サーリフ外伝・必然の偶然 2
それから時は過ぎ、サーリフは16歳になった。元服を迎え、左胸に小さな刺青を刻んだのはいいが傷がまだ落ち着かなくて疼いている。
「つつ……」
「なんだ、まだ痛むのか。お前の刺青は小さいなあ。俺は来年、両腕にどーんと入れるつもりだぞ」
「私は文官志望ですからいいんですよ……。先達者として忠告しますが、両腕なんていっぺんに入れない方がいいですよ。夜眠れないです」
サーリフの前で腕を組んだのは、自分よりは小柄だが筋肉質なディルガームだった。大将軍の息子である彼はイクバールとサーリフの幼馴染でもあり、ここ数年は同じ師のもとで学んでいた。もっとも、最近ではもっぱらサーリフが先生役をしていたが。
「俺は右腕に刻むつもりなんだがなあ。脱いだ時によく見えた方が格好良くないか?」
「鍛えている方はそうでしょうが、細身で刺青だけ立派でも不格好じゃないですか? とにかく、私はこれで満足していますから」
14歳になったイクバールは身長もぐんと伸び、最近はディルガームと剣の稽古をしたりラクダで遠乗りに出かけるのがお気に入りだ。二人の体力にとっくに追いつけなくなっていたサーリフは、誘われることもなくなってしまった。
「しかし、お前も来週から宮勤めか。毎日会っていたのにつまらんな」
「まだ見習いですよ。それにあなた方の指南役でもありますから、ちょくちょく内宮にも顔を出します」
中庭の水盤に腰かけて足をプラプラしているイクバールに、サーリフは視線を向けた。
心身の成長著しいイクバールは聡明かつ快活で、体もいたって健康だ。この先長きに渡って仕える相手として、理想的だった。
乳兄弟で幼馴染ではあるが、これからは主従にもなる。大人になりつつある彼が間違った道に進まないように、自分が支えなければ――。そんなことを思われているとも知らず、イクバールはディルガームとの雑談に興じる。
(後宮のお母君――ラハディ側妃様とはほぼ絶縁状態だと聞いた。他に皇子もいないし、皇太子となることが確実なお立場ならそろそろ婚約者ぐらいいても良さそうなものだが……やはり母君が動かないと話が進みにくいものなのか?)
「そういえばイクバール。この前、広場で旅芸人の出し物を見かけたんだけどな。そこの踊り子が……すごかったぞ。でかかった」
「うん? 背か?」
「馬鹿、こっちだよこっち。いやー、たわわなのはいいなあ!」
「なにっ。……いいな、俺も見たかった」
(かと言って、尚早に正妃候補を立ててしまっても今後どう転ぶかも分からない……。異なる陣営からせめて二人ぐらい側妃を立てるのがひとまず安全か? できれば聡明で出しゃばらない令嬢を――)
「――なあ。なあサーリフ」
「……っ。なんです?」
将来の主君と国の大局を想って思考に沈み込んでいたサーリフは、イクバールの呼びかけにはっと顔を上げた。その将来の主君は、好奇心いっぱいのわくわくとした顔で快活に問いかける。
「お前は大きいのと小さいの、どっちが好きだ? ――あ、無論女の胸の話だぞ」
「……だまらっしゃい」
ため息をついてくだらない話を断ち切ると、内宮からちょうど侍従が呼びに来た。イクバールに二言三言告げて侍従が去ると、皇子は小さく顔を曇らせる。
「? どうかしましたか、イクバール様」
「ディルガーム、あっちで打ち合いでもしよう。サーリフ、悪いが俺の客人をしばらくもてなしてもらえんか。後から行くから」
「えっ。……ちょっ!?」
ディルガームの肩を叩いてイクバールがそそくさと行ってしまうと、中庭にはサーリフだけが残された。
誰が来ているかも分からぬのに、相手をしろと。まあ国内外の要人の接待も文官の仕事のうちに含まれるから、これも予行演習か――そう諦めて、しぶしぶ邸内へと足を向ける。
だが客間で待っていたその客人の姿を見たとき、サーリフはびくっと体を強張らせた。
(……っ。あのときの子だ……!)
侍従から、客人はナーラという少女だと聞いてもピンとこなかったが、特徴的な巻き毛を見た瞬間にすべてを思い出した。
相変わらず小柄ではあるが6年の歳月を経て年頃になった彼女は、今日は一人で所在なく椅子に腰かけている。その大きな目が入り口で立ち尽くすサーリフを捉え、少し怪訝に細められた。
「あの……あなたは?」
「あ――。申し遅れました。私はイクバール殿下の補佐……のようなものをさせていただいております、サーリフと申します。申し訳ありません、殿下はただいま剣の稽古をしておりまして……少々遅くなりますゆえ、私が先にご挨拶に」
「まあ……サーリフさん。はじめまして、わたしはナーラと申します」
ぺこりと丁寧にナーラが頭を下げる。初対面の人間に対するその態度に胸がチクリと痛んだ。
ナーラは自分のことを、覚えていない。もう6年も前のことだしサーリフ自身が一瞬で逃げ出したので当然と言えば当然だが、だったらなぜ、自分はこれほど鮮明に思い出せたのだろう。
(そうだ……あのとき、婚約者候補と呼ばれていた。その関係があれからも続いていて――。私が知らなかっただけで、イクバール様ともお会いしていたのだろう)
侍従に代わって茶を入れると、迷ったが無言で向かいの席に腰かけた。
イクバールの相手候補について、ちゃんと情報を仕入れておくべきだった。彼女がどういう立場で、親がどの勢力に属しているかも今の状態ではまったく分からない。
座ってみたはいいものの、会話の糸口が見つからず黙り込んだサーリフにナーラが鈴を転がすような声で話しかける。
「あの……もしかして、最近元服なさいました? 殿下が以前、幼馴染が先に大人になるのが少し羨ましいとおっしゃっていて――」
「あ、は、はい。ありがたくも宮廷内に末席を頂きまして――これからも引き続き、殿下のお側に侍らせていただけることになりました」
「おめでとうございます。……あの、敬語じゃなくて大丈夫ですよ。わたしの方が年下ですし、官職も何もないのですから」
「しかし——」
そうはいっても、婚約者候補になるぐらいだからおそらく大貴族の令嬢なのだろう。下級貴族の自分とは身分がまるで違う。
だが「年上の男性にかしずかれるのは申し訳ない」と全身で訴えているナーラに、サーリフは理性を腹の下に押し込めると小さく頷いた。しかし、年頃の少女の相手なんてほぼしたことがないため、どのような口調で話せばいいか分からない。
「分かったよ。ナーラ……さんもどうか楽に。ずっと待っているのも退屈だろう。イクバール様を呼びに行くかい?」
迷った結果、小さな子に対するような話し方になってしまった。さすがに失礼だったかとナーラの顔色を窺うが、彼女が気にした様子はない。
敬語が外れたからといって特に話すこともないため、せめて無為な時間が早く過ぎるようにと提案すると小柄な少女はゆっくりと首を振る。
「いいえ、待ちますわ。……いいんです。お互い周りに言われて会っているだけですし、快活な殿下にはわたしの相手はつまらないでしょうから……」
「そんなことは――」
寂しげに微笑んだナーラにたまらず否定の言葉を投げかけようとすると、彼女は手ずから茶器を取り、サーリフの杯に茶を注いだ。
「ですので、サーリフさん。もしお嫌じゃなければ、少しだけわたしのお話に付き合ってくれますか?」
「それは……もちろん」
「良かった。サーリフさんは甘いものはお好き? 殿下がいつもたくさん召し上がるので多めにお持ちしたんですが……良かったらどうぞ」
ナーラが手元から、手作りらしい焼き菓子を差し出した。イクバールのために作ってきたことが分かり、またチクリと胸が疼く。
「ありがとう。ナーラさんは内宮に何度も? これまで見かけたことはなかったけれど」
「いえ、年に1、2回ぐらいです。でも……今日を最後にさせていただこうと思って」
「……? なぜ」
個人的な交流をやめるということは、イクバールとの関係性が変わるということだ。イクバールが正式な婚約者を立てるというような話は聞いていない。
(もしかして、彼女自身がその対象者となるから、外聞を気にして今後はあえて接触を控えるとか――?)
「それは……まことにおめでとうございます」
「え?」
目の前にいる少女は近い将来、主君の妻となるのか。重い気持ちで、けれど表面上は穏やかに口調を敬語へと戻したサーリフにナーラがきょとんとした顔を向ける。
「いえ、おめでたくないですよ。お妃候補を辞退させていただこうと思っているんですから」
「……えっ?」
予想外の言葉にサーリフが目を点にすると、ナーラは困ったような笑みを浮かべる。
聞けば、ナーラはイクバールと一つ違いで、物心ついた時より彼の妃候補として育てられてきたが、長じるにつれてそれに違和感を抱くようになったのだという。
「な、なぜ? 恵まれた条件で、この国の令嬢なら誰もが憧れる立場なのに――」
「そうですね……。家族も友人もそう言います。でも、お妃なんて立場がわたしに務まるとは到底思えないんです」
「最初は誰でもそうだろうが、君だって長年教育を受けてきたんだろう? そんな、もったいないことを……」
じくじくと刺青のある胸が痛むが、一般論としてサーリフは助言した。だがナーラは思いがけずはっきりと、もう一度首を振る。
「殿下のお相手はわたしではいけないです。……わたしはご覧の通り、体格も良くないですし人前に立つのも得意じゃありません。殿下とお会いしていても、殿下にしゃべってもらうばかりで気を遣わせてしまいますし……。側妃として後宮入りして正妃を、そして国母を目指せと周りには言われますが、国どころか家の中のことしか知らないようなわたしが万が一そのような立場になっては、国のためになりません」
「……っ」
控えめな口調ながらも、もう何度も悩んで導き出したのであろうその「結論」をナーラは迷いなく口にした。儚げで強い意思など持たなさそうな外見に見合わぬ、しっかりとした訴えにサーリフは面食らう。
自分のことを客観視できていて、しかもイクバールの、ひいては国のために羨望の地位を辞退したいと言う。それは裏を返せば、国の将来を考えているということになるのではないか。
(それはそれでイクバール様にとっては惜しいと思うが――。だが、なぜ私は今ほっとしている……?)
ナーラが後宮入りする意思はないと聞いて、胸にじわりと安堵が滲んだ。……喜びの感情だったかもしれない。
不可解な感情の乱高下に眉を寄せるサーリフに、ナーラは申し訳なさそうに笑う。
「女の方からお断りしようだなんて、生意気ですよね……。でも父の立場上、我が家の方から辞退を申し入れるのは難しいでしょうから、殿下の方からお断りしていただこうと思って今日は一人で来たんです。殿下は話せば分かって下さると思いますが、母が一緒だと切り出しにくいので……」
「なるほど……」
大人たちの思惑はともかく、イクバールは早期に姻戚を結ぶことを望んでいない。その本人に訴えれば、ナーラの希望はおそらく通るだろう。彼女に不名誉を与えることのない相応の理由をもって。
イクバールが来たら、そっと後押ししておこう。そう決心してサーリフは茶を飲み干す。ナーラがそれを注ぎ足す。
「…………」
話題が尽きて沈黙が落ちる。……何か。何か話さねば。イクバールが来たらこの時間は終わってしまう。焦燥感に追われてサーリフは思考もまとまらないまま口を開く。
「あっ、あの……! ……しゅ、趣味はなんだい?」
「えっ?」
焦って意味不明な質問をしてしまった。きょとんと目を見開いたナーラは、サーリフが場を和ませようと気遣ったと勘違いしたのか、ほっとしたように表情を和らげる。
「そうですわね……最近はお料理の練習をしております。刺繍も好きなんですが、家の中が作品だらけになってしまって」
「すごいな。そ、それじゃ……最近何か気になっていることとかは――」
……やめろ。親しい仲でもないのに根掘り葉掘り聞くな。見合いでもあるまいし。
だがしどろもどろになるサーリフとは対照的に、ナーラはぱっと顔を輝かせると胸の前で手を組む。
「弟が! 可愛くて」
「弟?」
「はい。実は昨年、弟が産まれまして――歳も離れておりますし、母の手伝いをしているんですが」
「それは……おめでたいな」
「はい。もう弟というより子供のような感覚ですが、この一年の成長がめざましくて。赤ん坊とはなんと愛らしくて生命力にあふれた存在なのかと驚いているんです」
「そうか……子供が好きなんだね」
「はい! わたしも知りませんでした。わたしもいつか、可愛い子に恵まれたらいいんですけど」
ニコニコと笑うナーラにつられてサーリフも自然と微笑んでいた。それは彼にしては非常に珍しい表情だったが、ナーラはそれを知らなかった。
(……たしかにこの子は、宮廷で国の行く末を憂うよりも家の中で個人のささやかな幸せを求める方が合っている。何より、寵を競うような後宮での争いごとには巻き込みたくない――)
こんなに控えめで華奢な少女では、あっという間に後宮の闇に潰されてしまうだろう。まことしやかに噂される、イクバールの弟君たちの死の真相のように。
ナーラがそれに沈む前に自分で気付いてくれて良かった。そう思う心に少しのやましさが含まれることに、サーリフは気付かないふりをした。
それにしても、イクバールが遅い。いい加減呼びに行かなければナーラにも失礼だしこの後の予定にも響く。
茶を飲み干して立ち上がると、ナーラも同じく立ち上がる。そしてサーリフに深々と頭を下げた。
「サーリフさん、たくさんお話して下さってありがとうございます。ごめんなさい、話しやすくてすっかり引き留めてしまいました。サーリフさんみたいな素敵な方が殿下のお側にいて下さって良かった」
そうして向けられた無垢で可憐な笑顔に、サーリフは一撃で落とされたのだった。




