サーリフ外伝・必然の偶然 1
すべての偶然には意味がある、とサーリフは考える。
二歳下の弟が第一皇子よりも少しばかり早く産まれ、たまたま乳の出が良かったおかげで、しがない下級役人の妻でしかなかった母がまさかの皇子の乳母に抜擢された。そして、同じくしがない下級役人の長男でしかなかった自分が、皇子の乳兄弟という名誉ある立場にありつけることとなった。
そこにサーリフの意思や努力はなく、ただ「運が良かった」。それに尽きる。だがその説明できない偶然――星の巡り合わせが、運命を決定づけることもある。
サーリフ10歳のときだった。帝国の後継ぎたるイクバール皇子は、腹違いの第二、第三皇子と共に後宮ですくすくと成長していた。
乳飲み子時代を過ぎて後宮を辞した母は、それでもイクバールを案じて時折顔を見に行っていた。それにサーリフも付いていった。乳兄弟といってもその程度の間柄だった。
そんなある時、後宮で事件が起こった。事件、と誰もが大っぴらに言うことはできなかったがそれは明らかに事件だった。これまで健康そのものだった第二、第三皇子が相次いで病死したのだ。
当時すでに聡明と言われていたサーリフはそれを言葉に出すことはしなかったが、父母の様子から後宮内で何があったかを察した。その直後、イクバールが後宮を出て父帝の住まう内宮で暮らし始めたことを知った。
これからイクバール様は内宮にて、将来の皇帝となるべく教育を施される。そこにお前も同席するように。
そう父から言われて、逆らうすべはなかった。乳兄弟として、友人として、そしてサーリフの方が二歳とはいえ年長だから相談役として、いずれ皇帝となる皇子に付き従え。そう決められたのはサーリフの資質に加えて半分は偶然の導きだったが、帝国最高レベルの教育を無償で受けられるのは純粋に楽しみだったし幸運だと思った。
突然がらりと環境が変わったイクバールを心配して、喪が明けてすぐに母が内宮へ面会に訪れた。いつものようにそれに同行したサーリフは、そこで運命的な出会いをする。
「サーリフ。お前、俺と勉強するのか?」
「はい。イクバール様をお支えできるよう努力します。分からないことがありましたら聞いてください」
「ふぅん。俺は勉強より剣術の方が好きなんだけどな。ディルガームと最近会ってなくて、相手してくれる奴がいなくてつまらないんだ。一緒にやろうぜ」
「……えっ」
数か月ぶりに会った皇子は多少気落ちしている様子ではあったが、すでに何か吹っ切れたように今後のことを見据えていた。その切り替えを純粋に「すごい」と思ったが、皇子の提案はそれとはまた別の話だった。
そして数十分後、サーリフは無様に地面へ膝をつくことになる。
「ま、参りました……。すみませっ――、もう、無理です……」
「お前、弱いなー! あと体力なさすぎ。ディルガームより背ぇ高いのに」
「しょ、将軍家の御子と比べられても困りますが……。すみません、善処します……」
自分よりずっと小さな二歳下の皇子と木剣でやり合い、こてんぱんにされたサーリフは息も絶え絶えにつぶやいた。
ディルガームとは、現大将軍の跡取り息子のことだ。イクバールより一歳上の彼は幼少時から皇子の右腕となるべく鍛えられているので、サーリフの体力とは比べるべくもない。
呆れたように告げたイクバールはサーリフへの興味を失ったように木剣を放り出すと、キラキラした目で彼を誘った。
「まあいいや。じゃあ次は菓子でも食おうぜ。――あ、そういや今日、ナーラが来てるって言ってたな」
「ナーラ……?」
イクバールの後を追って内宮の、皇子に与えられた邸内へ入ると母が脇に控えており、テーブルに身なりの良い貴婦人とそして見知らぬ少女が座っていた。
その少女を見たとき、サーリフの頭上に雷が落ちた。青天の霹靂だった。
「……あ、あの、殿下……こんにちは」
「おう。久し振りだなナーラ。相変わらずちっちゃいなー」
「は、はい……」
イクバールと同じぐらいか、それよりも幼く見える少女は声を出すのもやっとという風情でそこにいた。
鈴を転がすような高くか細い声。柔らかそうな巻き毛に縁取られた小さな顔に、小動物のような大きな丸い目が二つ。恥ずかしげに伏せられた瞳がふと怪訝そうな表情でサーリフを見たとき、言いようのない感情が彼の体を突き抜けた。
「……っ!」
「あ、あの……?」
「どうした? サーリフ」
「すっ、すみませんイクバール様! 急用を思い出しましたので、本日はこれで失礼します!」
耳まで真っ赤になったサーリフはイクバールの許しも待たずにその場から逃げ出した。後から、慌てたように母の足音が追ってくる。
「——ちょっと! どうしたの、サーリフ。具合でも悪いの? 急用なんて何も——」
「すみません母上。具合——はい、そうかも……。気分が少し……。もう大丈夫そうですが」
「あなたにしては珍しいこと。殿下には非礼を謝っておいたから、後日またお詫びするんですよ」
「はい……」
下級貴族の妻だが皇子の乳母に抜擢されただけあって、母は多少のことでは動じない性格だった。多くは聞かず、サーリフに寄り添うと帰路につく。
サーリフはバクバクとうるさい心臓に困惑しながら先ほどの少女の顔を思い返していた。
(かっ、可愛かった……! なんか、ふわふわしてた。……なんだこれ。なんなんだこれ……!)
あの子のことを想うと胸が痛いほど高鳴る。……こんな気持ちは知らない。こんな現象も知らない。
少々、いやかなり不愛想ではあるが聡明であり、いつも比較的冷静な息子の落ち着かぬ様子にさすがの母も気遣わしげな視線を向ける。
「サーリフ、顔が赤いわよ。本当に大丈夫?」
「あ、あの、母上。先ほどの女性と女の子は誰ですか……?」
「え? ……ああ。殿下の婚約者候補とその母君よ。殿下が住まいを移されたのでご挨拶に見えたみたいで――」
「……皇子の婚約者」
「だから候補ね。……ちょっとちょっと、サーリフ! 今度は顔が青いわよ!? あなた本当にどうしたの!」
初めて心奪われた異性は、将来の自分の主君の相手候補だった。その事実に目の前が真っ暗になった。
哀れサーリフ少年の初恋は、本人がその感情に気付く間もなく始まってものの数分で砕け散ったのだった。




