。とにかく、家の役に立てるよう頑張ります……!」
今まで反抗などしたこともないのだろう。ナーラの必死の訴えに初めてアスワドが驚愕の表情を浮かべた。
サーリフは二人の様子に驚きながらも、小さく震えながら顔を赤くしているナーラを気遣う。
「ナーラさん。体が弱いなら無理はしない方がいい。私が必ずいい人を見つけてくるから――」
「いいえ。大丈夫ですサーリフさん。体調を見ながらやりますわ。それぐらいできなくては、将来家庭を持ったときに困りますもの……!」
意外なほどの意志の強さでナーラが首を振る。不安げに頬を強張らせながらも気丈に彼女が微笑むと、サーリフは小さく頷いた。そしてナーラと再び頭を下げる。
「お願いいたします……!」
「……ふぅ。勝手にしろ。マイスールには一報を入れておいてやる。……あそこで私の提案に頷いていたら、すぐに貴様を叩き出していたところだ。首の皮一枚繋がったな。……私の娘を嫁ぎ遅れにするなよ」
並んで頭を下げる娘とサーリフに一瞥をくれ、アスワドが呆れたようにつぶやく。弾かれたように顔を上げると、サーリフはもう一度深く頭を下げた。
「はい……!」
客間から揃って退出すると、二人はほぅと息を吐いた。まだ興奮しているらしいナーラが息を整えるのを待って、サーリフは門へと向かう。するとナーラが切実な顔で見上げた。
「あっ、あの、サーリフさん! ……ごめんなさい。あんな風に頭を下げさせてしまって――。父を説得するためとはいえ、あそこまでしていただくなんて」
「え――。ああ、気にしなくていいよ。宮廷で働いていれば、誰かに頭を下げるのなんて珍しくもないことだし。それより、お父上が訴えを聞き入れて下さって良かった」
元より誇りを尊重されるような身の上でもない。誇りよりも今は大切なものがある。守りたい人がいる。そのために人に頭を下げることなど、屈辱でもなんでもなかった。
こともなげにサーリフが告げると、ナーラは大きな目に憂いを浮かべて続ける。
「留学されるというのは、本当に……? まさかわたしの件で、急いで行かなくてはならない事態になったのですか?」
「いや……。前から打診されていたのは本当なんだ。行く時期は迷っていたけど、踏ん切りをつけるいいきっかけになった」
「……っ」
――半分は本当で、半分は嘘だ。何が何でも絶対に行け、と言われていたわけではなかった。
だが自分が想定していたより何年も早く地位が必要になった。……実績と人脈が欲しい。彼女を守るために。それは心の底からの願いで、この決断に後悔はなかった。
胸の前で手を組み、ナーラがサーリフを見上げる。……ああ、今までで一番愛らしく見える。
この顔が見られるのもおそらく今晩が最後だ。西の数か国を周遊する長旅に備えて急いで準備を整えなければならない。そして彼女にふさわしい結婚相手を見つけてこなければ。
本当は自分がそれになれたなら一番いいのだが、ああ言った以上、ナーラが望む相手でなければ意味がない。
「私のことは気にしないでいいから、君はとにかく体に気をつけて。無理はしないでくれ。それじゃ――」
「ま、待って下さい……! 待って、あの――」
未練を断ち切るように顔を背けると、ナーラが高い声で呼び止めた。そのままあたふたと体を探ると、首から細いネックレスを外してサーリフに手渡す。星をモチーフにした、小さいが上質なペンダントだ。
「これを……! わたしが小さい頃から着けていたお守りです。ごめんなさい、突然だったからちゃんと用意もできなくて」
「いや、私は――。君の大事なものだろう。貰えないよ」
「違います。預けるんです……! 留学中、サーリフさんを守ってくれますように――。お願いします、持っていって下さい。そして絶対に返しに来て……!」
「ナーラさん……」
ペンダントを押し付けるように手を握られ、全身の熱がそこに集中したかのように熱くなる。サーリフは頷くと、今度こそ甘い誘惑を振り切った。
気が遠くなるほどに、長い離別の始まりだった。




