サーリフ外伝・必然の偶然 3
イクバールの生母、ラハディ側妃逝去。その知らせは2年後、サーリフ18歳のときに届けられた。
皇帝の寵を求めるあまりに凶行に走ったと噂され、夫と息子から距離を置かれた彼女の晩年は酒に溺れて寂しいものだったという。
それでも第一皇子を産んだ側妃として相応の規模の葬儀が執り行われ、国内外からの弔問客の対応に追われてサーリフは落ち着く暇もなかった。ようやくその務めから解放されて、帰宅しようと外宮を歩いていると人気のない一角に見覚えのある後ろ姿を見かけてはっと目を息を呑む。
「……ナーラさん?」
「? あ――。サーリフ、さん?」
低い位置の華奢な肩にかかる、忘れもしないふわふわの巻き毛。確信をもって呼びかけると、振り向いた彼女が大きな目を瞬かせる。2年ぶりに見たその姿に互いに目を見開いた。
(綺麗になった――)
弔問に来たらしいナーラは以前と背丈こそ変わらなかったが、顔つきが大人びてすっかり娘らしくなっていた。それでも実年齢よりは幼く見えるが、もう嫁いでもおかしくない年齢だ。
対するナーラも感心したように胸の前で手を組みサーリフを見上げる。
「お久しぶりです……。背がまた伸びたのですね。とても堂々としてらして、どなたか最初は分かりませんでした」
「そんなことは――。君は側妃様の弔問に?」
「はい。お会いしたのは数回ですが、昔は目にかけていただいていたので……。結果的に、ご期待には添えませんでしたが」
「…………」
2年前にナーラがイクバールの妃候補から外れたことは、サーリフももちろん知っていた。その後ひっそりと探らせて、ナーラの一族に不利益が及んでいないこと、そしてナーラがまだ誰にも嫁いでいないことまで把握していたが、それを本人に言うつもりはなかった。知人に対する域を超えている。
(我ながら気持ち悪いな……。職務上、イクバール様の身辺に注意を向けるのは当然のことだが、これはやりすぎだ)
ナーラに対して必要以上の関心を抱いてしまっていることを2年前からサーリフは自覚していたが、彼女にこちらから接触することはなかった。
なぜなら家格が違いすぎる。イクバールの妃候補にも挙げられた名門貴族の令嬢と、皇子の乳兄弟とはいえたかが下級役人の息子、しかも現状まだ若輩。妃候補から外れた彼女に身分違いの男がちょっかいでも出そうものなら、不名誉な噂の的にされるのは必然だろう。
(それに自分などが何かしなくとも、彼女のお父上が相応の縁談を見繕ってくる頃合いだろう――)
「……ナーラさん? 気分でも悪いか?」
弔問後ということもあるだろうが、ナーラの表情がすぐれないことに気付いて声をかけると憂い顔の少女ははっとしたようにサーリフを見上げ、ついで俯いてしまった。その眉が困ったように下がる。
「すみません、ご心配をおかけして。少し……疲れていて」
「大丈夫か!? 少し休むかい? 誰か付き添いは――」
「しばらく来ませんわ」
ぎょっと驚いたサーリフにナーラがゆっくりと首を振る。いかにも儚げなその様子にサーリフがハラハラと見下ろしていると、ナーラは黙り込み、そして困ったような笑みを浮かべた。
「すみません。駄目ですわね……。割り切ったつもりが、やっぱりまだ消化できなくて」
「……?」
「サーリフさんにお話しするようなことではないのですけれど、わたし、今度縁談がまとまりそうなんです」
「えっ……」
予想外の発言にサーリフは目が点になった。
――縁談。先ほどちらりと頭にはよぎったが、2年前よりもずっと現実味を帯びたその言葉に足元が一瞬ぐらつく。
「それは……おめでとう。お相手は誰だい?」
急にカラカラになった口を湿らせて引きつった笑顔で問うと、ナーラは複雑な表情でぽつりと告げる。
「マイスール様です。……ご存知ですか?」
「マイスール――。……えっ?」
記憶に刻まれている膨大な宮廷関係者たちの中からその名を探り当てたサーリフは、ヒュッと息を呑んだ。
――マイスール。名家ではあるが、政治的には特に目立つところもない男だ。だが年齢が、たしか50は超えていなかったか。
「ちょっと待ってくれ。彼のご子息ではなく? 親子ほど歳が離れているじゃないか。下手したら祖父と孫だ」
「そうですね……後妻をお探しされているようで、是非にと。我が家も弟がまだまだ幼いですし、万一のことがあったときに備えて父も後ろ盾が欲しいのかもしれません」
「そうはいっても、君の意思は――」
「……わたしは、殿下との一件で家の役には立てませんでしたから。仕方ないです。弟のためになると思えば、わたしの意思など小さなことです」
「……っ!」
二の腕を掴みながらナーラが俯く。その頼りなげな姿にサーリフの中で何かが焼き切れた。
この、すべての感覚が鋭敏に相手へと向かう気持ち。どうしようもなく惹かれて、相手の反応が気になってそわそわして落ち着かない感じ。イクバールやディルガームなど親しい彼らに向けるものとはまったく違う、焦がれる気持ち。
ディルガームは軍に入って遊びを覚え、毎日楽しそうだ。素人の特定の相手がいたこともある。
二つ下のイクバールでさえもディルガームにつられてそういった場へ出入りするようになり、妃候補やそれ以外の令嬢から思慕の情を向けられても上手くあしらえるようになっている。
けれど自分には、そういう感情は理解できないものだった。言い寄られたことはあるがどう対処するか分からず、黙り込んでいたら向こうが諦めて去ってくれた。文や贈り物を贈られても同様だった。
イクバールの幼馴染という立場の男を狙ってのものだったらまだ理解できる。それは野心だ。
分からなかったのは、何度つれなくしても根気強く文や挨拶を贈ってくる女性の気持ちだった。その瞳に浮かぶのはそう。今の自分と同じ、胸を焦がす――
(――恋だ)
「きゃっ! ……サーリフさん?」
「駄目だ……。その縁談、断ってくれ」
「……えっ!?」
気付けばサーリフはナーラの手を掴んでいた。突然の接触と唐突な申し出に、ナーラが大きな目をさらに見開く。
ナーラに会ったのはこれまでたった2回。短時間、言葉を交わしただけ。素性は知っていても、それ以外のことはほぼ知らないに等しい。それなのに。
一目見ただけで、話をしただけでこんな気持ちになってしまうなんて。彼女のことを、他の男に渡したくないと思ってしまうだなんて。
「知ってしまって、君が望まぬ相手のもとに向かうのを見過ごすことはできない……! 私がなんとか掛け合うから。君の父上へ説得に伺ってもいい」
「ど、どうして――。わたしたち、ただの知り合いですのに。そこまでしてもらうわけにはいきません。……ごめんなさい、わたしが変な話をしたばっかりに。サーリフさんはお優しいんですね。一度話をしただけなのに、こんなに親身になってくれるなんて――」
「違う! そうじゃない……!」
「……っ」
抑えてはいたが、たまりかねた咆哮にナーラがびくっと震える。女性の手を掴み、身長差もある若い男が名家の令嬢に迫っている。
誰かに見られたら確実にサーリフの首が飛ぶ。そうでもなくとも、イクバールの顔に泥を塗るだろう。だがそんなことも頭からすっぽ抜け、サーリフは前髪を掴みながら必死に言い募る。
「違う、違うんだ……。知り合いだからじゃない。君に幸せになってほしくて――。いや、違う。そうじゃなくて……ああ、もう!」
「……?」
なんと言ったらいい。的確な言葉が見つからない。俊才と持ち上げられて、出自はともかく将来を期待されているはずなのに何も気の利いた言葉が出てこない。
ナーラに不安げな目で見つめられ、サーリフはしどろもどろになりながら、か細く絞り出した。
「君が……好きだから……。……他の男のところに行ってほしくないんだ……」
「!?」
ナーラがぎょっと目を見開く。やがてその頬がボッと火がついたように赤くなり、己の失言をサーリフは悟った。対する彼も、耳まで赤くなっている。
――なんというみっともない告白。人に愛を伝えるのは、こんなにも難しい。
「あ――。わ、わたし……」
うろたえたようにナーラが視線をさまよわせ、サーリフは掴んだままだった細い手首を離した。ナーラが困ったように両手で口を覆ってしまうと、少し頭が冷静になる。
「……ごめん。君にその気がないのは分かっている。今のは忘れてくれていい。でもマイスール様のところに嫁ぐのはやっぱり止めたいんだ。君だって望んではいないんだろう?」
「それは――」
「お願いだ。君がいずれ本当に望む相手と結ばれるよう、今は君を自由にさせてほしい。あとで文を出すから……!」
「サーリフさん……っ!」
お付きの者か、ナーラを探す声が聞こえた。サーリフは振り返ると短く告げてその場を急いで立ち去る。
後に残されたナーラが、生まれて初めて胸を高鳴らせていることには気付かなかった。




